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入水に関するyamaigaのブックマーク (14)

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 利賀村の栃折隧道 

    【周辺地図(マピオン)】 この村、ちょっと凄いぜ。 私が気でそう思っているのが、富山県西部の東礪波(となみ)郡に平成16年まで置かれていた、利賀(とが)村である。 今は、南砺(なんと)市利賀村を名乗っている地域だ。 何が凄いって? 右の地図を見て欲しい。 南北にとても細長い村域には、とにかく山と谷しかない。 しかも、村内を東西方向に横断しようとすると…山→谷→山→谷→山 である。 まるで“蛇腹”かと思うような起伏ぶりだが、高低差も大きく、海抜300m~700m範囲に集落が点在する。 また、村を囲む山の高さは1000mを越える。 この村の中心地区は利賀川沿いにあるが、東の百瀬川沿いにも、西の庄川沿いにも集落がある。 だが相互に往来するためには、必ずといっていいほど山越えをしなければならない。 東西には狭いはずの村だが、地形を見る限りその狭さを感じない。むしろ、東西の方が遠いくらいだ。 関東

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 鶏足山の大沢隧道

    2008年7月に「てんてん」さんからお寄せいただいた情報には、茨城県北部の城里町にて一の廃隧道を発見したという報告が含まれていた。 名称不明、由来不明、前後のルートも未解明、洞内の様子も貫通しているかさえ分からない。 情報は不十分であり、そこから隧道の正体をとらえることは難しかった。 だが、それだけに私は、この場所に対して強い興味を抱くことになった。 地図で見る東茨城郡城里町は、茨城県中東部、笠間市の北にある山間の地区であるようだ。 自身にとって、茨城県の東部は全く未体験の地である。 果たしてそこにはどのような廃道と、廃隧道が待ち受けているのだろう。 久々にプレッシャーの無い期待感を胸に、私は城里町へクルマを走らせた。 目指す廃隧道と思われるものは、最新の二万五千分の一地形図にも記載されている。 確かに前後の道は点線であり、廃道っぽい。 だが、すぐ傍に林道と思しき車道が描かれており、アプ

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 上品濃トンネル(未成)

    mixiの山行がコミュを通じてKubodi氏によってもたらされた情報をもとに、探索を行った。 横浜市戸塚区の上品濃(かみしなの)というところに、未完成のまま長年放置されたままになっていると思われるトンネルがあるとのことだ。 下調べもそこそこに、早速現地へ向かってみた。 その場所は、ここだ。【所在地】 2008/6/27 16:54 横浜市といえば、私が小学6年生までの幼少を過ごした思い出深い街である。 住んでいたのは鶴見区だったが、この戸塚区からはそう離れていない。 だが、東京移住から1年半を経っているのに、いまだ鶴見区には行ってない。 だからなんだといわれると返答に困るが、ともかく、土地勘はないが愛着は感じる。そんな状況での探索であった。 問題の場所は、JR横須賀線東戸塚駅から北西に1kmほど丘を登ったところで、地名は上品濃という。品のあるいい名前である。 周りには夏草の緑が目立つが、既

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 旧口野隧道

    当レポートが最後に辿り着く結論は、事実と異なる誤説です。 正しい事実をお知りになりたい方は、「おぶろぐ!(2010/1/22エントリ)」をご覧下さい。 一応レポートを最後まで読まれてから確認された方が、分かり易いかと思いますが…。 上の3枚の地形図は、同じ場所を示している。 【周辺地図】 明治、戦後間もなく、そして現在─。 この一世紀のうちに地上を席巻した人間の土木力は、その動線としての道路のみならず、川の流れや海の形、地形そのものまで大規模に改変してきた。 そんなことをありありと見せつける、僅か3キロ四方の地図である。 この中に、明治時代には既にありながら、戦後間もなく地図から消滅した、“足の速い”隧道が描かれている。 仮にこれを、平行位置にある現在の国道414号口野トンネルの旧トンネルと比定し、「旧口野隧道」と名付ける。 3枚の地図を一枚に重ねてみた。 そして浮かび上がるルートの変遷。

  • 【山さ行がねが】道路レポート  

    大崩海岸の廃道。 その道路下の岸壁。 そこに、“謎の穴”はある。 もよ~ん …無表情ですね。 一見、ただの排水口のようですが…。 なんで、こんな穴に入ろうと思ったのか…。 自分でも不思議である。 こんな法面やら路肩のコンクリート壁に穴があるのは珍しくないが、 今回みたいに「廃道の下」にでもなければ、入ろうなんて思わなかったに違いない。 おそらく、「廃道の裏のウラまで舐め回したい!」という、 オブローダーとしての私の執心が、この穴に身をねじ込ませしめたのだ。 そして始まる… ─大崩海岸 最終章─ 2008/2/25 14:04 この穴は、とても微妙な高さに口を開けている。 地面から2mほどの高さで、手を伸ばせば届くけれど、踏み込むのはちょっと大変。 もしもう1m上にあったら、梯子でもなければ入りようが無かっただろう。 私は、しゃがみジャンプでこの穴に入り込んだ。 穴は、初めの1mほどが極端に

