ブックマーク / kfujiiasa.hatenablog.com (103)

  • 「会津みしらず柿」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    施設の俳句サークルの先輩から福島県会津若松地方で産する「会津みしらず柿」という皇室にも献上されるという名産品のお裾分けを頂いた。 現地に住まわれているご親戚から毎年贈られてくるとのことで、初めての貴重なものを味わせて貰うことになった。 漢字で書くと「身不知柿」となり、諸説ある名前の由来のひとつが、江戸時代当時の会津松平家当主が藩の献上品として将軍家に贈った際に「未だかかる美味なる柿を知らず」という賞賛の言葉を頂いたからだという説も有るらしい。 会津松平家23万石はよく知られているように3代将軍徳川家光の異母弟で名君として名高い保科正之(ほしなまさゆき)を藩祖とする。 〈保科正之は出生の事情から信濃の名族・保科家で養育され養家を継いだ〉 将軍家に忠義を果たすことを家訓とした御三家に次ぐ特別の家柄で、それが結果的に幕末の藩主・松平容保(かたもり)をはじめとする藩の行動を決定付け、戊辰戦争や明治

    「会津みしらず柿」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
  • もみじの紅葉の進み方 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    神戸・垂水に引っ越して来て隣接の健康公園で毎朝歩くことを心がけているが、沢山ある樹木の変化が目について結構楽しみになっている。 落ち葉の季節になって来たのでプラタナスとイロハモミジの2に照準を絞り定期的に写真を撮る定点観測をしているが、そのうちのイロハモミジが、同一の樹のなかで赤が進む部分と緑が残されて行く部分に大きく分かれていることが段々気になって来た。 通常紅葉は気温が一定以下になると進み日中の温度差も関係すると云われるが同一の樹の中なので温度の影響に大きな差があるとは思えない。 南側から対象のイロハモミジをみる 北側から 西側から 東側から 北側が最も緑が多い傾向なので、よく晴れた日にAM8時頃、10時頃、PM2時頃の3回太陽光の当たる状態を観察したが最も紅くなっている部分には常に光が注いでいるがまだ緑の葉の部分には、周りの樹や自分の枝葉に邪魔されて紅い部分ほど光が当たっていないこ

    もみじの紅葉の進み方 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
    uribouwataru
    uribouwataru 2022/11/20
    私も紅葉見に行きたいくなりました。
  • 「暗殺の幕末維新史」②中山忠光暗殺② - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    11月12日の続き 天誅組の挙兵が失敗に終った中山忠光は幕府の追及を逃れ文久3年(1863)10月三田尻(みたじり・防府)に上陸、急進的な攘夷派として同調する長州藩に亡命した。 亡命を受け入れた長州藩では支藩・長府藩に託し領内に潜伏させた。 元治元年(1864)7月「禁門の変」で京都から敗退した長州藩は朝敵となり、第一次長州征伐が発動された為、藩内は急進的な正義派が排斥され幕府に恭順を主張する俗論派が主導権を握ることになり、幕府から追われる忠光は藩の厄介者の存在になってきた。 この為幕府や藩から指示された(と推定される)長府藩は刺客隊を送り込み忠光を誘い出して謀殺し、忠光を病死と発表、関係者に箝口令(かんこうれい)をしく。 その後長州藩は内戦を経て政権交代が行われ、藩是が幕府に対し強気の「武備恭順」に転じると、墓碑や祠を建てて祀った。 明治半ば頃から暗殺の事実が一部に知られ始めたが、忠光

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  • 日本語・国語についてのあれこれ - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最近相当人物の入れ替わりが激しいが、なかでも存在感のあるひとりが後鳥羽上皇のアドバイザー「慈円僧正(じえんそうじょう)」、この振る舞いを見て以下を書くつもりになった。 慈円を演じているのは山寺宏一という方で、私は全く馴染みがなかったが声優などの世界では有名な方らしい。 数学者の新井紀子氏は読解力の大切さ、タレントで法学者の山口真由氏は国語力の大切さをマスコミなどを通じ折に触れて説かれている。 お二人の考えを聞く以前から、実生活を長い間生きてきての実感として思ったのが、読解力、文章力と言ったことも含めて、日語、国語、を深く身に付けることが如何に大切かが段々に自分自身分かってきたような気がしている。 振り返ってみると仕事趣味、社会生活といったなかでの「自分で考える」場面で、当たり前ながら自分の持つ日語・国語力、持てる言葉、語彙や文章の範囲内で考えている

