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2006とミリンダ細田氏に関するyamaigaのブックマーク (9)

  • 【山さ行がねが】ミニレポート 第91回 下山隧道

    2006年2月11日、私はかなり久々の体験をした。 その体験とは、廃隧道を発見するというもの。 いやいや、廃隧道自体は毎年たくさん発見しているのだけれど、今回の発見は、正真正銘の発見。 つまり、事前情報一切無しの、ラッキーパンチ、まぐれ発見というわけ。 思えば、一昔前なら山チャリで適当に走り回っているうちに廃隧道を発見するという体験はそこそこあったが、当然一度発見した隧道を二度発見できるわけもなく、しかも「全国隧道リスト」などという強力な事前情報を手に入れてしまうに至り、道路隧道に関してはほぼ、まぐれ発見というのが無くなって来ていた。 そんな最中、既に通ったことのある道で今まで気が付かなかった廃隧道を発見したのだから、まだまだ油断は出来ぬと気を引き締めた次第なのである。 そんな発見劇の舞台は、州最大の街、岩泉。 国道340号線と455号線の重要区間内でのまさかの発見であった。 今回の発見

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 湯ノ沢の謎の穴

    これまで、複数の山行が読者の方から目撃証言が上がっていた物件が、この地にある。 そこは、青森県と秋田県が北の動脈国道7号と奥羽線で結ばれている矢立峠の、すぐ北側。 弘前平野を潤す平川の源流の一端である、湯ノ沢の沢筋である。 目撃者は口をそろえて、林道と沢を挟んだ対岸に使われていない隧道が口を開けているのだという。 私が秋田を離れる少し前に、細田氏と行ってみた。 現地には未踏査の森林鉄道「碇ヶ関林道」が記録(明治39年竣工、延長3.9km)されており、その関連性が疑われた。 果たして、それは何だったのか。 この日は、私にとって秋田から行く最後の探索だった。 幾多の苦難と笑いを共にした細田氏との二人旅。 余り時間のない中での日帰り探索だったが、細田氏の運転で巡る旅はいつも最高に楽しかった。 この日探索したのは2カ所。ここと、夕暮れ過ぎまで粘った石川城址の謎の穴。 この年は初っぱなから雪の少な

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 大仏公園 謎の穴

    津軽地方の雄都・弘前。 都市機能が集中する弘前城周辺を除いては、豊かな緑が満ちている。 その西側は岩木山のなだらかな裾野で名物の林檎畑が連なり、東側は平川の沖積地帯で旨い米がとれる。 この平川は秋田県と接する十和田外輪山の清流を集め流れているが、平川が大鰐の温泉街を通り抜け弘前平野へと流れ出すその場所に、弘前市で二番目に大きな面積をもつ大仏公園はある。 この大仏公園には1つの都市伝説じみた話が伝わっている。 公園は城跡に造られており、その地底には城主が抜け穴として掘った地下道があるのだという。一説には弘前城にまで繋がっていると。 私のもとにもこれまで、この抜け穴に関する情報が複数の方から寄せられていた。 しかし何れも、都市伝説の域を出ない情報と言わざるを得なかった。 が、つい先日、弘前在住の「一児のパパ」さんから送られてきた情報は、一歩以上進んだものだった。 なんと、彼はいまから25年ほど

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 七影隧道 

    その存在は、とことん不幸で、不運だった。 関わった人々を終始振り回し続け、時に禍さえもたらした。 まるで、地上に存在を許されぬ、呪われた宿命がそこにあるかのようだった。 戦時中のごく短期間、最果ての津軽半島の山中に存在“しようとした”一の隧道は、まさにそのような存在だった。 その名は、七影隧道。 小泊磯松連絡林道(以下「連絡林道」と略)は津軽森林鉄道網の一部をなすもので、路盤には軌道が敷かれ、木材貨車を連ねたトロッコが運行していた。 おなじみ『全国森林鉄道 JTBキャンブックス』巻末資料によれば、昭和17年竣功、昭和46年廃止とある。 津軽半島の西にぴょんと突き出した小泊半島の基部を峰越で結ぶ、林鉄としては珍しいタイプの路線だ。 そして、標題の七影隧道は、この峠越えの区間に建設された。 しかし、結局供用の日は見なかった。 七影隧道について語る資料はきわめて少ない。 津軽森林鉄道と言えば、

