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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (40)

  • 「なぜCanCam的「めちゃモテ」のひとり勝ちなのか」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「エビちゃん」という新しい「正しさ」の圧力 通勤電車付近というのは、殺伐としてむさ苦しいものである。そんな中で、いまならばエビちゃん風など流行りのファッションをしている女性を見つけると、なにかドキッとするものだ。単にかわいい女性というよりも、流行りのファッションを身にまとっていると、それだけで引かれるモノがあることを感じる。 これは、そのファッションのもつ魅力であるとともに、そこに新しい「コミュニティ」を見るからではないだろうか。そのファッションを指示する多くの若い女性たちという「コミュニティ」であり、そこに新しい「正しさ」がある。その「正しさ」は漠然としたボリュームを暗示する「コミュニティ」という圧力として働くある種の虚像であり、だから早すぎても、遅すぎるてもダメなのである。 「なぜCanCamの「ひとり勝ち」なのか」 と、考えていると、CanCamの「ひとり勝ち」状態について、女子大生

    「なぜCanCam的「めちゃモテ」のひとり勝ちなのか」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    yuiseki
    yuiseki 2007/06/28
  • なぜ「ネットイナゴ」はネットをめざすのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    アーキテクチャー化によって抑圧した「感情」はどこへむかうのか ボクは「「感情労働」は「マクドナルド化」によって対処される」と言った。*1ボクたちは「アーキテクチャー化」を歓迎している。社会的な関係がドライになること、そして貨幣価値のもとに「平等」であること。しかしこのようなアーキテクチャー化を歓迎しながらも、それだけでは耐えられない。 そしてアーキテクチャー化の反動として抑圧した「感情」が浮上する。アーキテクチャー化が進むから、反動で「感情」が浮上する。また「感情」が浮上するからアーキテクチャー化が歓迎される、という相補的な関係で働いているといえるだろう。 ではこの抑圧した「感情」はどこに向かうのか。たとえばリアリティがます映画ゲームなどヴァーチャル技術によって、身体的な興奮が与えられストレスが発散される。また「癒し」を求め、「かわいい」への傾倒である。少女たちの「かわいい」好き、オタク

    なぜ「ネットイナゴ」はネットをめざすのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    yuiseki 2007/06/13
  • (2ちゃんねる哲学板)ポストモダン論とシステム論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    822 :ぴかぁ〜 :04/04/22 23:39 コミュニケーションという自己生産 「他者」とは、自他同期性という、同種においては先天的に密接なコミュニケーションが可能である存在である。そして「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった心象を客体の内面(心象構造)に再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、客体の内面(心象構造)に(複写)再現しようとする」こと、相互理解を深める行為、すなわち心象構造の同期行為である」と定義したい。 そしてここで「心象構造とは記憶である。記憶とは①先天的記憶、②後天的文化記憶、③後天的個体記憶でできている。」そして自他同期性は、記憶形成の時間長さから考えて①先天的記憶(遺伝子情報)がほとんどを閉めている故に、同種において可能となる。 しかし私と他者の心象を完全に同期させることは不可能である。「私と他者の間にはたえず未理解があ

    (2ちゃんねる哲学板)ポストモダン論とシステム論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    yuiseki 2007/05/20
  • なぜ「ネットカフェ難民」という「神話」は語られるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ネットカフェ難民は演出か 「愛・蔵太の少し調べて書く日記」の「[ネタ]ネットカフェ難民なんてただの報道の演出です」http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070506/nanminがおもしろい。ネットカフェ難民が演出かどうかは別にしても、誰もがなにかあやしい感じをもっているのではないだろうか。それは、先のエントリーでも書かれているが、ネットカフェに泊まるぐらいなら、ボロアパートに住むのは難しくないだろう。現にボロアパートは存続し、棲んでいる人々がいるわけだし。あるいは家族はいないのか、一種の家出であり、貧しさとは関係がないのではないか。 最近は格差、ワーキングプアが語られるが、これらの議論でも同じような議論がある。貧しいといっても、世界の貧困状況に比べれば、たいしたことがないということだ。日では、下流という人々がTVなどの電化製品は一式持っていることは当た

