************************************************* ここでアンスコムは「観察によらない知識」に再び立ち戻り、単なる身体的運動以上のものとして記述された意図的行為には、そうした知識がどのように当てはまるのかと問う。アンスコムによれば、そうした知識はたしかに意図的行為に当てはまり、人は自分が行なっていることについて――したがってまた、自分の身体外で生じていることについても――観察によらずに知識を持ち得る。行為が意図的であるためには、そうした知識が不可欠なのである。また、そうした知識はもっぱら自分の意図や身体的運動だけに限定され、それ以外の残余部分は――自分の意図する事柄からの所産として――観察によって知られる、というわけでは決してない。その逆に、「自分が何をしているかについて私が明確に知っている記述は、ことによると、私からは隔たった何かについて
◆F・スタウトランド「アンスコム『インテンション』の要約」(1/2) ・Frederick Stoutland, "Summary of Anscombe's Intention", in A. Ford, J. Hornsby & F. Stoutland (eds.), Essays on Anscombe's Intention (HUP, 2011) これは序論とは別に、編者のスタウトランドが与えている「要約」。(やはりトンプソンからの影響がそこここに見え隠れする。) 文中での「[8=14]」といった表記は、Intention原著の頁付け(この場合は8頁)と邦訳の頁付け(14頁)を表す。また幾つかの箇所で、文意を明確にするために「〈…〉」記号を用いた。 ************************************************* 以下に記すのは、アンスコム
『ダーウィンと進化論の哲学 (科学哲学の展開)』について評論家の山形浩生さんから厳しい書評をいただいた(リンク)。 すでに他の方が指摘されている通り、あの書評には個々の論文について指摘された「問題点」について事実誤認や的はずれのところがある。他の論文についてその著者のかたに譲るとして、わたしの論文について言うと、やまがたさんの一つのポイントは議論が哲学的ではないということだ。 わたしにとってこれは意外な点だった。というのは論文の謝辞で示唆したとおり、あのプロジェクトは元々留学中のゼミで発表したものが素材になっており、それがああいった形で論文になるには仲間の哲学者からの「おまえこのプロジェクト面白いよ」という励ましが必要だったからである。また、前のエントリで紹介したように「哲学=別の手段による科学の継続」、つまり哲学は「自然についてのわれわれの知識の増大」という目標を科学と共有しているという
◆アンスコム「行為・意図・『二重結果』」(3) これから続きます。 ここからがいよいよ佳境ということで、本格的にしんどくなってきた。 訳語について―― その1。ここまで“kill, killing”は「殺す・殺し」等の訳語を当てて問題を先送りしてきたのですが、以下では“murder”との区別を明確にする関係上、名詞としては「殺害」という訳語をあててあります。(したがって、全ての謀殺 murder は殺害であるものの、殺害がみな謀殺であるとは限らない。) その2。行為(人間的行為)について、悪い行為であるということから派生的に言われる「悪・悪さ badness」と、必ずしも(道徳的)行為に限らない事象一般について名詞的に言われる「悪 evil」(例えば死もまた一つのevilであると言われる)と、これら双方に一律に「悪」という表現をあてたことで、ことによると文意が取りにくい箇所があるかも
◆アンスコム「行為・意図・『二重結果』」(2) これの続編。 このペースで行けば、5回くらいでお終いまで辿りつけそうではありますが、第2回目にして既にへばり気味。そもそもアンスコムがここで論じているのは哲学なのか、それとも神学なのかということからしてよく分からないんだよな…。 訳語についてですが、「[特]種的」や「種[類]」といったぎこちない表現は、“specifically”や“specific”など“species”関連の語にあてたものです。大まかに話を先取りしておくと、一方では「行為はみな行為である限りで――つまり行為一般という類に属する限りで――善いものであり、類的な善さを等しく分け持つ」という(トマス的?)主張が立てられ、またもう一方では、個々の善い行為について、それがいかなる種類に属する善い行為であるか、どのような「種的な善さ」を持つかが問われる、――といったような構図を念