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  • 「暗殺の幕末維新史」③長州藩内戦時の暗殺事件 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    今回もあまり世間には知られていない長州藩内の暗殺事件を書いてこの項の終わりにしたい。 これまでこのブログでも書いて来たように、幕末の長州藩では松下村塾系の人々を軸とした尊皇攘夷派いわゆる正義派と門閥系が中心で幕府に恭順することを是とする俗論派が主導権を巡って争った。 元治元年(1864)12月15日高杉晋作の挙兵で始まった藩内両派の内戦「大田・絵堂の戦い」では諸隊中心の正義派側が当時政権を握っていた俗論派を圧倒した。 この内戦を早期に終らせるべく中立派の藩士200名あまりが「鎮静会(ちんせいかい)」を組織、俗論派を交代させ挙国一致の政権を目指して斡旋を始める。 鎮静会代表が山口に出向き正義派諸隊と協議し萩に帰る途中、萩往還の明木(あきらぎ)で慶応元年(1865)2月11日俗論派に襲われ3名が殺される。 これを機に鎮静会員が萩城を掌握、俗論派を閉め出し併せて正義派諸隊も萩へ進軍威嚇した。 こ

    「暗殺の幕末維新史」③長州藩内戦時の暗殺事件 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
  • 「暗殺の幕末維新史」中山忠光暗殺①/立神あれこれ - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    一坂太郎著「暗殺の幕末維新史」中公新書版を読み終えた。 著者は長州藩の維新史に格別関心の深い歴史家で、奇兵隊や高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞などに関する他多数の著作がある。 確かにこの時期は暗殺が横行した時代で、外国人、安政の大獄関連、勤王・佐幕両派の争いなど著名なものだけでもたくさん挙げることが出来るが、暗殺未遂まで含めるとペリー来航から王政復古までのわずか十数年の間に100件を超す事件が発生しておりこれらを追跡することで著者は「明治維新を闇の側から辿ってゆきたい」と前書きに書かれている。 我が長州藩関連でも井上聞多(もんた・馨)暗殺未遂、世良修蔵暗殺、大村益次郎暗殺、広沢真臣暗殺、大楽源太郎暗殺等数あるが、ここではあまり世間に知られていない長州支藩・長府藩が関与したとされる公家・中山忠光暗殺事件について書いておきたい。華々しい活躍が表に出勝ちの長州藩維新史の裏の部分と云える。 実はこの事

    「暗殺の幕末維新史」中山忠光暗殺①/立神あれこれ - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
  • 映画「ワルキューレ」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    NHKBSプレミアムで放送された米・独合作映画「ワルキューレ」を録画しておいたがようやく見終わった。 以前ブログに書いた映画「パリは燃えているか」に有難いコメントがあり、トム・クルーズがカッコいい「ワルキューレ」を見たと付け加えられており、これは早々に見なければと思ってしまった。 敗色が濃い1943年のナチスドイツで起きた、ヒトラーを暗殺して戦争を早期に終らせる計画を題材にしたもので、実行犯シュタウフェンベルク大佐の名前と片眼を無くした風貌も併せ、このストーリーは何度も繰り返し映画化されている。 今回はシュタウフェンベルク大佐をそのカッコいいトム・クルーズが演じ周辺描写と併せてはらはらドキドキもあり臨場感ある映画になっている。 「ワルキューレ」とは来北欧ゲルマン民族神話で、戦士の神に仕え戦場で生きるものと死ぬものを決める女性神軍団らしく、想像するにも恐ろしい女性達だろうか。 この映画では

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  • 安里屋ユンタと十六夜(いざよい)のこと - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    先日中学の関西地区同窓会でカラオケをデュエットしたことを書いたがそのなかのひとつが沖縄民謡の「安里屋ユンタ」だった。 その3番は次の通り ♪︎♪︎サー田草取るなら 十六夜(いざよい)月夜 サーユイユイ 二人で気がねも やれほに 水いらず マタハーリヌ チンダラカヌシャマヨ♪︎♪︎ 話をするなかで同級生から「十六夜(いざよい)とは何か」と問われた。私はあまり深く考えもせず満月の十五夜の次の日で満月よりわずかに欠けた姿だと答えたが、自分でもこれではあまり答えになっていない気がする。 それでこの問いに対する答えを今一度整理してみる事にした。 十五夜は一般的には満月を意味しているが、俳句の季語などで使いまた行事としてその満月を賞するのは陰暦(旧暦)の8月15日の満月である。 十六夜も陰暦で巡ってくる新月から数えて16日目毎月の16日という意味と、季語にもなっているいわば特別の陰暦8月16日の月を表

