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  • 9月19日は正岡子規の命日「糸瓜忌」です!

    みなさん、こんにちは。なんだかんだありまして愚陀仏庵の話が中断したままです。もし興味持ってくださっている方がいらしたら申し訳ないです。また書きます。 9月19日は正岡子規の命日「糸瓜忌」です。子規が亡くなったのは明治35(1902)年。20代で結核を患い、脊椎カリエスを併発し、晩年は寝たきりの生活を余儀なくされた子規はこの日、34歳と11カ月の人生の幕を閉じました。 俳句、短歌etc…多彩な業績でも、子規はその短い人生とは裏腹に膨大で多彩な仕事をしました。俳句や短歌の革新、写生文の提唱などなど。写生の概念を知ってからは、子供の時から愛してやまなかった草花や果物などを題材に絵も描きました。 書くこと、描くことが大好き、べることも大好き。小さい頃は泣き虫だったのに、いつの間にか大将気質の自信家に成長して野球に熱中した子規。仲間と遊ぶこと、議論すること、共に創ること。耐えず人とのつながりを求め

    9月19日は正岡子規の命日「糸瓜忌」です!
    yukinontan
    yukinontan 2017/09/19
    絶筆の糸瓜の俳句、その場で作ったんじゃなかったとは。にわかに受け入れにくい話ですね
  • 正岡子規は赤福餅の俳句を詠んだのか?: 正岡子規 病牀六尺の青春

    伊勢土産として有名な赤福。つい先日、包装紙に100年以上に渡って使われてきた正岡子規の「到来の赤福もちや伊勢の春」という俳句に裏付け資料がないと指摘され、店が情報提供を呼びかけているとの報道がありました。 朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASK8S777MK8SPFIB00M.html 気になったので愚陀仏庵の話はお休みして、子規が赤福の句を詠んだのかどうか考えてみました。 赤福では1911(明治44)年から子規の俳句に使っていて「1900(明治33)年、門弟の山勾玉から赤福を土産に受け取った子規が、ありし日の伊勢参りを懐かしんでこの句を詠んだ――。そんなエピソードが創業家で語り継がれ、赤福のホームページでも紹介」していながら、肝心の俳句が子規の作品だとする資料がどこにもないことが分かったというお話です。 「買ひにやりけり春の伊勢旅籠」

    正岡子規は赤福餅の俳句を詠んだのか?: 正岡子規 病牀六尺の青春
    yukinontan
    yukinontan 2017/09/02
    納得!
  • 子規・漱石 愚陀仏庵の52日②松風会が門下に: 正岡子規 病牀六尺の青春

    前回に続いて愚陀仏庵のお話です。正岡子規と夏目漱石が同居生活を送った愚陀仏庵は松山の中心部二番町というところにありました。建物そのものは太平洋戦争中に消失しています。旧松山藩主久松家の別荘萬翠荘(松山市一番町、坂の上の雲ミュージアムの近く)の敷地内に復元されていた愚陀仏庵は2010年に土砂崩れで全壊してしまいました。再建しようという話も持ち上がっていますが、どうなっているかはよく分からないです。元々愚陀仏庵があった場所は駐車場になっています。 漱石は明治28(1895)年4月に帝大卒の英語教師として松山中学に赴任。旧松山藩士上野義方宅の離れ(愚陀仏庵)で下宿を始めたのは6月下旬でした。当時の漱石の月給は校長の60円を上回る80円。子規の月給はMAXが40円でした。 俳句を作り始めようと思っているところだ子規の帰郷は8月25日。いったん叔父の大原恒徳の家に腰を落ち着けます。彼の帰郷を待ってい

    子規・漱石 愚陀仏庵の52日②松風会が門下に: 正岡子規 病牀六尺の青春
    yukinontan
    yukinontan 2017/08/31
    よく調べてますね
  • 子規、漱石、司馬遼太郎…文体診断で文豪の文章を入力してみた

    「文体診断ロゴーン」を御存知でしょうか。文章を入力すると、名文の中から似た文体を探し出して、どの作家や著名人の文章と似ているかを教えてくれるツールです。文章の読みやすさなども診断してくれます。最近知ったのですが、面白そうですよね。 子規人の文章でテスト文章診断。人の文章だったらどうなるのか。試しに正岡子規の文章を入力してみました。 まずは「墨汁一滴」から好きな文章をピックアップ。 ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛みをこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。 結果は… 井上靖?福沢諭吉?年代もバラバラだ。あれ、おかしいな。一致指数も低い。今度は少し長めの文章にしてみました。 或る絵具と或る絵具とを合せて草花を画く、それでもまだ思ふやうな色が出ないとまた他の絵具をなすつてみる。同じ赤い色でも少しづつの色の違ひで趣が違つて来る。いろい

    子規、漱石、司馬遼太郎…文体診断で文豪の文章を入力してみた
  • やっぱり俳句甲子園は面白い!