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    yuiseki 2007/05/10
  • なぜ「社会のアーキテクチャー化」が進むのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「社会のアーキテクチャー化」とは 「社会のアーキテクチャ化」とはなにかといえば、たとえばかつては犯罪をしてつかまると、犯罪ドラマにあるように警察につかまった時点で「物語」は終わり、犯人は観念し反省します。ここでは犯人自身にも自分が間違ったことをしていることが共有されています。 しかし実際はそこにで終わりではなく、裁判によって刑が確定するまで、罪になるかはわかりません。そして最近の米国の裁判のように優秀な弁護士をやとえば、殺人さえも無罪になる可能性もあります。あるいは、最近では少年法で短期で許されることに自覚的に犯罪をおこす少年にも現れています。 このような傾向は、金持ちが徳をするだけ、法の穴をつく卑怯な行為ということだけでは語れません。法は完全なものではなく、それを社会的な規範や、信頼関係で補完されるものでしかりません。そして規範や信頼というのは漠然としてみなこれが当たり前だろうという場の

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    yuiseki 2007/04/08
  • なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    マクドナルド化社会」 ボクがいう資主義システムによる「コンビニエンスな」解決とは、「マクドナルド化する社会」(ISBN:4657994131)に対応するだろう。しかしこれでは、なぜボクたちがマクドナルドへ向かうのか、の説明にはなってのではないだろうか。 20世紀の初頭に、ヘンリー・フォードによって生み出された生産体系に「フォーディズム」というものがある。フォードが生み出した『大量生産』は20世紀の工業をまさしく象徴するようなものへとなっていった。・・・当然この生産システムは、現在の「マクドナルド化」の元になっており、・・・標準化された作業手順によって脱熟練化になり、労働者の均質化や大衆労働が可能となったのである。最後が消費の均質化である。これもフォーディズムのように、大量生産された製品を販売するための市場が成長することで、消費の方も均質化していったのだ。 またマクドナルド化は、簡単に言

    なぜボクたちはマクドナルドへ向かうのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    yuiseki 2007/03/21
  • ネットはネオリベラルなグローバリズムを欲望するか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    主義的な金銭経済とネット上の非金銭経済の対立 ボクは、ネットのラディカルさは、無法地帯にあるのではなく、贈与を中心に経済が形成されて、非資主義的な力、資主義的経済に対する「神的暴力」を持つことだといった。ここには、資主義的な金銭経済とネット上の非金銭経済の対立がある。確かに著作権も問題などで、このような問題が顕在化しているが、質的な問題を忘れているのかもしれない。 2ちゃんは匿名だから、実社会よりも、社会的な拘束から解放されやすいのは確かですね。社会的な関係(象徴的関係)の抑圧が弱まる。その結果として重要なことは、好き勝手できるというよりも、想像関係(愛憎)が表出しやすいということでしょう。・・・より簡単にいえば、誰かのためになにかをしたいということが加速されてしまう。 Winnyなどでコピーが出回るのは、だれも資主義的な秩序としての著作権システムを解体させる反(資主義)社

    ネットはネオリベラルなグローバリズムを欲望するか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    yuiseki 2007/03/16
  • [議論]ネットは「経済」とはなにかを問う - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    考える名無しさんA 東スレで戯れるあなたがたは動物だ。東思想を否定するあなたは動物で、「動物園型理想都市」を肯定する。ポストモダン社会のモデル=東スレで戯れられるメリットは、東思想を否認することで得られる。否定はつねにメタだから。これって私!が易々と手に入る。東スレ=動物的ユートピアにいる人が典型だけども2chねらとか楽しそうじゃない。中にいて楽しんでるのはほとんど動物だもの。 考える名無しさんB ぴかーがなんかネット上のコミュニティについて論じてるが、要は「解放区」だと思ってるのかな、2chを。「現実」では出来ないことをネット上では出来る、「解放区」として捉え、だから「動物達のユートピア」だと。 この、現実/ネットの二項対立は間違いじゃないのか?僕にとっては、2chは「解放区」じゃないし、「現実において疎外された者達のユートピア」じゃない。ただの、奇妙な掲示板に過ぎないと思ってたから。弱

