ブックマーク / www.refugee.or.jp (22)

  • 彼女がしたことは犯罪なのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(1)|ニッポン複雑紀行

    2020年11月15日は仕事のない日曜日だった。熊県南部のみかん農園で働く21歳の技能実習生が、双子の赤ちゃんを死産した。部屋の中で、たった一人だった。 妊娠に気づいてからはすでに半年が経っていた。ベトナムに無理やり帰らされることを恐れ、雇い主にも、妊娠の相手方にも、誰にも言えなかった。病院にも行けなかった。前日まで働いたが、体調が悪化し、夜には耐えがたい痛みに襲われた。 一晩中苦しんだ。たくさんの血が出た。いつからか、おなかの中から反応はなくなっていた。産まれた子どもは、双子の赤ちゃんは、息をしていなかった。泣き声も、どんな声も、聞こえてはこなかった。 私はこの記事でリンさんのことを書く。レー・ティ・トゥイ・リンさんは検察に起訴された。つまり、検察はリンさんのしたことが犯罪だったと言っている。そして、リンさんは無罪を主張している。 ここでは二つの主張がぶつかっている。有罪なのか、無罪な

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  • 出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律案に対する意見

    2021年2月19日、政府は「出入国管理及び難民認定法及び日国との平和条約に基づき日の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する法律案」(以下「法案」とする)を閣議決定した。法案は第7次出入国管理政策懇談会「収容・送還に関する専門部会」による報告書「送還忌避・長期収容問題の解決に向けた提言」(2020年6月)を受けて作成されたもので、一部改善点はあるものの、日に逃れた難民の保護や処遇の悪化につながる内容が多く含まれている。20年以上にわたり難民支援を行ってきた経験から、法案の問題点のうち、日の難民保護に特に影響を与えると考えられる、①難民申請者の送還、②補完的保護、③仮滞在制度、④監理措置の4点について、以下の通り意見を述べる。 《要約》日の難民認定制度には、国連などから何度も改善を求められるほど多くの課題がある。送還を促進する前に難民認定制度自体の改善が

    出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律案に対する意見
  • 釜ヶ崎の労働者は外国人も非合法も同一賃金や。破る業者は許さん(吉岡基さん)|ニッポン複雑紀行

    午前5時。大阪、釜ヶ崎。 日最大の「寄せ場」があるこの街では、今も陽が登る前から労働者と手配師の間で仕事の交渉が行われている。昨日も、今日も、明日も。多くの人々がまだ寝ているうちに、日雇い労働者たちは行動を開始する。今日の賃金を稼ぎ、今日の生活を続けていくために。 (寄せ場:日雇い労働者の「寄り場」を中心とする居住まで含んだ生活拠点地域/寄り場:求人・求職活動の実際の拠点) 手配師が乗るバンが集まり、労働者たちと交渉を始める。釜ヶ崎は大阪市西成区の北端にある 「はい車通りまーす!」 労働者を集める求人車両が「寄り場」に入ってくるたび、蛍光色の上着に身を包んだ吉岡基さんが大きな声をあげる。彼が声をあげると、同じ安全誘導作業の仕事をしている労働者たちも、彼に続いてやまびこのように繰り返す。 「車通りまーす」 「車行きまーす」 「バックで入りまーす」 釜ヶ崎の寄せ場を「過去の歴史」と見る方もい

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  • 迫害を逃れて海を渡った。長崎・五島、潜伏キリシタン移民の子孫が語り継ぐ差別、戦争、信仰の記憶|ニッポン複雑紀行

    大小140あまりの島々が連なる長崎県の五島列島。ペトロ尾上勇(おのうえいさむ)さんはその北部に位置する中通島(なかどおりじま)で生まれ育った。キリスト教徒であり、一人の漁師として生きてきた。「ペトロ」は洗礼名だ。 尾上さんは江戸時代のキリシタン禁制下でも信仰を守った「潜伏キリシタン」を先祖にもつ。江戸後期の18世紀末、多くのキリシタンたちは当時の迫害を逃れて、九州の外海(そとめ)地方(現・長崎市の北西部に位置)を離れ、たくさんの小舟で海を渡った。五島の島々に新天地を求めたのだ。 離島への大規模な移住には政治的な背景もあった。未開の土地を開拓する人手を欲しがった五島藩が、逆に人口が増えすぎて困っていた九州土の大村藩に協力を求めたと言われる。その結果、3000人もの移民が五島を目指したが、その多くが潜伏キリシタンだったのだ。 2018年に世界遺産となった潜伏キリシタン関連資産が、九州土だけ

