ブックマーク / dlit.hatenablog.com (5)

  • 人文系の文献の取り扱いとか業績についてちょっとだけ - dlitの殴り書き

    追記(2018/10/09 20:40ごろ) 記事の公開後だいぶ経ってから思い出したのですが,下記の記事で「まず査読付き論文誌を探す」ことを推奨していたり具体的な雑誌名を挙げていることに気付きました。これこそ良い具体例だったのに最初に示さなかったのはもったいなかったというか,早い段階で読んでいただいた方々には申し訳ないです。言語学・日語学の中でも「日語を対象にした文章研究」というやや狭いトピックですが,著書,論文集や紀要論文との付き合い方についても書いてあるので興味のある方はどうぞ。 dlit.hatenadiary.com はじめに 私の専門は言語学(日語)で研究・教育関係で他の人文社会系や理工系の研究・文化の一部に触れることがあるぐらいなのだけれど(あとアカデミックライティングに関わっている関係で他分野について調べることもある),その狭い範囲ですらいろいろな違いがあってとても「人

    人文系の文献の取り扱いとか業績についてちょっとだけ - dlitの殴り書き
  • 「人文学はサイエンスではない」ということで良いですか? - dlitの殴り書き

    はじめに 下記の発言によると,「人文学はサイエンスではない」ということですが,他の人文系の研究に関わっている皆さん,それで良いですか? ※この記事では「サイエンス(的)」が何/どういうことを指すのかという点については踏み込みませんが,私が気にしているのは上記発言の直後にある「「新しいことを発見する」のではなく」という点です。 該当するのは以下のうち3つめのツイートですが,前後の文脈もはっておきます。 人文学って色々あるけどその質があるとしたら「人類や社会の記憶を保持すること」やと思うねん。人間が記憶を喪失したらそのアイデンティティは変わってしまう。人類社会のアイデンティティの保持が人文学の機能です。人格とか変えてしまっても今の快楽を享受したい人が人文学を嫌うのはある意味当然— 増田聡 (@smasuda) 2018年1月24日 オレがやってるような同時代的な現象の研究も、かつて考えられて

    「人文学はサイエンスではない」ということで良いですか? - dlitの殴り書き
  • 「ないべき」の話についてちょっとだけ補足(+否定に関する読書案内第2弾) - dlitの殴り書き

    ほとぼりが冷めたようなので(?)、少し補足を書いておく。 現象自体は下記のツイートにまとまっているので、リプライ等も参考にして下さい。 昨日の研究会でいちばん盛り上がったのはモダリティ要素と否定の作用域関係のところで(特に)若年層では「ない」が「べき」の節内に生起するパターン(例:リンゴはべないべきだ)を完全に許容するという話を紹介して教員陣に衝撃が走った瞬間でした 一方で学生陣は「何が問題なのかわからない」と— Takumi TAGAWA (@dlit) 2017年2月2日 けっこう多くの人に衝撃が走ってるようなのでもう一つ報告しておくとこれを許容する話者の多くは形容詞のイ形も「べき」の節内に生起可能なようです(例:教師は賢いべきだ) https://t.co/YtdZ75tg1Y— Takumi TAGAWA (@dlit) 2017年2月2日 あと、丁寧に説明するとたいへん長くなる

    「ないべき」の話についてちょっとだけ補足(+否定に関する読書案内第2弾) - dlitの殴り書き
  • 聖職者であることを要求するのはやめにしませんか(教員に幸あれ) - dlitの殴り書き

    こういうことを自身も教員である私が書くのはあまり効果的ではないよなあとは思うのですが(大学教員だから気楽に言えるんだよと思われるリスクもあり)。 さて、下記の記事、これまでも似たような実体験を耳にしたことはあったので内容に驚くということではないのですが、ちょうど今週授業を持っている教育研究科(国語教育コース)の送別会があって、やはり多くの卒業生が教職に就く(戻る)という話を聞いた直後だったのでいつもより読んで暗い気持ちになりました。 anond.hatelabo.jp それで下記の応答なんですが、 anond.hatelabo.jp 体験談・アドバイスとしてはこういうのを書いてくれる人がいるのはありがたいことだと思います。特に、「子どもたちが、日々親や大人たちから同じように罵られ、脅かされていることに気付いた。」という認識を書いてくれたことは素晴らしいですね。ただ、こういう記事を踏まえた上

    聖職者であることを要求するのはやめにしませんか(教員に幸あれ) - dlitの殴り書き
  • 自然言語と形式言語と(あと否定に関する文献とか)(追加文献あり) - dlitの殴り書き

    いちゃもんに近いかも。 下記の記事を読んで、細かい表現に引っかかった。 「すべての学生は携帯を持っている」の否定文は? :日経済新聞 「否定文」も誤って理解している人が多い。冒頭の例で説明しよう。「すべての学生は携帯を持っている」の否定文として「すべての学生は携帯を持っていない」という人がいるが、これは間違いである。 「すべての学生は携帯を持っている」の否定文は? :日経済新聞 形式言語の方が、特定の事柄(特に論理関係や量化が関わるもの)を表す場合、自然言語より厳密に表現できる(ことがある)ということにはそれほど異論はない*1。 気になるのはそれを「誤り」「間違い」であると言っている点。もちろん「数学から見ると」ということなのかもしれないし、新聞に載った記事なので、一般向けに分かりやすい表現を選んでいるということもあるのかもしれない。それでも、「正しい/誤り・間違い」という表現は“強過

    自然言語と形式言語と(あと否定に関する文献とか)(追加文献あり) - dlitの殴り書き
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