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    yuiseki 2007/03/12
  • ランキングという化け物を乗りこなすことができるのだろうか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    小さな屋の密やかなコミュニケーション ボクは屋が大好きで屋を見るとつい入りたくなるし、精神的にまいったときなど、大きな屋にいってブラブラしてると落ちついたりする。小さな屋は売れ筋のものが店頭の前面を占めていて、どこでも同じように感じるが、色々な屋に行くとそれぞれに特徴があることがわかる。それはビジネス街の屋にはビジネス書が多くあるというような地域性以上に、なぜこんな小さな屋にこんながあるんだろうというものである。 なぜか精神世界系のが多い屋、あるいは何らかの傾向を持った哲学系のが並んでいる屋など。屋がどのようなシステムで運営されているか知らないが、それが小さな屋のささやかな個性なのだろうか。こんなところでこんなマニアックなは売れないだろうと思うと、誰が買うのか売れていたりする。マニアックなを置き、ささやかに自己主張する屋さんと、それを買う常連客の間に密か

    ランキングという化け物を乗りこなすことができるのだろうか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    yuiseki 2007/03/07
  • ネットの「群衆の叡智」の可能性とはなにか その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    群衆の叡智と単なる群衆心理 ロングテールとともに、昨年のキーワードとなったのが、ニューヨーク在住のコラムニストであるジェームズ・スロウィッキー氏ののタイトル「The Wisdom of Crowds(群衆の叡智:の邦訳は、『「みんなの意見」は案外正しい』)」である。 そんな群衆の叡智の壮大な実験に取り組んでいるのが、サンフランシスコにある米ディグ(Digg)だ。・・・情報が溢れる今の世の中で、自分が見たり聞いたりする情報(メディア)は、わずかな数の記者や編集者に依存している。そんなメディアを「民主化」しようというのが同社の社是だ。 インターネット上にあるメディアをすべて民主化し、ランク付けしようとするディグ。何かに似ていないだろうか。そう、グーグルの検索結果表示である。・・・グーグルは、ページランクと呼ばれる手法で、リンクされたページの質と量、リンクしたページの内容などを数値化し、膨大

    ネットの「群衆の叡智」の可能性とはなにか その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    yuiseki 2007/03/07
  • なぜ資本主義社会は未婚にむかうのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    恋のマジック 「恋愛は錯覚である」というとき、無数の人の中からなぜある一人に「感染」したのかということの理由がどこにも見いだせないことによる。恋をした理由は、「顔がタイプだから」、「スタイルがいいから」、「お金をもっていたから」などなど、語ることはできる。しかしこれらはいつも事後的であって、感染そのものを説明することはできない。 そしてまたこの説明できないということが、恋をすることの条件でもある。理想の条件を並べて、それを適合する相手を見つけだしても、恋をするとは限らない。むしろ恋をしないだろう。人々は談取られた出会いではなく、偶然的な出会いにこそ、感染するのだ。それこそが「恋のマジック」である。 貨幣と「彼女」の神秘 柄谷は「探求Ⅰ」で、コミュニケーションの神秘性を、ヴィトゲンシュタインの「教える−学ぶ」の関係、マルクスの「売る−買う」の関係を例に示したが、もっともわかりやすい例は、恋愛

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    yuiseki 2007/01/24
  • なぜWeb2.0の本質はいかに抑圧するかなのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    CGM(ConsumerGeneratedMedia)とは ネット時代の新潮流――CGMとは http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/18/news024.html 今、Web2.0のキーワードが注目を浴びています。その中に内包される概念としてCGM(ConsumerGeneratedMediaの略)が存在します。簡単に訳すと消費者が生成したメディアとでも言うべきものなのですが、一般的には消費者が作成、または見つけ出した情報を投稿(Web上にアップ)し、発信されていくコンテンツの総称がCGMと呼ばれていることが多いと思います。 Web2.0の話とCGMの話を混同して語られている例が、よく見受けられます。しかし、Web2.0が提唱するブログやSNSなど「プラットフォームとしてのWeb」(以後CGMのプラットフォームと呼びます)と、その中で増殖す