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  • 冷戦下の代理戦争から東京の生活戦争へ。シャン民族料理店「ノングインレイ」スティップさんの人生|ニッポン複雑紀行

    東京メトロの広告や人気テレビシリーズ『孤独のグルメ』にも登場するシャン民族料理の有名店「ノングインレイ(NONG INLAY)」(東京・高田馬場)。 だが、現在72歳のオーナー、ハンウォンチャイ・スティップさんが日で暮らすことになった理由までよく知る人は多くないかもしれない――。それは、冷戦下に大国間の代理戦争の現場ともなった「ラオス内戦」だった。 ベトナム戦争の影に隠れてあまり知られていないが、ラオスは「史上最も空爆された国」とも言われ、当時の米軍によって2億6000万発もの爆弾が投下されたという。ラオス内戦はベトナム戦争と同じ1975年に終結し、左派のパテート・ラオが勝利、アメリカが支援した王政側の敗北に終わった。 そんなラオス内戦にスティップさんはどう関わっていたか。実は、米軍やCIAの通訳として従事していたのだ。それは彼にとって「内戦の終結(敗北)」が自らの「命の危機」であったこ

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  • たった一人の母との和解。フィリピンルーツの母と娘が日本で背負い込んできたもの|ニッポン複雑紀行

    タワーマンションと古くからの商店が混ざり合う東京、月島。その一角にキリスト教の教会、月島聖公会がある。 ここでは月に一度、外国とつながる子どもたちを対象にした「ごはん会」が開かれており、私が訪れた日にも小学生からこの春大学を卒業した若者まで、さまざまな国につながる子どもやその家族が集まっていた。中には自宅から電車で2時間かけてやって来たという子もいる。 この日のメニューはフィリピンの家庭料理、チキンアドボ(鶏肉の煮込み)とトロン(バナナの春巻き)だ。 料理の指導をしてくれるのは、参加者の母親であるフィリピン人の女性で、子どもたちもお手にならってバナナを春巻きの皮で包んでいく。 料理事をしながら、おもむろに「ちょっと聞いてくださいよ」と悩みを吐き出す子もいれば、大人たち相手にぽつりぽつりと話し始める子もいる。 この「ごはん会」を主催するのは「カパティラン(タガログ語で「隣人愛」を意味す

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  • 米兵と出会った祖母のこと。大阪、横須賀、語られなかった強さと生き様の歴史|ニッポン複雑紀行

    戦後の大阪には1955年まで米軍の駐屯地(現・大阪市立大学)があった。黒島トーマス友基さんは、そんな「キャンプ・サカイ」に第65エンジニア部隊の一員としてやってきた占領軍の米兵を祖父にもつ。 実は私も祖父が沖縄の米軍属で、これまでトーマスさんとは色々なことを語り合ってきた。二人の共通点は、祖父が米軍と関係しているという事実にだけでなく、「アメラジアン」としてのアイデンティティをもって暮らしていることにもあるかもしれない。 これまで、アメラジアンにまつわる一人ひとりの歴史が積極的に語られることは決して多くはなかった。例えば、芸能界などにも有名な方はいるが、自分の家族のことを積極的に語る人たちは少なかったように思う。 トーマスさんはそのことを少し残念に思っているようだった。自分のおじいさん、おばあさん、そして二人の間に生まれたお父さんのことについて、語るべきこと、語り継ぐべきことがたくさんある

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  • 「やっぱり愛していたからね」ベトナム難民の定住を支え続けた一人の女性の半生|ニッポン複雑紀行

    1990年代以降、日有数の外国人集住都市として知られるようになった静岡県浜松市。だが、実はそれよりも随分前から浜松市がベトナム難民の集住地だったという歴史まで知っている人はあまり多くないかもしれない。 1975年に終結したベトナム戦争とその後の社会主義国化によって発生したたくさんの難民たち――彼らの多くは欧米諸国に移り住んだが、日に定住した者も少なくない。なかでも浜松市は神戸市などと並んでベトナム難民にとって主要な定住先のひとつとなり、その後家族の呼び寄せも行われた。さらに、現在では難民のルーツを持つ人々に加えて留学生や技能実習生として来日するベトナム人も増えており、2019年8月時点で市内に3,000人弱のベトナム人が暮らす。 当時ボートピープルとして日への仮上陸を許可された難民たちは、まず長崎県大村市にある「大村難民一時レセプションセンター」を経由したのち、国際連合難民高等弁務官

