大河ドラマ『麒麟がくる』の、すべてを明智光秀(長谷川博己)と織田信長(染谷将太)の愛の物語へと収れんさせた最終回「本能寺の変」の興奮が醒めやらない。かつて大河ドラマは大御所作家の歴史小説を原作とし、英雄たちの活躍を描く重厚な歴史絵巻だった。とりわけ群雄割拠の戦国時代を描く大河は群像劇の様相を呈し、大がかりな合戦シーンが見どころだったことは言うまでもない。『麒麟がくる』では幾つかの有名な合戦シーンが省略されたが、コロナ禍のせいばかりではなかったことが最終回ではっきりした。この大河が描きたかったのはそこではなかったのだ。 『麒麟がくる』が光秀と信長の愛の物語に着地したことは既にネット上でも多く指摘されている。では、それはどういう愛だったのだろうか。ここではそこを掘り下げてみたい。 水の人=明智光秀 火の人=織田信長 終盤に際立ったのは、信長の絶望的な孤独である。安土城の途方もなく広い大広間で松