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    yuiseki 2006/08/05
  • なぜ「涼宮ハルヒの憂鬱」はセカイ系なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「外部産出型」としてのセカイ系 「涼宮ハルヒの憂」の最終回を見たが、なかなかおもしろいかった。最終回の前半まで退屈が描かれ、突如クライマックスが訪れる。ボクは「涼宮ハルヒの憂」が「セカイ系」の構造があるといっていたが、最終回はまさにそのものの展開として終わった。 ボクは、「なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか」*1においてセカイ系を以下のように説明した。 ■セカイ系は、無理矢理にでもハルマゲドン(外部)を産出しようとする表現=「外部産出型」の系列にある。 ■外部産出型は、「内部/断絶(ファルス)/外部」の構造を持つ。社会(大きな内部)の閉塞感の中で断絶(ファルス)の存在が外部への道を開く。たとえば「デスノート」では断絶(ファルス)とはデスノートであり、外部とは死神界である。 ■「外部」とは、未知であり、なんの背景もなくただ不気味に殺戮にやってくる敵である。そしてこちらもなんのためら

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    yuiseki 2006/07/03
  • なぜ「他者」は特別なのか  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1 他者志向性 2 他者の特別性 3 世界の他者化 <解説> 再掲載シリーズ第ニ弾。(掲載 2004.6.1〜2004.6.3)ここにはその後の思考の原型があります。ただ「他者志向性」は先天的であるのか。人は生まれながらに人を知っているのか。 1 他者志向性 世界への他者志向性 たとえば火星表面の人面石とはなんでしょうか。火星の表面を観察をしたところ影が人の顔のように見えた。そのほかにも人面魚というのもありました。鯉の模様が人の顔のように見える。このような現象におもしろいのは、偶有的な模様からそのような模様に惹かれることです。ここにはそこに「意味」を感じるという人の「志向性」があります。 たとえば富士山を見たときになんらかの感慨を持ちます。海に沈む夕日であり、星空であり、花であり、なんらかの感慨をもちます。偶有的なものであるはずなのに、理解できないところで心が何かを感じてしまう。そしてこの

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    yuiseki 2006/07/02
  • 共同体幻想と2ちゃんねる(ノン-スマートモブズ) - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    共同体幻想と2ちゃんねる(ノン-スマートモブズ) 共同体幻想 現在、実社会生活にとって、2ちゃんねるはまだまだマイナーな現象であるという印象がある。そこにあるのはネットワーク社会とは、実社会生活をドラスティックに変えていくだろうという考えに対して、2ちゃんねるはまだなにも変えていないというわけだ。さらに読み込めば、ネットワーク社会にはマクルーハンのグローバルビレッジ的共同体幻想がつきまとう。これは明るい未来予測、暗い未来予測ともにみられる。たとえばそれはコミュニズムの再来であったり、情報管理社会であったり、マトリクスであったり、エヴァンゲリオンであったりするが、このような幻想はわれわれの中にかなり根深いように思う。 たとえば「スマートモブズ」という考えがある。ハワード・ラインゴールド著「スマートモブズ」によるものであり、「スマートモブ」とは、「モバイル+パーベイシブ環境、ウェアラブルコンピ

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    yuiseki 2006/04/06
  • まなざしの快楽 - Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか 「ウェブ進化論」 梅田望夫

    「ウェブ進化論」 「ウェブ進化論」 梅田望夫(ISBN:4480062858)を読みました。「当の大変化はこれから始まる」という野心的な副題がついています。最近、グーグルが凄いという話を聞きますが、なにが凄いのかが、書かれています。 著者によると、「インターネットの可能性の質」は、「無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。」というところにある、ということです。そして「いま多くの人々のカネと時間を飲み込んでその混沌が巨大化していく。そしてこの混沌という玉石混交から「玉」を見出す試みがおこなわれている。」すなわちこの巨大な混沌から秩序を生み出されていく可能性、そしてそれを触発する技術が今後10年の「情報そのものに関する革命的変化」になるだろう、ということです。これらの試みの例として、以下の動きが紹介されています。 「オープンソース現象」・・・リナ