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  • 「雇用の調整弁」ではなく「丸ごとの人」として。多文化共生都市・浜松で今必要な「ソーシャルワーク」の実際|ニッポン複雑紀行

    「雇用の調整弁」ではなく「丸ごとの人」として。多文化共生都市・浜松で今必要な「ソーシャルワーク」の実際 静岡県浜松市。人口80万を超える県最大の都市で、いわゆる外国人の「集住地域」としても知られる。 ブラジルなど南米からの日系人とその子孫が多いことが特徴だが、市内で暮らす住民の出身国・地域は、フィリピンやベトナム、中国、ペルーなど、日を含めて90近くにのぼる。 浜松市民のうち外国籍者は2.5万人強(今年7月時点)を数え、在留外国人273万人(昨年末時点)の大体100人に1人が浜松市民という計算になる。外国人住民の割合は市全体の3%を超えており、全国平均(2%強)に比べてかなり高い。だが、かつては4%を超えていた時期もあった。 減少の大きな理由は2008年9月のリーマンショック。派遣切りを含む大量失業で、多くのブラジル人らが止むを得ず帰国を決めた。外国人住民の数は同年11月(33,702人

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  • 「日本語も母語も中途半端」そんな子どもたちのために。大泉の「ブラジル人学校」23年間の軌跡|ニッポン複雑紀行

    群馬県大泉町は人口に占めるブラジル人の割合が全国1位のブラジルタウンとして知られている。1990年、三世までの日系人らに就労制限のない在留資格が認められると、かつて海を渡り南米の大地で暮らした日人の子孫が「デカセギ」として相次いで来日、現在約4300人のブラジル人が暮らす。全人口に占める割合はおよそ1割だ。 ブラジルレストランやスーパー、旅行代理店、海外への送金会社…。町にはポルトガル語の看板が並び、日語を話さなくてもある程度の生活が可能な基盤が整っている。 生活基盤の重要な一翼を担うのが、ポルトガル語で子どもたちを教育するブラジル人学校だ。1990年代後半、言葉の問題やいじめから日の公立学校に馴染めないブラジルの児童、生徒らの不就学が社会問題化し、相次いで設立された。 尽力した1人が現在もブラジル人学校「日伯(にっぱく)学園」を経営する高野祥子さん(73)。13歳だった1958年、

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  • 酒の席での説教から「日本人だねえ」という謎の褒めまで。外国人社員の目に映る「日本の職場」の不条理な現実|ニッポン複雑紀行

    酒の席での説教から「日人だねえ」という謎の褒めまで。外国人社員の目に映る「日の職場」の不条理な現実 都内某所。うす曇りの空の下、大きな公園の入口で待っていると、遠くからジャケット姿の男性が猛スピードで走ってくるのが目に止まる。彼は私の前まで到達すると、なんとか呼吸を整えながらこう言った。 「遅くなってすみません…!」 待ち合わせは10時ちょうどで、実は私自身が2分ほど遅刻していた。そしてシャハランさんはそれからさらに3分、つまり5分遅れただけだった。そもそも事前に電話で遅刻の連絡も入っていた。 「営業では遅刻なんて絶対しないんですけど…車がとてつもなく混んでいて…!」 自分はどちらかと言うとルーズな方なので、とてもきっちりとした性格の方なのだなというのが、彼に対して抱いた最初の印象だった――。 石野シャハランさん、38歳。1980年にイランの首都テヘランで生まれ、22歳になった2002

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  • 精神障害を持つインドシナ難民たちの最後の拠り所。あかつきの村で今日も紡がれる「ただ共にあること」の意味|ニッポン複雑紀行

    精神障害を持つインドシナ難民たちの最後の拠り所。あかつきの村で今日も紡がれる「ただ共にあること」の意味 群馬にいまだ残る「精神障害を持つインドシナ難民」たちの拠り所 群馬県前橋市東部の赤城山麓に「あかつきの村」という場所がある。この場所では「精神障害を持つ4人のベトナム難民」が、2人の職員、6人の日人入居者とともに毎日寝を共にしながら暮らしている。 あかつきの村は1979年に「社会に居場所のない人を受け入れる共同体」として始まった。しかし、その後すぐにインドシナ(=ベトナム、ラオス、カンボジア)からの難民が日にも数多く訪れたため、それに合わせて村では特に「精神障害を持つ難民」の受け入れを行うようになった。当時から35年以上経った今も、ベトナム人の難民がこの場所で暮らしている所以である。 あかつきの村は、1979年、カトリック神父石川能也氏の呼びかけで開村(石川氏は2007年に病没)。

