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文学と歴史に関するyuki_2021のブックマーク (5)

  • 紫式部の1000年の受難 - 頭の上にミカンをのせる

    香子ちん、ぴんち! 紫式部さんが書いた「源氏物語」が、「世界最古の長編小説」と言われることもある、少なくとも日の文学史のみならず、日文化の根底の一つとも言われる、まさに「歴史的傑作」なわけですよ。それ故に千年の間にいろいろあったんです。 pic.twitter.com/Xn2NEg3L2B— SOW@ぎぶみーじょぶ (@sow_LIBRA11) August 26, 2020 後世の作家たちも熱烈なファンが多く、式部さんの百年弱くらい後に大活躍する「更級日記」の作者の菅原孝標女など、源氏物語読みたさに神に祈ります。ちなみのこの人、菅原道真の五代孫です。神の孫が祈るレベル! 道真も苦笑いw pic.twitter.com/wQv2pTAFZJ— SOW@ぎぶみーじょぶ (@sow_LIBRA11) August 26, 2020 www.tyoshiki.com 「あの巻のあのシーンは

    紫式部の1000年の受難 - 頭の上にミカンをのせる
  • 源氏物語で最古の写本発見 定家本の1帖「教科書が書き換わる可能性」|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

    源氏物語の現存する最古の写で、鎌倉時代の歌人・藤原定家による「定家」のうち「若紫」1帖(じょう)が、東京都内の旧大名家の子孫宅で見つかった。冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)が8日発表した。定家が校訂したとみられる書き込みや、鎌倉期に作られた紙の特徴などから、同文庫が定家と鑑定した。 既に確認されている定家4帖は、いずれも国の重要文化財に指定されている。「若紫」は、光源氏が後にとなる紫の上との出会いを描く重要な帖だけに、今後の古典文学研究に大きな一石を投じる可能性がある。 源氏物語(全54帖)の定家は、紫式部による創作から約200年後の13世紀初めに書き写された。昭和初期に国文学者・池田亀鑑(きかん)が調べ、「花散里(はなちるさと)」「柏木」「行幸(みゆき)」「早蕨(さわらび)」の4帖が確認されていた。 今回鑑定した元文化庁主任文化財調査官の藤孝一氏によると、冊子の大きさは縦2

    源氏物語で最古の写本発見 定家本の1帖「教科書が書き換わる可能性」|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
    yuki_2021
    yuki_2021 2019/10/09
    すごいな。歴史が動いちゃうのか。
  • 『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部 - コバろぐ

    紫式部といえば『源氏物語』を著したことで超絶有名ですが、他にも色々書いていて、その中には『紫式部日記』なるものもあります。 紫式部が書いた日記であるからには、彼女の普段の気持ちや考えが出ているんでしょうなぁ、と若いときに読んだことがあります。 そしたら、何だか清少納言のことをかなりボロカスに書いてあってビックリしたあの日。 『紫式部日記』とは 『紫式部日記』は紫式部によって書かれたとされている日記で、1008年秋から1010年正月まで、宮中の様子を中心に書かれています。 中宮彰子の出産が迫った1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部・赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観に

    『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部 - コバろぐ
    yuki_2021
    yuki_2021 2018/11/30
    面白いな。紫式部は現代だったらヲタ系の陰キャだったんだろうな。
  • なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史

    信じられない話ですが、日では一時期、文学といえば私小説のことでした。 笑い事ではなく、その災禍はいまも希薄化しながら続いているとも言えます。 たとえば作家を〈自由業〉だと考える習慣は、この希薄化した災禍の一部です。 私小説に反対した後続の作家たちの作品も、読者にはほとんど私小説であるかのように、その生活の反映であるかのように読まれました。 では何故、私小説はそんなにも成功を収めたのでしょうか? それを知るには、日の近代文学の歴史を簡単におさらいする必要があります。 1.戯作者上がりの新聞記者 江戸時代を通じて、執筆専業でえたのは滝沢馬琴ひとりでした。 幕末~明治初期にかけて活躍した仮名垣魯文も、戯作者の兼業としては伝統的な売薬を営み、維新後は商品広告である「引札」の執筆で禄をはんでいました。 やがて日でも新聞という新しいメディアがはじまり、その会社員となり定収を得ることで魯文ははじ

    なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史
  • 百人一首の歴史

    百人一首とは 「百人一首」と呼ばれるものは、一般に「小倉百人一首」として知られていますが、これは今から約730年もの昔、鎌倉時代の歌人である藤原定家がまとめたもので、百人一首の歴史はかなり古いものです。 天智天皇から順徳天皇までの約550年の間に、貴族や歌人たちの間で詠まれた和歌から、各人の優れた和歌や代表的な和歌一首を取り上げ、年代を追って、全部で百人の和歌を取り上げたものです。 「小倉百人一首」と呼ばれるのは、藤原定家が京都嵯峨の小倉山の別荘で屏風(襖)に書き写したことから、このように呼ばれていますが、小倉百人一首はすべて「古今集」や「新古今集」などの「勅撰和歌集」から集められています。 「勅撰和歌集」とは、時の天皇の命で編纂された和歌集で、全部で21の和歌集がありますが、「小倉百人一首」は、次の10の「勅撰和歌集」から、和歌が選ばれています。 ※2番の歌(持統天皇)と4番の歌(山部赤

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