◆アンスコム「行為・意図・『二重結果』」(1) 毎度おなじみ流浪の和訳練習シリーズ第二弾ということで、アンスコムの1982年の講演“Action, Intention and ‘Double Effect’”を訳出していく予定。 (なおこれは、ウッドワード編集の二重結果論アンソロジーにも採録されてますが、訳出にあたってはアンスコムの論文集Human Life, Action and Ethics (Imprint, 2005), pp. 207-226に収められたものを底本としています。以下はそのうち、207頁から210頁下段にかけての部分。) ********************************************************* 英国等で主流の哲学において「行為の哲学」が問題となる場合、「行為」や「行為者性」という語に制約を加える慣わしがあります。そのた
◆ジュリア・アナス『古代哲学』(岩波書店、2004) このまえ読んだ『感情』に続いて、これまた「1冊でわかる」シリーズの一冊。古代哲学全般にわたって「1冊で~」というのは相当に無理があるけれども、この本では、理性と感情との葛藤をめぐるプラトンとストア派との対立といった道徳心理学的問題を導入に置き(1章)、また認識論(4章)や形而上学(5章)に先立って倫理学(徳論)をもってくる(3章)、というような独特の構成でアクセントが加えられている。 第3章での主要なテーマは徳と幸福との関係について。「現代の倫理思想においては、ごく最近まで、徳はなにか滑稽な概念で、歴史的には理解できるが、倫理的思考において真剣に用いることはできないものになってしまっていた。しかし、この10年の間に、「徳倫理学」は劇的なカムバックをとげた。」(p. 74) しかしアナス先生によれば、「徳」概念のこうした復活が一般に、「
なんどか書いてるけど大学の3回生ぐらいから卒業してすぐぐらいまで、ジャズミュージシャンの真似事をしておりました。音楽の才能がぜんぜん無かったのでそっちの道はすぐにあきらめたんですが。神戸の元町のポートタワーホテルとか中山手通のサテンドールとか、大阪の中津の今はなき東洋ホテルとか、梅田の今はなきDonShopとか、北新地の名前忘れたけどなんとかいう店とか、京都の木屋町の名前忘れたけどなんとかいう店でウッドベースを弾いておりまして、それでメシ食ってたぜとはとても言えないですが、まあトラ(臨時の代理)の仕事も含めて月10万ぐらいにはなっておりました。 学生のバイトとしてはわりと実入りがよかったです。時代はバブルで、そこらじゅうに生演奏の店があり、またそういうところに彼女を連れていくのがおしゃれとされていた時代で、ちょっと背伸びして今日はジャズでも聴きにいこうかというお客さんがわりといて、チャージ
わすれもの、うせものがたえない毎日を送る忘却散人(飯倉洋一)のブログです。2008年3月スタート。日本近世文学。 軽い読み物として、推敲もなしに書いていますので、学術論文などへの引用はお控えください(どうしてもという場合は、事前にコメント欄にでもご連絡下さい)。エッセイなどでの引用やSNSなどでのリンクはご自由にどうぞ。 このごろは、めったにテレビをみないのだが、たまたまNHKの朝の情報番組を見てたら、おいしいお茶のいれ方というのをやっていた。元航空会社の乗務員の方で、この方法を編み出したら乗客からおかわりが続出したというのである。その方法とは、茶葉を入れたらまず、水(もちろんこれは水道水ではなく、ミネラルウォーター)を少し入れて、しばらくおいておく。それからおもむろにお湯を注ぐというものである。あまりにも簡単。試してみると想像以上に美味いのに驚く。なるほど、湯をすこしさまして入れるという
Alex Mesoudi 2011. Cultural Evolution: How Darwinian Theory Can Explain Human Culture and Synthesize the Social Sciences. The University of Chicago Press, Chicago書評論文.『生物科学』63(4): 247-252. 生物の歴史的変化と同様,文化の歴史的変化に関しても進化論的視点が適用できるのではないか,というアイディアそのものは決して新しいものではない.しかし,近年盛んに行なわれつつある文化進化研究の直接的な発端は, Cavalli-Sforza & Feldman(1981)やBoyd & Richerson(1985)などである.たとえば,Boyd & Rcihersonは文化進化のメカニズムとしていくつかの心理バイアス(詳し
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く