「TAP the CHART」第167回は、1990年代のR&Bシングルチャートを総括。 【1990s TOP 20 R&B SINGLES】 *ランキングはBillboardチャートのデータをもとに作成。( )内はリリース年。 ❶Nobody’s Supposed to Be Here / Deborah Cox(1998)
Home TAP the SCENE レッド、ホワイト&ブルース〜アメリカで葬られたBLUESが60年代にイギリスで蘇った - TAP the POP 『レッド、ホワイト&ブルース』(Red, White & Blues/2003/マイク・フィギス監督) 2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でもマーティン・スコセッシ監督が総指揮した音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『レッド、ホワイト&ブルース』(Red, White & Blues)。マイク・フィギス監督。BLUESに取り憑かれた英国ミュージシャンたちの熱い演奏とインタビュー、貴重な映像な
孤高のアイリッシュ・ソウルマン、ヴァン・モリソン(Van Morrison) さらに西へ向かっていくと、僻地性はより増していった。見渡す限り芝と岩だけで、風が強く、その風の音以外は、何も聞こえて来なかった。こんな荒涼とした風景の中に人が住んでいるとは、ちょっと想像がつきにくかった。横から吹いてくる風は、秋だというのに骨にしみるほど冷たく、どこか「あの世」のような感じなのだ。 2012年に亡くなった駒沢敏器氏の著書『ミシシッピは月まで狂っている』の第3章「酒と音楽しかない」は、どんなに分厚くて偉そうな文献よりも、アイルランドの時間的・音楽的風景を切ないほどに描き出していた。 このような、人知とは違う次元での何かが支配的な場所では、そこから生まれてくる音楽も違うものになるのは、当然のことかもしれない、と僕は実感した。人が人として音楽を作るのではなく、風景の中に宿っている何かに感応するように、人
『クロスロード』(CROSSROADS/1986) アメリカ南部ミシシッピ州の田舎町で2本道が交差して、一本の寂しげな木が立っている場所。人はそれを「クロスロード」と呼ぶ。例えば、クラークスデールのハイウェイ61号線と49号線が交差するあたり。 そこで野望を持った若きギタリストは、テクニックと作曲、名声と富を手にすることができる。だが忘れてはいけない。それは夜の零時の少し前だ。間違いなくそこにいること。そして手にしたギターを弾いてみろ。黒い大男がやって来て、ギターを取り上げてチューニングをし始める。大男はギターを一通り弾き終えると、黙ったまま返してくる。するともう、何だって好きなように弾けるようになる。ただし、悪魔と取引しなければならない。自分の魂と引き換えに。 1936年11月23日、テキサス州サンアントニオ。若きギタリストは古いホテルの廊下を歩き、ドアをノックする。白人の録音エンジニア
Home TAP the SCENE 夕陽のガンマン〜悪を裁くのは正義でもヒーローでもない。悪を始末するのは“成熟した流れ者”だ。 - TAP the POP 『夕陽のガンマン』(FOR A FEW DOLLARS MORE/1965) いつの時代にもやりたい放題の悪というものが存在して、それが謙虚に慎ましく暮らす人たちの脅威となる。正義を掲げて対抗する者もいるが、そのほとんどが邪悪な力によって虫けらのように片付けられてしまう。そんな時、待望のヒーローが突如現れて何もかもを解決する……これまで多くの映画やドラマやコミックで描かれて来た世界だ。勧善懲悪的な結末に、観る側のどんよりとしていた気分も晴れ渡る。 でも現実はそうだろうか? 絵に描いたようなヒーローなど存在するわけがないし、悪特有のずる賢さのもとに、次々と正義が買収されていくのは歴史が証明している。例えば、立派な志を抱いた若き政治家が
