2012年8月2日のブックマーク (4件)

  • 東京新聞:教員養成改革 「修士レベル」は要らない:社説・コラム(TOKYO Web)

    力量のある先生をどう育てるか。中央教育審議会の特別部会は修士レベルの学びが必須だと結んだ。だが、それで学校現場の抱える課題をクリアできるのか疑わしい。頭でっかちの先生は要らない。 特別部会の話し合いは結論ありきだった印象が強い。小中高などの先生になるには大学院修士課程の修了を条件とするという民主党の公約が出発点だったからだ。

    yoko-hirom
    yoko-hirom 2012/08/02
    「研究者は現場を知らない役立たず」と思ってないと,こんな記事書けないな。現場に出て現場慣れしても,現状に染まるだけで改革などできない。理想の教育を明確に思い描いてから現場に出るのも良いのではないか。
  • 米国で一番優れた先生: 極東ブログ

    教育問題にはあまり関心がない。正確に言うと「日教育問題」に関心がない。そう思う理由はシンプル極まりない。教育は元来国家のセクターではないからである。 教育が国家のセクターになったのは、歴史的に見れば、義務教育は皆兵のため、高度教育は官吏養成のためだった。こうした近代国家の、必然とも言える動向をむげに否定はしない。現代では「皆兵」は軍事的な意味ではなく経済的な意味に転換し、生産力向上の「皆兵化」の意味もあるだろう。いずれにしても、ようするに国家のためであるという点は変わりない。 だが教育というのは、それ以前には、人が自由になるための技芸であり、なにから自由化といえば、国家的な権力から精神を自由にするためのものであった。その部分こそは変わらず教育質だろうと思う。まあ、そういうこと。そういうことであれば、あまり「公」に教育のあり方を議論するのは矛盾している。 とはいえ、昨日東京新聞社説「

    yoko-hirom
    yoko-hirom 2012/08/02
    国家的な権力から自由な精神を持たない者が,国家を動かすことなどできないように思う。現状維持が限界。
  • 「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」: 極東ブログ

    人生を振り返って、あのとき、これしか選択できなかったということがある。客観的に考えるなら、他の選択もあった。しかし、その可能な選択をしていたら、今の自分ではない。まあ、そこまではいいとしよう。 今の自分が不幸だとする。その不幸の原因はあの選択にあったと考えるのが合理的だったとする。幸福であるためには、あの選択は間違っていたということになる。そういうこともある。 そこで悔やむならつらい悔恨でもあるのだが、問題として難しいわけではない。難しいのは、不幸であっても、あの選択の上に生きて来た自分というがまさに自分なのだという自覚だ。これがやっかい。 この問題でいつも思う挿話がある。「長崎先生」という人の人生だ。歴史に残る有名な人ではないと思う。明治30年頃の生まれではないかと思う。ちなみにグーグルとかで関連キーワードらしいもので検索しても特に情報はなかった。 「長崎先生」は小樽教会の牧師だった。廃

    yoko-hirom
    yoko-hirom 2012/08/02
    一つ前の記事の補足。不幸の原因となる選択を不可避的に強いられる羽目になることが偶然と思うのだが。全体として,よく分からない内容。客観的には底辺の下らない人間なのに,自信に溢れて幸せな人は珍しくないよ。
  • 誰が弱者か?: 極東ブログ

    2ちゃんねるのまとめサイトだろうか、「どっちが弱者ですか?」(参照)というネタが上がっていた。ネタだというのは一目見ればわかるが、この絵はちょっと奇妙な後味を残す。誰が弱者か?という難問の、どこかしら質を突いているからだろう。 5人の人がいる。左から。 (a)貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人。 (b)年収300万円の疲れ切ったブラック会社員。 (c)年収250万円の派遣社員。 (d)年収200万円のフリーター。 (e)旦那が年収1000万円の専業鬼女。 もちろん、ネタ元の「あなたの優しさで席をゆずりましょう」というときは、妊婦(e)や老人(a)に席を譲ろうという話だったのだが、これを「弱者」に問題をすり替えたとき、譲られるべき老人(a)も妊婦(e)も社会的な「強者」ではないのかというアイロニーである。 もちろん、とまた言うが、この局面では座っている権利を持っている人が身体的な

    yoko-hirom
    yoko-hirom 2012/08/02
    後半の,偶然性と不可避性・固有性,幸と不幸,強者と弱者についての話は理解できなかった。特に,それぞれの関係性を形作る理屈が。