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  • 映画「パリは燃えているか」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    NHKBSで放送された1966年の米、仏合作で有名なルネ・クレマン監督の大作「パリは燃えているか」を録画してようやく観終えた。 ルネ・クレマン監督は「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」などで著名で、おまけに音楽担当が「アラビアのロレンス」「ドクトルジバゴ」のモーリス・ジャールこれだけで圧倒されそうだが出演者がフランス側、アラン・ドロン、ジャン=ポールベルモント、イブモンタン アメリカ側、カーク・ダグラス、グレン・フォード、オーソン・ウエルズ、アンソニ-・パーキンス、ジョージ・チャキリス 等々リストを見るだけで疲れてしまう。 内容は第二次大戦のヨーロッパ戦線で、連合軍がノルマンディーに上陸を果たしてドイツに進軍するなか、ドイツに占領されていたフランス・パリをドイツの破壊から守ったフランスレジスタンス(抵抗運動)の活躍を描いた作品で、戦後の世代には馴染みの自由フランス軍の指導者として名高いド・

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  • 五木寛之/都はるみ「長い旅の始まり」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    私は現役時代全く歌やカラオケとは無縁で、子供時代からの音痴という自覚を引きずっていた。 それでも会社勤めをしていると逃げられずどうしてもカラオケを歌わなければいけないような局面があり、その為都はるみさんの「大阪しぐれ」を必死に練習して最後の切り札一枚にしていた。 歌の下手は相変わらずながら、リタイア後カラオケが苦にならなくなってからも先ず都はるみさんの「浮き草ぐらし」「千年の古都」「古都逍遙」などを練習するようになった。 作家の五木寛之さんは1932年の生まれなので私とは一回り以上の先輩になるが大作「青春の門」に代表されるその作品群は私の若い時代と共に在ったような気がして一時期夢中で読んだ気がする。 この度図書館でたまたま出会い借り出し読んだ「長い旅の始まり」東京書籍刊  はその五木寛之さんと都はるみさんの対談を取りまとめたものである。 一見全く縁が無いように見える二人だが図書館で平成15

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  • 中学校の関西同窓会 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    昨日は大阪北新地で約半年ぶりの同窓会に参加してきた。 山口県に住む女性2人がこれに合わせて関西に来て、こちらに住む2人と合流して女性組4人(尚、人達の自称は若草四姉妹!)で神戸、姫路と観光するとのこと。 同級生の皆さんには私のブログをいつも見て貰って時折感想が届き励まされている。最近ブログの中に植物の写真などを意識して入れるようになったのは同級生から「内容が硬い」と言われたことがきっかけである。 いつもブログのことで励まされ続けている人にも数年ぶりに会えて、直接感想や世間話近況も聞けて安心すると共に継続する上で更に励まされた気がする。 今回の参加者は全部で10名、この会の定例開催場所である北新地の山口県郷土料理をメインにした居酒屋で、お酒と共に手料理が出たが、ここで紹介したいのは、山口県では子供の頃から卓に有った平太郎(形が平べったいところから)という5cm位の小魚、骨までべる懐かし

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  • 招魂場(しょうこんじょう)あれこれ - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    私たちが通った山口県厚狭郡山陽町立厚狭小学校は旧厚狭毛利家居館の近く殿町(とのまち)地区にあり、その近く真東の物見山(ものみやま)山腹に「招魂場」があり校舎を見下ろしていた。 厚狭の象徴・シンボルを挙げるとすれば、松嶽山(まつたけさん)、厚狭川、その次が物見山かもしれない。 現在は厚狭護国神社とも呼ばれているらしいが、当時はあくまで「しょうこんじょう」という名前で呼んでいただけで、それが何を意味するものかは全く知らず何か怖いような印象が有った気がする。 このブログで何度も触れたように幕末長州藩は「禁門の変」「四カ国連合艦隊下関砲撃」「藩内戦」「長州征伐・四境戦争」など苦難が続き庶民も含む夥しい犠牲者を出した。 長州藩では領内20箇所に神霊を祀る「招魂場」を設け殉難者の魂を招いて慰める祭事が盛大に催されており、厚狭招魂場はその20箇所の内のひとつである。 10月20日のこのブログに詳しく書い