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    yuiseki 2006/04/06
  • Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 「機械論の欲望」  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    素朴な「ネットの欲望」 「ウェブ進化論」 梅田望夫(ISBN:4480062858)は反響を呼んでいるようです。確かに面白いし、ネットでなにが起こっているかよくわかります。しかし「世界政府」など「危険なこと」も書いているにもかかわらずに、「素朴な好意論」が多いのが気になり、*1あえて引き続いて、少し後ろ向きな話をしてみたくなりました。 アメリカを中心とするネオコン(≒ネオリベラル)は、世界を民主主義化することが正義でありそのために武力もじさないということが言われていますが、それをグーグル的「民主主義」の中に見られると前述しました。それは、グーグルに見られる力の根底にネットの爆発的広がりという「ネットの欲望」にあり、それがネオリベラルの下支えにもなっているのではないか、ということです。そしてたとえば著者はこのを楽観主義に書いたと言っていますが、このへ「素朴な好意論」そのものが、「ネットの

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    yuiseki 2006/04/06
  • Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その3 人工知能の不可能性 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「ネットの欲望」 「ネットの欲望」とはこの短期間にウイルスのように広がったネットの力です。これは、どのような力によって、これほどのダイナミズムを持ち得ているのか。それが「ネットの欲望」です。当然、ボクも強い「ネットの欲望」の保持者でしょうし、素朴にこのを受け入れる人々も保持者でしょう。このような素朴さが力を生んでいるということです。 ボクが「ネットの欲望」「機械論の欲望」と言ったのは、ある種、人間そのものの「症候」としての征服欲(無垢への欲望)が、ベタに作動しているなあ、ということです。 「人間を介さずに」といのがまさにキーワードですね。「いままでの様々な管理は人間を介したために、ある人間の意図に支配されてきたために、様々な事件戦争、虐待などなどが起こってきた。それがもう人間を介さなくても良いんだ。そこには間違わない新たな神がいるんだ。このユートピアへ向かうのだ。」という素朴さが、ある

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    yuiseki 2006/04/06
  • なぜ「否定神学システム」を回避することは不可能なのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    なにが外部へ排除(欲望)されているか 「グーグル技術者たちが作り込んでいく情報発電所がいったん動き出したら人間の介在なしに自動的に事を成していく」世界である」*1というとき、この「人間を介なしに」という空想は、ボクが「機械論の欲望」と呼ぶものである。完全な世界=「システムに還元できずいつも邪魔をする管理し得ない消失点(断絶)が消失する」ユートピアという無垢である。 たとえばマルクス主義的空想も、完全なシステムを目指す。そしてシステムにはいつも不完全である。ということを隠すための「ブルジョア(/プロレタリア)」という空想がある。人はいつもこのシステムの不完全な消失点に悩まされる。システムの消失点、予測できず、管理されない。それを隠すために完全であるがただ「邪魔する者」がいるという空想が現れる。 そこではなにが外部へ排除(欲望)されているか、ということだ。グーグルの「人間の介在なしに」で排除

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    yuiseki 2006/04/06
  • 「どうして人を殺してはいけないのですか?」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「死」の心身二元性 「死」とは、概念です。この概念は「人間」のみに可能です。動物は「殺す」ことはありません。「死」の概念がないので、「他者を潰そう」ということはあっても、そこに「死」への目的性はありません。 (「人間」の)「死」という概念は、「この私」という個人の尊重によって、生まれています。「この私」というとき、「死」は最高の「強度」をもち、逆に「集団の中の一人」のとき、いわば身体を形成する1細胞という集団の新陳代謝の1個体のように「死」の「強度」は低下します。 だから「殺す」=「他者を死へ至らしめる」ということは、「他者」とは「この私」の反転としての「このあなた」であり、個人の尊重された存在であり、「殺す」という概念には、すでに始めに「禁止」が内在されているのです。 このように「死」、「殺す」という言説を考えるとき、「人間としの人」と「動物としての人」の二面性、「心身二元性」を見る必要

    「どうして人を殺してはいけないのですか?」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    yuiseki 2006/03/20