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  • 「日本の父」に会いたいと願う子どもたち。「フィリピンの母」の苦悩と誇り|ニッポン複雑紀行

    「フィリピンパブ」の歴史から飛行機で4~5時間の距離にあるフィリピン。この国と日歴史は長い。 豊臣秀吉の時代には両国の間で交易が行われ、江戸時代にはマニラに日人町が形成されていたといわれる。明治時代から戦前にかけて、日政府の主導で日人移民が入植し、マニラ麻の栽培に従事した。戦時中は日軍がフィリピンを占領し、甚大な被害をもたらした。 フィリピン・マニラ市内。経済格差が大きく高層住宅貧困地区が隣り合う。 そして戦後、外国人労働者の受け入れを公に認めてこなかった日が事実上いち早く門戸を開けたのは「エンターテイナー」とよばれるフィリピン人女性たちに対してだった。 高度経済成長を遂げた日は1980年代、歓楽街での人手不足から、フィリピン人の女性たちに対して「興行ビザ」の発給を始めた。興行ビザは芸能やスポーツなどのために来日する人に与えられるビザだ。 女性たちはフィリピンでオー

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  • 「日本人」とは何か?「ハーフ」たちの目に映る日本社会と人種差別の実際|ニッポン複雑紀行

    「ハーフ」と聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。テレビで見かけるいわゆる「ハーフタレント」たちのイメージ、あるいは学校や職場で知り合った人のイメージが思い浮かぶ人も多いかもしれません。当然ですが、一口に「ハーフ」と言っても様々な人たちがいます。ルーツや国籍、性別、年齢、生まれた場所まで当に多様な人たちが「ハーフ」という言葉で括られています。 この記事では「ハーフ」や「混血」といったテーマで研究を深めてきた数少ない研究者である若手社会学者の下地ローレンス吉孝さんに、彼がこれまでの6年間で集めてきた50人以上の聴き取りの中から、ガーナ、ボリビア、インド、アメリカに縁のある4人の言葉を選んで紹介していただきました。「ハーフ」という言葉・括りの中で葛藤してきたかれらが、これまで日の「日常」の中でどんな体験を通過してきたのか、ぜひ知っていただけたらと思います。(編集部) 「ハーフ」のイ

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  • 収容ってなんですか?弁護士に聞く収容問題

    収容問題の改善に向けて(2022年5月追記)インタビュー記事の掲載(2016年4月)後、収容はさらに長期化し、施設内での死亡事件や人権侵害が数々みられています。 2022年4月現在は、新型コロナウイルス感染拡大の抑制のため、多くの仮放免がなされ、長期収容問題が一時的に改善しているかのように見えますが、収容が入管の裁量に委ねられている点など問題の質に変わりはありません。 ここでは、長期収容の実態とその背景にあった仮放免の厳格化について説明し、収容問題の改善のために何が必要か紹介します。 ※ コラムは、おもに、難民支援協会「仮放免制度の運用変更による収容問題の悪化 ー 改善に向けて」よりまとめ直しています。引用元など詳細は当該記事よりご確認ください。 ■ 長期収容の実態2015年以降、仮放免が認められることがいっそう厳しくなり、長期収容におけるさまざまな問題が生じています。収容期間につい

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  • 日本に来るのは「偽装難民」ばかりなのか?難民認定、年間わずか数十名の妥当性を考える

    難民申請者に、難民ではない人が含まれていることは日に限らず当然で、そのために審査があります。 例えば、2019年のドイツの難民認定率は25.9%、フランスは18.5%。つまり、残りの申請者は難民条約に基づく難民ではないと判断されています。ただし、難民認定以外の形で庇護を認められた人も多く、そのような人を含めるとドイツの庇護率は約44.3%、フランスは約28.3%です。一方、日では難民認定に限れば0.4%、人道的配慮による在留許可を加えてもわずか0.7%の人にしか庇護が認められていません。年間で約600名からの相談を受けている難民支援協会の経験に基づいても、これは明らかに少なすぎます。日にだけ、難民として保護されるべき人が逃れていないのではなく、日の審査基準が厳しすぎるのです。難民として保護されるべき理由を十分に持つ人が難民不認定となり、収容や母国への強制送還の危機に晒される事例が後