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  • メンテナンス・保全活動のこと - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    大阪八尾から神戸垂水の地に引っ越してきて約半年になり色々感じることがあるが、その一つが直ぐそばにある市営の「健康公園」の手入れの良さである。 毎朝歩いてお世話になっており、休日は家族連れや球技場を使用する人で賑わっている。 歩いたり植物の写真を撮ったりするなかで見ていると、公園の職員さんがいつも自転車でパトロールを欠かさず、また周辺の草刈りなども頻繁に行われている。 ・公園のメンテナンス作業の一部 歩径路の隙間の雑草取り(除草剤が使えず手作業) 落ち葉掃き 草刈り これらには相当なコストがかかっている筈だがこれを市民が理解しているということだろうか。 作家・司馬遼太郎さんには「風塵抄」という随筆集があるがその中の「病院」という章で誠に古い話ながら元米国駐日大使であったライシャワーさんが暴漢に襲われて日の病院に入院された時の状況を例にして、日の国公立病院の建物設備の汚さを挙げ役所が建物を

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  • 「私には山がある-大きな愛に包まれて」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    田部井淳子さんと言えば女性で初めて世界最高峰エベレストの頂上に立った人として有名で、2016年10月にガンで亡くなられた。 「東北の高校生を富士山へ」という、被災した高校生を富士登山に招待する活動を2012年から始められ、NHKTVで高校生と一緒に登るドキュメンタリーが放送され、そのときはもうガンの影響が身体に大きく出て途中でリタイアされたのが写し出されたのが印象に残っている。 表題にある田部井淳子著「私には山がある-大きな愛に包まれて」PHP研究所刊 を読み終えた。 このは2015年6月第一版第一刷となっており亡くなられる約1年前に発行されたもので当然のことながらガンが判明してからの心の動き、闘病、それでも可能な限り登山に挑み続ける様子も書かれている。 2014年10月にNHKBSプレミアムで放送された「100年インタビュー/登山家・田部井淳子」をもとにして構成、単行化されたものだと

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  • 旧日本軍の「軍隊手帳」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    旧日軍の「軍隊手帳」というものを初めて見させてもらった。正確には表紙に「軍隊手牒」と旧字体で書かれているもので旧陸軍兵の所持した形式、海軍は錨マークが入った別物があった。 旧軍はこの手帳の取り扱いを厳しく指導したとされ汚すことなどもっての他で内容の暗記も要求された。 入居している施設の俳句サークルに入っている方から参考にと父親の遺品を持参いただいたもので、このような手帳が有ることは知っていたが実物は初めてである。 内容を見ていくと 1、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ) 明治15年天皇の名で発せられたもので、過去の歴史から説き起こし軍人の分を示し、大正、昭和の代変わりの追加分もそれぞれ載っている。 明治15年の最初の軍人勅諭は故郷の大先輩で奇兵隊出身、明治陸軍の骨格を作った山県有朋(やまがたありとも)が主導したと言われ、そのせいか国民的人気はその功績に比して高くない。 2、心得 軍隊手帳の取

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  • 幕末雄藩列伝④加賀藩 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    以前同級生から何かの拍子に幕末維新に「加賀百万石は一体何をしていたのか?」と聞かれたことがある。 その時大きいからと言って変革に対応出来る能力があるとは限らないと答えた気がする。 戦国時代織田信長の家臣で豊臣秀吉の同僚でもあった前田利家を祖とする加賀藩・前田家は、支藩の富山、大聖寺を含めて加賀(石川県)、能登(々)、越中(富山県)の三国を領して119万石という断トツの大藩であった。 NO2が薩摩島津家の72万石、NO3が仙台伊達家の62万石でありその所領の大きさは他を圧していた。 幕末の舵取り十三代斉泰(なりやす)は将軍の娘を正室にしていたこともあり一貫して幕府寄りの姿勢を取り続けていた。 次代世子・慶寧(よしやす)は尊皇攘夷思想の影響を受けその側近にも尊攘派とも云うべき人材が集まり長州藩の関係者とも繋がっていた。 長州と幕府が「禁門の変」など京都を舞台に戦った際もその調停に尽力したものの