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 湯ノ沢の謎の穴

    これまで、複数の山行が読者の方から目撃証言が上がっていた物件が、この地にある。 そこは、青森県と秋田県が北の動脈国道7号と奥羽線で結ばれている矢立峠の、すぐ北側。 弘前平野を潤す平川の源流の一端である、湯ノ沢の沢筋である。 目撃者は口をそろえて、林道と沢を挟んだ対岸に使われていない隧道が口を開けているのだという。 私が秋田を離れる少し前に、細田氏と行ってみた。 現地には未踏査の森林鉄道「碇ヶ関林道」が記録(明治39年竣工、延長3.9km)されており、その関連性が疑われた。 果たして、それは何だったのか。 この日は、私にとって秋田から行く最後の探索だった。 幾多の苦難と笑いを共にした細田氏との二人旅。 余り時間のない中での日帰り探索だったが、細田氏の運転で巡る旅はいつも最高に楽しかった。 この日探索したのは2カ所。ここと、夕暮れ過ぎまで粘った石川城址の謎の穴。 この年は初っぱなから雪の少な

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 真室川林鉄安楽城線 二号隧道 再訪編

    山形県北部、秋田県境に接する丁(ひのと)山地の一角に、かつて真室川森林鉄道はその役目を全うした。 真室川町は森林鉄道の保存に積極的で、同町の真室川町資料館では当時の機関車の動態保存が行われており、休日には多くの人で賑わっている。 保存運転が行われているのは、元来の線路とは全く別の新設された小さな周回コースであるが、かつての路線跡もまた、町内にはよく残っている。 その現状は、今から3年ほど前に何度か当サイトでもレポートしており、駆け足ながらもその概要を紹介している。 (参考レポ:廃線レポ「真室川森林鉄道(安楽城線)」・「一号隧道」) 真室川林鉄安楽城線には合計3、小又線には1の隧道が確認されているが、うち安楽城線の2号隧道は内部が水没しており、坑口から20m程度しか判明していない。 貫通しているかどうかも不明なままであったが、3年ぶりに再訪を果たしたので、そのレポートをお伝えしよう。 前

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 仙台市愛宕山の謎の穴

    人工120万を擁し、東北唯一の大都市といわれる仙台。 この都心である仙台駅からわずか1kmという地点に、「謎の穴あり」 という情報が飛び込んできた。 流石に人口綢密の地だけあって、この穴に関する目撃証言をネット上でいくつか拾うことが出来た。 しかしそれらはみな心霊スポットとしての情報ばかりであった。 それら“心霊情報”が語るところによれば、穴の正体は 1.戦時中の高射砲の基地 2.亜炭鉱山 3.藩政時代の抜け穴 4.防空壕   …etc など、多彩である。 また、それら情報の出所を踏まえれば当然とはいえ、一様に目撃者たちは「気持ち悪かった」「なにかいる」などと評しており、おそらくは都市のエアポケット的な地底空間なのだろうと思われた。 ただし、それらの情報は最新のものでも2003年頃までで、都市の中心部という立地を考えれば、現在も口をあけたままに放置されているとは考えにくいのではないか。 し

  • 隧道レポート 津軽森林鉄道 相の股隧道と六郎越隧道

    で最初に完成した森林鉄道は、青森県の津軽半島を走っていた。 明治39年に、日三大美林の一つに数えられる、津軽半島のヒバ林を効率的に運材する目的で着工された日初の森林鉄道は、明治41年 から利用が開始され、42年にはその線である67kmが完成に至った。 線上では当初から外国製の蒸気機関車が用いられ、その当時の主流であった筏流しや、橇、手押しトロッコなどを圧倒する運材力を遺憾なく発揮した。 その後も支線の開設が相次ぎ、県内のみならず日国内でも例を見ないほどの細密な、半島の隅々まで行き渡る路線網が確立されたのである。 運材料の全盛期は、大正3年頃であったという。 交通の立ち後れていた半島内の住民の足としても活躍した津軽森林鉄道であったが、昭和26年には国鉄津軽線の一部が開通、昭和30年代からは全国の例に漏れず、トラック運材への転換が急速に進み、その茫漠な路線網も次第に無用のものとな