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  • 学校ではしゃべらない。日本社会の片隅で孤立する「海外ルーツの子どもたち」|ニッポン複雑紀行

    家族の都合で「海外から日にやってくる子どもたち」がいます。彼らの多くは日語に不自由を抱え、日の学校では教師や生徒からの無理解やいじめに見舞われがちな現状があります。また、両親など家族も同じように日語の不自由を抱えていたり、あるいは深夜の仕事でなかなか子どもと同じ時間を過ごせないといったケースも耳にします。 今回執筆をお願いした田中宝紀さんは、2010年から8年間に渡って海外ルーツの子どもたちのための学習施設「YSCグローバル・スクール(YSCGS)」を運営されてきた方です。日にもたくさんいる「海外ルーツの子どもたち」の現状を学ぶために、田中さんがYSCGSのある生徒さんに直接お話を聞いてくださいました。(編集部) 東京の福生にある「日語学校×フリースクール×学習塾」 東京の西の端っこに、都内でも有数の外国人集住地域があります。その街の名前は福生市。福生は「ふっさ」と読みます。人

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  • 宮城や福島で炊き出し100回、なぜならそれがジハードだから。被災地でカレーをふるまい続けたムスリムたちの話|ニッポン複雑紀行

    宮城や福島で炊き出し100回、なぜならそれがジハードだから。被災地でカレーをふるまい続けたムスリムたちの話 大塚にある細長いモスク JR大塚駅から徒歩5分ほど、商店街を抜けたところにその小さなモスクはある。「マスジド大塚」だ。「マスジド」とはアラビア語でモスクを意味する言葉。モスクはムスリム(イスラーム教徒)のための礼拝所である。このマスジド大塚が創立されたのは2000年のことだ。 私が初めてこの場所を訪れたのは4年前のこと。持ち金が尽き、泊まる場所がなくなったナイジェリア出身の難民申請者がモスクでお世話になっていたときのことだった。その日は外国から来た難民だけでなく、日人のホームレスの方たちもモスクで寝泊まりしていた。 マスジド大塚。小さなドームとミナレット(尖塔)が目印 モスクというとトルコの「ブルーモスク」のような豪華絢爛なイメージもあるが、マスジド大塚は質素なつくりをしている。横

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  • 民主化の闘士からレストランの店長へ。ミャンマー街の重鎮が語る「リトルヤンゴン」30年間の記憶|ニッポン複雑紀行

    高田馬場の「もう一つの顔」 高田馬場駅にやってきた。JR山手線の駅の一つ、早稲田大学がある学生街だ。 でも、この街にはもう一つ別の顔がある。高田馬場は「ミャンマー人の集住地域」なのだ。 事実、高田馬場には東南アジアのミャンマーにルーツを持つ人々が数多く暮らしている。どれくらいかと言うとミャンマー料理屋や雑貨屋が合計で20軒を超えるほど。 しかもミャンマーは複雑な多民族国家であるため、ただ一つの「ミャンマー料理屋」が20軒あるということでもないのがまた面白い。 ビルマ民族の人が経営する「ビルマ料理屋」、カレン民族の人が経営する「カレン料理屋」といったように、言語や宗教的ルーツを異にする個性豊かな店々が高田馬場駅周辺のさまざまな場所に遍在している。 祖国の多民族性は異国のエスニックタウンにもそのまま引き継がれているというわけだ。 この地にミャンマー人たちが集まり始めてすでに30年近い月日が経過

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  • 上智大学・根本敬教授に聞くロヒンギャ問題

    ミャンマー(ビルマ)のラカイン州に暮らす少数民族ロヒンギャ。2017年8月下旬より衝突が激化し、10日余りで約12万5,000人が隣国バングラデシュへ避難する事態に発展。沈黙を続けるアウンサンスーチー氏国家顧問兼外相に対し、世界から圧力が高まっています。ロヒンギャ問題とは何か?ビルマ近現代史を専門とする上智大学 総合グローバル学部の根敬教授に伺いました。昨年掲載した記事ですが、ロヒンギャ問題とアウンサンスーチー氏が置かれた立場について理解することができます。 ――ミャンマーは多民族国家ですが、なぜ特にロヒンギャ民族は深刻な人権侵害の状況に置かれているのでしょうか。 二つ理由があります。一つは誰を公認の民族とするかです。ビルマでは135の民族が国家によって公認されています。その基準はイギリスの侵略戦争が始まる1年前の1823年以前から住んでいる、というものです。その段階で住んでいた民族は土

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