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  • 中島みゆき「ファイト」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    家内の買い物のアッシー役で勤務中に、時間待ち喫茶店でインターネットを繰っていたら元週刊誌・サンデー毎日編集長と称される潟永秀一郎さんが歌手・中島みゆきさんを評した 『「日のボブ・ディラン」の名曲の歌詞を読み解く』という文章に遭遇した。 前段で潟永さんは「中島さんは歌詞が凄すぎて」と言われているが私も全く同感で、中島みゆきさんは歌手としても凄いが、詩人、文章家としても一流に成れる人と思っている。 その中島さんの歌のなかで私も注目している「ファイト」を取り上げ、その成り立ちや中味について書かれている。 中島さんが深夜ラジオ「オールナイトニッポン」のパーソナリティーを勤められていたのは有名で、私も一部を聞いたことがあるが、歌詞の雰囲気と違うお茶目な話し方がとても印象に残っている。 「ファイト」の歌詞はその「オールナイトニッポン」に寄せられた少女の投書の内容からスタートしているようで、職場で自分

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  • 11月句会 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    昨日は自分にとって4回目(内一回出句のみ)となる施設内の俳句サークルの例会で12人が参加、来月からは各自5句に減らすらしいが今月までは7句を出す必要がある。 勉強も兼ねて出来るだけこのブログで日頃から俳句を書き出すようにしており、その中から7句を自分で選んでみた。自分の物を自分で選ぶというのはこれで意外と難しい。 ①【朝寒(あささむ)に 知らずのうちの 日向(ひなた)路】 ②【八連覇 遂げて退く人 惜しむ秋】 ③【黄落(こうらく)を無念無想で待つ銀杏(いちょう)】 ④【暮れ落ちて 夜景とコラボ 虫時雨】 ⑤【散髪を 終えて何処(どこ)へと 鰯雲】 ⑥【虫と鳥 デュオを背に聞き 秋歩む】 ⑦【須磨の浦 海苔網立ちて 冬を待つ】 参加者の評価で③と⑤を特選句に選んでもらい、①②④が一人以上の選句対象になり嬉しい結果と言える。 ③は、今綺麗な黄色い葉を付けている公園の銀杏は直ぐ目前にある自分の葉

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  • 幕末の「長州砲」追い求めて - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    日経新聞の文化欄で突然「長州砲」の文字が飛び込んできて目が釘付けになってしまった。 大阪学院大学の総合学術研究所長・郡司健(ぐんじたけし)氏が書かれた「幕末の長州砲追い求めて」という寄稿文である。 専門は会計学らしいが先祖が長州藩で大砲の鋳造を担当した二家のひとつで、先祖の歴史を自ら確認したいとこの道に踏み込んだとのことである。 このブログでも何度か触れたことがあるが、長州藩は朝廷と幕府が攘夷実行期日とした文久3年(1863)5月10日諸藩のなかで唯一下関海峡で外国船を砲撃した。この時の指揮に当たった下関海防総奉行を拝命したのが私の郷里厚狭を給領地としていた厚狭毛利家当主と嗣子であった。 この報復のために翌元治元年(1864)8月5日英米仏蘭4ヵ国連合艦隊が下関に来襲、各地砲台を占領した。この時の講和交渉に当たった代表の一人が高杉晋作で通訳が英国から急遽帰国した伊藤俊輔(博文)であった。

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  • 「幕末雄藩列伝」③土佐藩と肥前佐賀藩 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

    明治維新政府を構成した主要な旧藩を薩長土肥(さっちょうどひ)と呼びならわすことが多い。 薩摩長州は言うまでもないほど取り上げられているが土佐(高知県)山内家、と肥前(佐賀県)鍋島家は前二藩ほど取り上げられる機会が多くなく敢えてここに書かして貰うことにした。 土佐と肥前はどちらも幕末に英明を知られた藩主が出たことで表舞台に出てきたことで共通している。 土佐は第15代藩主山内豊信(とよしげ・容堂)で自ら「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と号した酒豪で藩政を吉田東洋に託しその結果後藤象二郎、板垣退助、谷干城などの上士出身の人材を輩出させた。 一方藩の成立時から伝統的に対立が深い下士出身は土佐勤王党を結成し対立しながら中央政局の一翼を担い、公武合体策や大政奉還などで土佐藩は主導権を握り、戊辰戦争にも板垣退助を中心に土佐兵は活躍して新政府に重きをなすことになる。 明治5年山内容堂は過度な飲酒がたたり脳

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