『レス・ザン・ゼロ』(LESS THAN ZERO/1987) 1980年代後半、日本でもちょっとした話題になったアメリカ発の新しい文学の動きがあった。それは「ニュー・ロスト・ジェネレーション(あらかじめ失われた世代)」と呼ばれ、新しい感覚を持った書き手たちが続々と衝撃的な小説を発表するようになった。この動向は当時、トラベル作家の故・駒沢敏器さんが編集者で参加していた頃の雑誌『Switch』が積極的に紹介していた。 アメリカには1920年〜30年代に「ロスト・ジェネレーション(失われた世代/迷える世代)」と称された作家たち(フィッツジェラルドやヘミングウェイなど)がいて、まさにその再構築的なムーヴメントだったわけだ。 ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』はNYを舞台にした20代のための甘い生活を描いた救済物語だったが、今回紹介するブレット・イーストン・エリスの『レス・ザ
以前、【テイラー・スウィフトだけじゃない! 美女揃いのカントリー歌手たち】という企画を配信しましたが、たいへん好評で今でも多くの方々に閲覧されています。加えて、ロック/ポップ分野での美女企画もぜひ!というリクエストもあり、今回はまず、1960〜80年代の美女アーティストを前編・後編に分けてお届けすることにしました。 本日はその後編です。 前編はこちらから。 *なるべく多くの美女を紹介したいので、20部門(前後編それぞれ10部門ずつ)を設けました。 *90〜10年代の美女については機会を改めて取り上げる予定です。 *本企画は昔と現在の容姿を比べるような主旨ではありません。 【グループ部門】 Wilson Phillips / ウィルソン・フィリップス チャイナ・フィリップス、カーニー・ウィルソン、ウェンディ・ウイルソンの3人組によるその名もウィルソン・フィリップス。チャイナはママス&パパスの
ロック界のVIPたちを少年の心に戻してくれたロイ・オービソン 「1975年に『Born To Run』を作るためにスタジオ入りした時、僕はボブ・ディランのような詩を書き、フィル・スペクターのようなサウンドを作り、デュアン・エディのようなギターを弾き、そして何よりもロイ・オービソンのように歌おうと努力したんだ」 1987年、ロックンロール殿堂入りの授賞式。ブルース・スプリングスティーンはそう言って 自身のアイドル、“ビッグ・オー”ことロイ・オービソンを少年のような興奮の中で紹介した。 それまでの栄光が嘘だったかのように60年代後半からはヒットも一切出ず、長い不遇の時代を送っていたオービソン。しかし、リンダ・ロンシュタットやJ.D.サウザーら様々なアーティストによるカバーやリスペクトを受けつつ、1986年にはデビッド・リンチ監督の映画『ブルーベルベット』に代表作「In Dreams」が使用され
死後40年経っても愛され続けるグレン・グールド(Glenn Gould) どんな形であれ音楽家を自認するなら、独創性がなければならない。オリジナリティが前提だ。 音楽は僕を世俗から守ってくれる。現代の芸術家に与えられた唯一の特権は、世俗から距離をおけることだ。 ❶グレン・グールドは“北”の人だった。 1932年9月25日、カナダのトロントで生まれたグールドは、世界的な有名人になっても北の地を愛した。都会での華やかなパーティよりも、静かな自宅に帰ることを選んだ。顔見知りとつるむことよりも、数少ない友人たちとのひとときを優先した。同じ芸術家と交流はせず、生涯独身だった。神秘的な存在でいたいという夢を見ることもあった。 ❷グレン・グールドは“信念”の人だった。 王立音楽院でピアノを学んだ。14歳でデビューリサイタルの機会を掴み、トロント交響楽団と共演してベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾いた。19
『ウェインズ・ワールド』(WAYNE’S WORLD/1992) ダン・エイクロイドとジョン・ベルーシの二人旅がきっかけで生まれた偉大なるバンド=ブルース・ブラザース。そんな彼らを生んだ人気バラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』(以下SNL)から、1989年に再びエクセレントな二人組が誕生した。 楽天家のウェインに扮するのはカナダ出身のマイク・マイヤーズ。そして小心者でロマンチストなガースに扮するのは物真似の天才ダナ・カーヴィー。というだけでも、エイクロイドとベルーシを彷彿とさせてくれるコンビだが、マイクは1989年より、ダナは1986年よりSNLのレギュラーとして活躍。 ウェインの自宅の地下室をスタジオにしたCATV向けのほとんど海賊放送という設定で、ロックとパーティが大好きな二人がホストになって毎回ゲストを招き(エアロスミスやマドンナも出演)、タイムリーな話題をギャグにする5分間の
