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ドラマと歴史に関するyizhakのブックマーク (3)

  • 長谷川博己と染谷将太は“父と子”のようだった 愛の物語としての『麒麟がくる』

    大河ドラマ『麒麟がくる』の、すべてを明智光秀(長谷川博己)と織田信長(染谷将太)の愛の物語へと収れんさせた最終回「能寺の変」の興奮が醒めやらない。かつて大河ドラマは大御所作家の歴史小説を原作とし、英雄たちの活躍を描く重厚な歴史絵巻だった。とりわけ群雄割拠の戦国時代を描く大河は群像劇の様相を呈し、大がかりな合戦シーンが見どころだったことは言うまでもない。『麒麟がくる』では幾つかの有名な合戦シーンが省略されたが、コロナ禍のせいばかりではなかったことが最終回ではっきりした。この大河が描きたかったのはそこではなかったのだ。 『麒麟がくる』が光秀と信長の愛の物語に着地したことは既にネット上でも多く指摘されている。では、それはどういう愛だったのだろうか。ここではそこを掘り下げてみたい。 水の人=明智光秀 火の人=織田信長 終盤に際立ったのは、信長の絶望的な孤独である。安土城の途方もなく広い大広間で松

    長谷川博己と染谷将太は“父と子”のようだった 愛の物語としての『麒麟がくる』
  • 【ドラマ感想】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」とは何だったのか。 - うさるの厨二病な読書日記

    昨日、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回を見た。久しぶりに大河ドラマを完走した。 最初に感想を言うと「イマイチだった」 自分が「このドラマはここがいいな」と思う部分と「そこはどうだろう?」と思う部分の力点の置かれ方が、特に後半は真逆だったところが「イマイチ」という感想になったポイントだ。 最も「どうだろう?」と思った部分は、話の動きが少なすぎるところだ。 後半は「光秀が誰かと話して、その話の内容が今後の展開をそのまま説明していてその通りにストーリーが動く」ほぼこの作りだった。 これには二つ問題があって ①会話のみの劇である。 ②ストーリーを見せるのではなく、説明してしまっている。 どちらもストーリー性を重視するドラマでは致命的だと思うけれど(①は、例えば日常生活を見せるドラマなど、ジャンルによってはいいと思う)そのどちらもやってしまっている。 それ以前に、いくら何でも色々な人に気軽に会

    【ドラマ感想】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」とは何だったのか。 - うさるの厨二病な読書日記
  • 大河「麒麟がくる」脚本家・池端俊策氏 「光秀が死ぬシーンは書きたくなかった」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

    【牧 元一の孤人焦点】想像を超える結末だった。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、光秀(長谷川博己)が能寺の変を起こす主因は信長(染谷将太)による「将軍殺害命令」。そして、秀吉(佐々木蔵之介)に敗れた光秀の生存を思わせる終わり方。脚家の池端俊策氏(75)に真意を聞いた。 【写真】「麒麟がくる」最終回。炎上する能寺を目の当たりにし、涙を浮かべる明智光秀(長谷川博己) ──物語の結末をどう描こうと考えた? 「この話全体を端的に言うと、光秀と信長の友情話。光秀は信長と大変親しい関係を続けてきた果てに殺さざるを得なくなる。殺して万歳ではなく、殺した時の痛みを描きたいと思った」 ──能寺の変は? 「どうすれば能寺に行けるだろうかと、ずっと考えながら書いていた。こうすれば能寺に行けると気づいたのは36、37回あたりで、それまでは答えが出ていなかった。答えから逆算して書いていると思われるだろう

    大河「麒麟がくる」脚本家・池端俊策氏 「光秀が死ぬシーンは書きたくなかった」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
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