1946年(昭和21年) 1月:取手町(現取手市)の有志が、常磐線松戸 - 取手間の電化を求める期成同盟会を結成。1947年(昭和22年)7月には常磐線沿線の他の市町村の利用者と共に常磐線通勤通学者連盟を結成し、運輸省・GHQに対し、輸送改善のため常磐線電化に関する陳情活動を開始[2]。 1949年(昭和24年) 6月1日:常磐線松戸 - 取手間直流電化。上野 - 松戸間の国電を取手まで延長。 1950年代以降、日本住宅公団が、茨城県南部に隣接する千葉県北西部の常磐線沿線地域(東葛地域)において、住宅団地建設に着手。取手町(現取手市)においても1960年代に住宅団地が建設されるとともに、民間業者による宅地開発が急速に進行[3]。 松戸市:常盤平団地(1960年4月入居開始)、小金原団地(1969年入居開始) 柏市:光ヶ丘団地(1957年入居開始)、豊四季台団地(1964年入居開始) 我孫子
座標: 北緯35度43分42.673秒 東経139度48分5.053秒 / 北緯35.72852028度 東経139.80140361度 清川二丁目のドヤ街 山谷(さんや)は、東京都台東区の北東部清川・日本堤・東浅草一帯の通称[1]。行政地名としては1966年(昭和41年)の住居表示実施に伴い消滅したが、日雇い労働者向けの簡易宿泊所が集まる、荒川区にまたがるドヤ街の呼び名として使われ続けている[2]。簡易宿泊所「ドヤ」は東京オリンピックの建設需要に沸いた1960年代前半は、220軒以上を数え、約1万5千人の労働者でにぎわったが、現在は約120軒に減少。東京都福祉保健局の2021年の調査によると、約3千人が暮らし、うち9割が生活保護を受給[3]。 三ノ輪駅や南千住駅から近く、繁華街・観光地である浅草の北側に位置する。交通の便が良いことから、2000年代以降はバックパッカーを含む訪日外国人
アインシュタイン塔(アインシュタインとう、独: Einsteinturm)はドイツ・ポツダムにある歴史建造物。1920年から1924年にかけて建てられた、ドイツの建築家エーリッヒ・メンデルゾーンの処女作。「相対性理論」を実測検証する為に建設された観測施設であり、名前はその提唱者のアルベルト・アインシュタインに因む。アインシュタイン自身は勤務したことはないが、設立には協力した。 この塔は、重力によりスペクトルが変化するアインシュタイン効果(赤方偏移)を検証するために作られたが、当時は成功しなかった[1]。塔を貫くように1.5mの太陽望遠鏡が設置されている[1]。現在はポツダム天体物理天文台の管理下で稼働している。 元々は研究施設として建設されたが、その彫塑的なデザインが話題となり、注目を浴びた。当初はまだ建築素材として珍しい部類に入るコンクリートを使用して建てられることが予定されていたが、第
「軍艦マンション」 それがこのマンションの異名です。 有名な廃墟「軍艦島」は九州にありますが この新宿の大久保にある軍艦マンションは現役のマンション。 名前はニュースカイビル(旧第3スカイビル)。 「異端の建築家」と呼ばれた男が残した狂気の名作です。 新宿・大久保のコリアンタウンの中 地下鉄大江戸線の「東新宿」から少し歩くと 職安通りに沿って立ち並ぶビルの中で頭一つ飛び出している しかも尋常でない姿のビルが見えてきます。 側面部分のゴチャゴチャした雰囲気や 上に乗っかっている異様な造形の塔屋 そしてこの朽ち果て具合・・・不気味な建築です。 ちなみにこいつ、山手線や中央線などからも一瞬見えます。 北側から新宿駅へ南進する電車の、東側の窓にご注目。 山手線の新大久保駅からも見えます。 道路を挟んで正面を見るとこんな感じ。 やたら背が高く、しかも薄っぺらい建築です。 地上14階建てという結構な高
昭和館ピロティーより九段会館を望む 昭和館(1998)は戦争資料の展示施設。 その隣の九段会館(旧軍人会館、1934)は かつて旧日本軍の会館でした。 劇的な歴史のコントラストがここにあります。 【訃報】旧青梅市役所 解体 旧交通博物館 解体 安らかにおやすみください 【2010年12月9日】 「無言の箱絵画館」 3作品増えました 【2010年9月19日】 「無言の箱絵画館」 改修工事中です 【2010年4月26日】 個人的なご報告 某ゼネコンに就職が決まりました!! 来年からは建築が仕事に・・・!! 残り一年大学生やってます 【2010年3月26日】 ブログ、はじめました ってかはじめてました でも建築の話じゃありません 【2010年3月22日】 リンク集にもう二件追加です 建築関係ではありませんが・・・ さらにもう一件 【2010年3月11日】 リンク集に一件追加です あと代理でお知ら
1965年竣工 場所:東京都渋谷区神宮前6-35-3 設計:清水建設 構造:RC地上8階地下2階 敷地面積:4109平米 延床面積:23239平米 住戸数:164戸 住戸規模:29〜192平米 都心部の角地に立地する高級な分譲集合住宅。全面道路は傾斜しており、地階から2階の一部までは店舗や集会室が配されている。住戸階は各種の住戸タイプを販売案として用意し、需要にあわせて住戸タイプと配置を決定していく方法がとられた。スパンは3,730mX7,175mの単位が基本となっており、住戸はそれらの単位を組み合わせることによって多様なバリエーションをつくっている。4台のエレベーターを設けたコーナー部のホールから分岐した中廊下を挟んで住戸が配されている。各階ともフラット住戸が主であるが7~8階にはメゾネット住戸も含まれている。 建築資料集成より
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ペリー区" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2014年1月) 現在の山下町の街並み 画像中央の「ペリー内科小児科医院」の名称が、かつてのペリー区の名残である。 ペリー区(ペリーく)とは、アメリカ占領下の沖縄のみなと村(現那覇市)にあった地名。現在の那覇市山下町にあたる。 「ペリー区」の名称は、首里城を訪れ琉球王国との間で琉米修好条約を結んだアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督に由来するが、ペリー自身がこの地を訪れたなどの特別な故事があったわけではない。 戦前は現在と同じ「山下町」であった。ところが戦後、琉球列島米国軍政府統
小豆餅(あずきもち)は、静岡県浜松市中央区の町名。現行行政地名は小豆餅一丁目から小豆餅四丁目。住居表示実施済み[5]。 地理[編集] 三方原台地の中央部に位置する。主に住宅地として利用される。町内には直線的な道路が多く、また平坦な地形で標高差は殆どない。 歴史[編集] 正式な町名となったのは1976年(昭和51年)6月で、それ以前は大部分が萩町(北西側の一部は葵町)に属していた。しかし1964年(昭和39年)に廃線となった遠州鉄道奥山線には戦前から小豆餅駅が存在していたほか、さらに古い1892年 (明治25年)発行の2万分1正式図 (大日本帝国陸地測量部) にすでに「小豆餅」の地名が見えている。 町名の由来[編集] 徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に敗れた際、敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を食べたとする伝説に由来する。この逸話にはさらに続きがある。家康が小豆餅を食べている時に武田
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