  • 隧道レポート

    明治23年4月、東北線の前身である「日鉄道線」として、岩切・一ノ関間が開通している。 ここは主に宮城県から岩手県へと続く田園地帯を北上する区間だが、一ノ関手前に立ちはだかる有壁峠だけが、難所であった。 僅か高低差50mほどの峠であるが、当初ここには有壁隧道を頂点にした、最大16.7‰の勾配が控え、まだ非力だった機関車達を苦しめた。 しかし、大正13年には早々と現在の路線に切り替えられ、新たに大沢田トンネルが使用されるようになった。 こうして、他では例を見ないほど古く廃止された隧道が、永く地上に残されることとなる。 この有壁隧道の前後に残る廃線区間は、“その筋”では有名な廃線探索スポットであり、既に充分な調査が書籍などにまとめられている。 特に、お馴染み『鉄道廃線跡を歩く(第Ⅰ巻)』では詳細に紹介されている。 現地は、一ノ関市街から国道342号線を仙台方向に5kmほど南下し、小高い丘のよ

  • 隧道レポート

    以前道路レポで紹介した八久和林道だが、その時には断念した水没水位が高く、進入を断念した隧道があった。 今回は、その悔しい撤収劇から2週間後に成された、再調査の様子をお伝えしよう。 八久和林道については、道路レポの方をご覧頂きたい。 近年完成したばかりのあさひ月山湖の湖岸にそそり立つ和尚峠。 古くはそのすぐ南の仏沢が八久和川に注ぐ辺りには、弘法大師由来とも伝えられる由緒正しい寺院があったという。 しかし、ダムの建設が始まる遙か以前には、寺は無人となり、いつの間にかその甍も消え去った。 そして、いまや当時の道を含め、湖の底となってしまった。 和尚峠を越える道は、新しい石碑が立ち、それのみが峠を知らせる、峠とも思えぬ小さな坂と成り代わった。 ダムの工事が始まる以前にも、この峠を楽に越そうという努力は実を結んでおり、既に竣工年こそ不明ながら、車道が通じていた。 そして、その和尚峠越えの旧車道は、今

  • 廃線レポート

    遂に核心部への入り口を発見しながら、墜落の恐怖に敗れ退却した日より、ちょうど一ヵ月後。 再び私は、その橋の前に立っていた。 意を決し、橋へと踏み出す私。 鏡のような黒い湖面は、押し黙ったまま、私の挑戦を見つめている。 核心部への侵入が、開始された瞬間だった。 二人の同志との出会いが、森吉林鉄探索の歴史に、新たな一頁を刻む。 <作者注> レポートをご覧頂く前に、「道路レポ 森吉森林鉄道 邂逅編」及び「道路レポ 森吉森林鉄道 奥地編」をご一読いただいたほうが、お楽しみいただけると思います。 森吉町 阿仁前田 交差点 11月30日午前8時。森吉町阿仁前田。 ここに、森吉森林鉄道の完全攻略を目論む3人の男が会した。 一人は、パタリンさん。 幼き頃から山や沢に親しみ、オートモービル全般にも精通した彼は、今回の計画準備を中心的に担った、頼れる男。 彼の操るジムニーの助手席に、私はあった。 一人は、H

  • 【山さ行がねが】道路レポート 岩瀬秋町線 (御母衣湖右岸道路)

    右の地形図を見て欲しい。 これは最新の2万5千分の1図であるが、幅の広い水域を渡る一の橋が描かれている。 橋には「六厩橋」という注記がなされ、西側の岸辺には三角点がある。 「六厩」は地名で、これで「むまい」と読む。 橋を中心に3の道が存在する。 一は南西へ、一は北へ、一は東へ放射状に伸びているが、いずれの道も橋の周辺は「破線」で描かれている。 これらの道は、かつてトラックも通る林道だったが、現在は廃道になっているとのことである。 3が、3とも廃道になっているとのことである。 現在この橋がどうなっているかを知っている人は、かなり少ないらしい。 だが、そこには大変雄大な、訪れた誰もが息を呑まずにはいられないような巨大吊り橋が架かっているのだという。 この橋が存在する場所は、岐阜県高山市(旧荘川村)と白川村との境を流れる六厩川河口部である。 そこは、巨大な御母衣(みぼろ)ダム湖右岸

  • 【山さ行がねが】道路レポート  

    大崩海岸。 なんと直感的な名だろう。 誰しもがその名から容易に想像する険しい断崖絶壁は、“東海の親不知”とも呼ばれ、絶海を隔てて富士を眺める風流景勝の地であると同時に、交通の難所として日の交通史に存在感を示し続けてきた。 大崩海岸とよばれる約5kmの海岸線は、静岡県静岡市と焼津市の境にある。 南アルプスの南端が太平洋駿河灘に落ち込む、陸と海の鬩(せめ)ぎ合いの合戦場だ。 険しい場所ではあるが、内陸へ入ればそこには数千メートル級の山脈が連なっているため、沿岸地域は古くから東西日を繋ぐ交通の要衝であり続けた。 日武尊の時代から戦国、平安、そして江戸時代、明治・大正・昭和・平成まで、国の要となる大路がこの一帯を通過してきた。 徒道、そして鉄道、さらに自動車道へと形を変えながら。 近世以降、日最大の道であった「東海道」。 現在の国道1号は東海道をほぼ忠実になぞっており、海岸線から10kmほ

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