  • 隧道レポート 尾去沢鉱山 煙道

    秋田県鹿角市は、十和田湖や八幡平、湯瀬温泉などの観光地に恵まれた、緑豊かな街である。 だが、市の中心地である花輪地区の西側に、まるで火山地帯のように赤茶けた、巨大な禿げ山がある。 それは、昭和53年に閉山した尾去沢鉱山の跡地である。 尾去沢鉱山は、県を代表する金属鉱山で、日有数の長い歴史を持っている。 その発見は、奈良時代の和銅元年(708年)に遡るという説もあり、ここで産した金が奈良東大寺の大仏鋳造に使われているとも云われる。 その後それぞれの時代の要請に応じ盛衰を繰り返しながら近世を迎えた鉱山は、やがて主な産出物を金から銅に変えるとともに、幕末には日三大鉱山の一つに数えられるほどに成長していた。 明治以降、遅ればせながら当地にも近代的鉱業が押し寄せ、現在も一部が残る大規模な鉱山建築物群が形成されていった。 尾去沢鉱山を通じての産出高のピークは、戦中の昭和18年で、

  • 【山さ行がねが】隧道レポート 仙台市愛宕山の謎の穴

    人工120万を擁し、東北唯一の大都市といわれる仙台。 この都心である仙台駅からわずか1kmという地点に、「謎の穴あり」 という情報が飛び込んできた。 流石に人口綢密の地だけあって、この穴に関する目撃証言をネット上でいくつか拾うことが出来た。 しかしそれらはみな心霊スポットとしての情報ばかりであった。 それら“心霊情報”が語るところによれば、穴の正体は 1.戦時中の高射砲の基地 2.亜炭鉱山 3.藩政時代の抜け穴 4.防空壕   …etc など、多彩である。 また、それら情報の出所を踏まえれば当然とはいえ、一様に目撃者たちは「気持ち悪かった」「なにかいる」などと評しており、おそらくは都市のエアポケット的な地底空間なのだろうと思われた。 ただし、それらの情報は最新のものでも2003年頃までで、都市の中心部という立地を考えれば、現在も口をあけたままに放置されているとは考えにくいのではないか。 し

  • 【山さ行がねが】隧道レポート ラサ隧道

    州最東端の街、宮古。 三陸海岸のほぼ中間地点に位置するこの港町は、内陸の田老鉱山との結び付きが深く、かつては重工業都市として有数の地位にあった。 しかし、昭和46年に同鉱山が閉山し、市街地に巨大な工場を構えていたラサ工業の高炉から火が消えると共に、街自体の活気にも衰えは隠せなかった。 現在は、県都盛岡の真東に位置し三陸交通や観光の地理的な中心地というの地位を活かし、また秋田-盛岡-宮古という北東北の新しい軸を発展の礎に据え、新生宮古市へ向けて発展の努力を続けている。 かつて繁栄を支えた精錬工業に活躍した鉄道が、いまも市内に二つの廃線跡として、その名残を留めている。 一つは、JR山田線宮古駅から閉伊川の河口部に沿って市街中心部を東西に横断、鉱石や製品の積み出しなどにも盛んに利用された宮古港に終点駅を置いていた、わずか2kmの貨物支線。 通称“宮古港線”である。 昭和19年に宮古港駅が開業し

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 小泊海岸森林鉄道

    青森県の片翼たる津軽半島を縦横に駆け巡っていた津軽森林鉄道は、北日最大の森林鉄道網である。 明治末から昭和40年代までに及ぶ同線の歴史は、豊富な森林資源を山奧に追い求めての延伸の歴史でもあり、末期には半島北端の竜飛(たっぴ)岬のすぐ南沢筋まで伸びていた。 県都である青森と津軽半島の北端とが、762mm幅という狭いレールで延々と結ばれていたのは驚きでさえある。現在車でも3時間近く掛かる距離だ。 この、津軽森林鉄道の路線網としてはもっとも北端に位置したのが、今回紹介する小泊海岸林道(以下、当レポートでは正式名である“林道”で呼称するが、内容は森林鉄道である)と、その末端の支線・片刈石沢林道である。 そして、この小泊海岸林道はおそらく全国でもただ一だけの「海岸林鉄」である。 来林鉄は、人手だけで木を運び出せないような山奧へ線路を延ばすものと相場が決まっているが、失礼ながら辺境のこの地におい

  • 【山さ行がねが】廃線レポート 大間線 序

    州最北の町、大間。 県都青森市から最短の陸路を使って約140km、車なら約3時間、鉄道とバスを乗り継いで行こうものなら日帰りが難しいほど。一方、津軽海峡を挟んで対岸の北海道戸井地区とは約30km、函館までも50km以内という、まさに州最果ての地に相応しい立地といえる。 かつて、この地を目指し建設が進められた鉄道があった。 その形状がよく手斧に喩えられる下北半島だが、この半島が鉄道の便に初めて浴したのは大正10年。半島の付け根にある野辺地から“持ち手”の部分の海岸沿いを伝い、半島最大の街であった田名部(たなぶ、現・むつ市)を経て、海軍の警備府が置かれていた大湊(現・むつ市)までを結ぶ、大湊線(現・JR大湊線)が開通したことに始まる。 当時、国政の主導権を掌握しつつあった軍部の意向は鉄道計画にも大きく影響を及ぼし、半島の突端である大間(大間町)に津軽海峡を防備するための要塞を建設する計画と

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