『サタデー・ナイト・フィーバー』(Saturday Night Fever/1977) それは雑誌に掲載された1本の短編記事から始まった。 1976年6月、ニューヨーク・マガジンに発表された『新しい土曜の夜の部族儀式』は、作家のニック・コーンが街中のディスコを渡り歩いて、そこに集まる若者たちの生態を紹介したものだった。 これに目をつけたのがロバート・スティグウッド。 1960年代にマネージメント会社を設立して、あのクリームを世に送り出し、その後ミュージカル『ヘアー』『ジーザス・クライスト・スーパースター』の興行や映画『トミー』などを仕掛けて、ショービジネス界で成功を手にしていたプロデューサー。スティグウッドは73年に自身のレコード会社RSOを設立。エリック・クラプトンやビー・ジーズのアルバムを制作し、76年には映画製作にも本格的に進出しようとしていた。 『新しい土曜の夜の部族儀式』はスティ
キース・リチャーズにカントリーの真髄を伝承したグラム・パーソンズ 発掘中だった音楽の鉱脈を掘り当てた。グラムとの出逢いが自分の弾くもの、書くものの領域を広げてくれたんだ。そこから束の間の友情が始まった。長い間行方知らずだった弟と再会したような感じだった。今でも寂しくてたまらない。 1968年、キース・リチャーズは英国に来ていたグラム・パーソンズと出逢った。意気投合した二人は、キースの自宅レッドランズでひと夏を過ごす。キースはグラムからピアノを教わりながら、カリフォルニア州ベイカーズフィールドのホンキー・トンク(※1)音楽のメロディや歌詞をはじめ、カントリーの良質な部分(※2)を吸収していった。 「あいつがカントリーに蒔いた種のいくつかは今も俺とともにある」とキースが話すように、この出逢いが後になってローリング・ストーンズの珠玉のカントリーナンバー(※3)を生み出すことになるのは有名な話だ。
キース・リチャーズ(Keith Richards)の27歳 ブライアン・ジョーンズの死やオルタモントの悲劇など、激動の1969年を終えたローリング・ストーンズの次なる試練は、ずばり“金”だった。 驚くべきことにメンバー全員が破産寸前だったという。原因はバンドの財政を握っていた弁護士アレン・クラインとの金銭トラブル、そして当時のイギリスにおける高額な税金徴収にあった。 こうしてストーンズ一行は1971年4月、南フランスへ“逃亡”することになるが、母国を捨てることは、それまでのファンに愛想を尽かされるかもしれない。バンドにとっては致命傷になるとまで言われ、移住計画は大きな賭けだった。 しかし、頂点を迎えつつあった彼らは心機一転、自身のローリング・スートンズ・レコードを設立(ベロマークで有名)。キース・リチャーズ曰く「音楽のエリート集団に加わったような気分だった」R&B/ソウルの名門アトランティ
ピート・タウンゼンドが真冬に綴ったモッズ少年の物語『四重人格』 1973年初め。暗く冷たい、冬の週末の夜。 27歳のピート・タウンゼンドは自宅のコテージに一人座り、逆巻く川や隙間風の音を聞きながら記憶の旅に耽っていた。ここ数ヶ月もの間、家族や友人、バンドとステージにいる時でさえ、新しく生まれつつある“音楽と物語”のことが頭と心から離れない。しかし、今夜は違った。 1964年。私はアートスクールの友人と一緒に、ブライトンの桟橋の下で数時間眠ったところだった。友人の名前はリズ・リード。ストロベリー・ブロンドの可愛い子だった。 突如として、19歳だったあの日が蘇ってきた。二階には妻や子供たちが眠っている。ピートはノートをつかむと、何かに取り憑かれるように走り書きを始めた。この悲しくロマンチックな気持ちのまま綴りたかった。ジミーという名のモッズ少年の物語。ロックオペラ『Quadrophenia』(
★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第88回 6月23日、画家/イラストレーターの長岡秀星氏が心筋梗塞のため亡くなりました。享年78。ロックファンにはレコードジャケットのアートワークでも馴染みの深い方でした。一度見たら忘れられない世界。音楽と共に壮大な夢と旅をありがとうございました。安らかにおやすみください。 あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから アース・ウインド・アンド・ファイアー『All ‘n All』(1977) 大阪万博の仕事などを経て、1970年に渡米してハリウッドに自身のスタジオを設立した長岡秀星は、アルバムカバーや映画広告といった仕事を手掛けていく。「一人で絵を描くという孤独な作業を続けていた頃、西海岸に住んでいたお陰で私はモーリスと出会い、その後何作も共同作業をして素人なりに無我
