大原観山(1818-1875)子規の母八重の父、外祖父。本名は有恒。儒学者。幕府直轄の昌平黌(しょうへいこう)の舎長、松山藩の藩校明教館の教授を務めました。明治維新後は私塾を開き、子規も漢文の素読を観山に学びました。 子規を愛した祖父観山は子規をかわいがり、訓育に力を注いだようで。母八重は「升はなんぼたんと教えてやつても覚えるけれ、教えてやるのがたのしみじゃと言うておりました」(母堂の談話)と語り残しています。 祖父のような学者になる!観山は子規が数えて九歳の時になくなりますが、子規の人格形成や志向に大きな影響を与えたようです。子規は観山について「筆まか勢」第一編「当惜分陰」でこのように書いています。 余幼より懶惰、学を修めず。八、九歳の頃、観山翁余を誡めて「余の幼なる時も汝程は遊ばざりし」といはれし時には多少の感触を起こしたり。翁は一藩の儒宗にして人の尊敬する所たり。余常に之を見聞する故