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思想と倫理に関するyanozのブックマーク (5)

  • 長期主義、AIめぐる議論を取り巻く「危険」なイデオロギー

    中国・上海で開催された世界人工知能大会(WAIC)に展示されたテスラのロボット(2023年7月6日撮影、資料写真)。(c)WANG Zhao / AFP 【10月29日 AFP】米シリコンバレー(Silicon Valley)で人気のある「長期主義(Longtermism)」という思想は、人類滅亡というテーマを軸に据えて人工知能AI)をめぐる議論の枠組みを提供してきた。 しかしここへ来て、「長期主義は危険」だと警戒する声が大きくなっている。人類滅亡という壮大なテーマにとらわれすぎ、データ窃盗や偏ったアルゴリズムなど、AIに関する現実的な問題を矮小(わいしょう)化しているという批判だ。 人類滅亡思想の歴史について著書がある作家のエミール・トーレス(Emile Torres)氏も、以前は長期主義に賛同していたが、今は反対の立場を取っている。 同氏は長期主義について、過去に大量虐殺やジェノサイ

    長期主義、AIめぐる議論を取り巻く「危険」なイデオロギー
  • 憐憫の行方 淵田仁(日本学術振興会特別研究員) - Prétexte : Jean-Jacques Rousseau

    Cependant pourquoi les ai-je écrites; est-ce pour moi seul ? Mais écrit-on pour soi ? J’ai de la peine à le croire. Quel est l’homme qui écrirait ses pensées, s’il ne vivait pas avec d’autres hommes ?Marivaux PDFでの閲覧はこちら 憐憫の行方ルソーにおける「憐憫」のためのノート 淵田仁(日学術振興会特別研究員) 1.憐憫の居場所 ルソーが自身の作品群で提示した様々な概念・着想のなかで、その〈取り扱い〉が困難なもののひとつに「憐憫 pitié」がある[1]。「私たちが苦しんでいる人たちを見て、熟慮することなく彼らを助けるよう私たちを仕向けるもの」[2]という憐憫は、自然状態においてだ

    憐憫の行方 淵田仁(日本学術振興会特別研究員) - Prétexte : Jean-Jacques Rousseau
  • 斎藤環から茂木健一郎への手紙 「連載 脳は心を記述できるのか」について

    「連載 脳は心を記述できるのか」について 以下の斎藤環さんの手紙は、来、茂木健一郎さんと「脳は心を記述できるのか」というテーマで往復書簡をおこなうという前提で書かれたものです。残念ながら、いまだに茂木さんからの復信は来ておらず、この連載企画は第1回で頓挫しております。 いずれにしても、マスコミが茂木フィーバーとなっている現状で、ここまできっちりと茂木さんに懐疑的な意見を表明した斎藤さんに敬意を表しつつ、この第1回分の手紙については掲載しつづけることにいたしました。 では、以下は斎藤さんから茂木さんへの手紙です。 第1信  「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環) はじめまして はじめておたよりします。斎藤環と申します。 茂木さんの著書は何冊か読ませていただきましたが、その精力的な活動のすべては、とうていフォローし切れていない点をまずお詫びいたします。 そのかわりといってはなんですが、妙

    yanoz
    yanoz 2009/11/29
    斉藤環>茂木健一郎
  • 簡単にまとめ - apesnotmonkeysの日記

    きちんと論点を整理したエントリを書くつもりだったのですが、なんと相手が「俺の真面目な話」を別に真摯に聞いてもらわなくても構わないというひとだった、ということが判明したので、当初の予定よりも簡潔にすませます。丁寧に論拠を挙げるといった作業は省略します。なんせ相手が真摯に聞いてくれそうにないですし。 (1)私の主張とは? 「古典的な自由主義の原則を想起させれば議論は終わり」、あるいは「現行法以上の法規制は問題外、してはならないだけでなくそもそも議論にも値しない」といったタイプの議論はダメダメだ、ということ。それも二重の意味で。 法的に許容される表現と許容されない表現についての現在の(日における)線引き、裏を返せば表現による被害のうち法的な救済の対象となるものとならないものについての線引きは、はじめからある種の被害については法はタッチしないことを予定している。しかしそうした被害も、現行法で刑事

    簡単にまとめ - apesnotmonkeysの日記
  • ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去

    また南京事件で盛り上がってますね。 中国は南京事件政治利用しているという人がいますが、少なくとも日中国交正常化以降、中国が南京事件に関して「謝罪と賠償」を要求したことは一度だって無いし、毒ガス問題など個別イシューを除けば日中間で歴史認識が政治問題になっているのは唯一靖国くらいのものですが、もちろん中国は南京事件があったことをもって靖国神社への参拝に反対しているわけではないのです。 さて、この問題が蒸し返されるときにはきまって、南京事件あったかなかったか「どうでもいい」と思っているのに南京事件「論争」にはいっちょ噛みたいと思っているのが多すぎるのが問題をややこしくしていると思うのですが、それはポストモダニズム系リベラルの問題として表すことができるかもしれません。 つまり、劣化版東浩紀です*1。 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20081215/p1#c122932

    ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去
    yanoz
    yanoz 2009/06/09
    応答責任のアウトソースは可能か、という論点から、東浩紀的ポストモダン論の倫理性を位置づけようとしている。整理作業として優れていると思った。倫理観の押し付けではなく、呼びかけになっているのが好印象。
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