★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第85回 「悲しくて美しい世界」とは、「損失や敗北を受け入れることのできる人間の姿」「それを糧に物事を始められる心の状態」のことだ。ここに紹介する男たち──トム・ウェイツ、エリック・クラプトン、グラム・パーソンズ、ハンク・ウィリアムスの歌や人生には、まさにそんな風景を見ることができる。 あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから トム・ウェイツ『Rain Dogs』(1985) アサイラム時代の歌の数々で、LAのナイトライフや場末の物悲しい風景を独特のしゃがれた声で綴り続けたトム・ウェイツ。アイランドに移籍後は、その風景がいよいよ映像的・舞台的になっていく。旅人が行く先々で見つめる風景や人々。酔いどれ天使は「Blind Love」でキース・リチャーズと肩を組んで歌う
史上最大規模のロックフェス『US FESTIVAL』(アース・フェスティバル) もし自分の好きな音楽のアーティストだけを集めて、大規模なライブやコンサートを開けたなら。会話レベルでも十分楽しそうな妄想だが、そんなことを私財を投げうってまで本当に実現してしまったら……それはとてつもなくクレイジーで、とんでもなく素敵なことだ。 そのクレイジーな男の名は、スティーヴ・ウォズニアック。 Mac/iPhone/iPod/iTunesなどで世界中の誰もが知っているアップル社設立メンバーの一人であり(社員番号は1番)、1977年のスタート当初から故スティーヴ・ジョブズの良き相棒として同社の知的良心を担ったエンジニア。技術力の高さと温厚でユーモア溢れる性格から、有名なお伽噺にちなんで「ウォズの魔法使い」と呼ばれる。 ことの発端は1981年。前年のアップル社の株式公開で1億ドル以上(当時のレートで約200億
『ジェームス・ブラウン〜最高の魂(ソウル)を持つ男』(Get on Up/2014) 「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ファンキー・プレジデント」「ショービジネス界一番の働き者」「ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン」などの愛称で知られるあの「JB」こと、ジェームス・ブラウンの伝記映画『ジェームス・ブラウン〜最高の魂(ソウル)を持つ男』(Get on Up/2014)。 ライブシーンが圧巻のエンターテインメント作品というだけでなく、これまでの数々の伝説の裏に隠された真実が描かれつつ、一人の苦悩する男の人間ドラマとして実に見応えあるストーリーとなった。 ジェームス・ブラウンは、俺にインスピレーションを与えてくれた。たくさんのことを彼から学んだよ。彼の動きを真似るということではなく、彼の態度、仕事ぶり、そうしたものを学んだ。彼が成し遂げたことを尊敬している。彼の伝記映画の作り手となれて光栄だ。
Home Extra便 B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ - TAP the POP B.B.キング(B.B.King)のブルース 少年時代のB.B.はある日、お金を貯めようと思いついて、舗道に座ってギターを抱えてゴスペルを歌うことにした。すると、通り掛かった男が立ち止まって聞き入りながらハミングをし始めた。いい兆しだ。気分が良くなったので次々と歌い続けた。 「神のご加護がありますように」 男は上機嫌でそう言った。B.B.も同じ台詞を返してチップを待った。 「なかなかうまいぞ、坊主」 「ありがとうございます」 「その調子で歌い続けるこった」 男は肩をポンと叩いて行ってしまった。他の人々のポケットからも1セントたりとも出てこない。そこでB.B.少年は方針を変更。別の日に世俗の歌を弾いて歌ってみた。歌詞など覚えていないので、自分で適当に作った。ゴ
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