    開成が2連覇8月19、20日の両日、松山で開かれた20回目の俳句甲子園は、開成高校の2年連続10度目の優勝で幕を閉じました。ネット動画などで一部を久しぶりに観戦しただけですが、面白かったです。 開成高校おめでとうございます。同校の岩田奎選手の作品「旅いつも雲に抜かれて大花野」は最優秀にも選ばれました。ディベートでも大活躍だった彼。表彰式で涙を浮かべている姿がとても爽やかでした。 「開成は言葉余りて心足らず。幸田は心余りて言葉足らず」。高橋睦郎氏が決勝戦の講評でこういう趣旨の発言をされていました。確かに見ていると開成が何もかも達者すぎて、そのような印象を与えられそうになりましたが、きっとメンバーはあふれんばかりの作品や俳句というものへの思いを舞台の上では極力抑えて冷静に振る舞っていたのでしょうね。表彰式の岩田選手を見て私の印象は一瞬で改められました。 1チーム5人で対戦さて俳句甲子園は199

    やっぱり俳句甲子園は面白い!
    yukinontan
    yukinontan 2017/08/21
    野球の訳語についてのコメあるど、その辺もこのブログは書いてたよ。ファンになったのなら読んであげようw
  • 俳句の日に子規俳句を考えた

    美術の概念を文学に子規の俳句と言えば「写生」のイメージが強いですね。子規の写生論は美術の概念を取り入れたものです。子規が西洋美術の写生、いわゆるスケッチの概念を知ったのは明治27(1894)年。知人の画家中村不折に教わりました。 写生散歩子規は、この年の秋の終わりから冬の初めにかけて、手帳と鉛筆を持って毎日のように根岸郊外を散歩し、句想を得ては手帳に書き付けました。当時のことをこう振り返っています。 「写生的の妙味は此時に始めてわかつた様な心持ちがして毎日得る所の十句二十句位な獲物は平凡な句が多いけれども何となく厭味がなくて垢抜がした様に思ふて自分ながら嬉しかつた」(獺祭書屋俳句帖上巻) 写生と俳句の相性の良さを実感した子規は、この概念を核の一つとして俳句革新につなげていきました。俳句で写生の有用性を確認した子規は短歌や文章にも写生の概念を持ち込み、それぞれの近代化を押し進めたのでした。

    俳句の日に子規俳句を考えた
  • 御存知ですか?書籍の検印制度 文豪たちの地味で重要なお仕事

    不正防止のため一冊一冊に押印これは、明治時代に近代的な出版制度が整えられていく過程で出来たシステムで、出来上がったの著者が制作部数を確認するために用紙に印を押し、用紙を貼り付けていました。出版社が著者と取り決めた以上の部数を発行して不正に利益を得ることを防ぐためのものでした。当時の地方では東京などで発行された書籍をコピーした廉価な海賊版が出回ることもあったようで、検印は正規に発行されたの証明でもありました。海賊版はよく売れたらしく、面倒な作業であっても不正販売への対抗措置として必要とみなされていたようです。 とはいえ著者にとっては大変な作業です。建前では著者人が印を押すことになっていましたが、当然、家族も手伝ったでしょう。出版社の社員が手伝うこともあったそうです。昭和30年前後に徐々に廃止されていったそうですが、100万部、200万部のベストセラーなんてことになったらどれぐらい大変な

    御存知ですか?書籍の検印制度 文豪たちの地味で重要なお仕事
  • 子規の短歌②雑多な題で歌会 歌人を笑わす子規先生

    世の中に蚤のめをとゝうたはれて妹は肥ゆ肥ゆ伕は痩せに痩すここのところ文アルに夢中になっていましたが、また題に戻して今回は子規の短歌のお話です。 内も外も敵だらけ 俳人だけで初歌会今回の歌は明治32(1899)年8月6日の子規庵歌会に出された歌です。子規庵で初めて歌会が開かれたのは明治31年3月25日。この年2月から新聞「日」に「歌よみに与ふる書」「百中十首」(自作をいろんな人に順番に選んでもらって発表)の発表を始め、俳句革新に続いて短歌革新に乗り出したばかりの時期です。 過激な歌論は反発を招き、さすがの子規も熊の漱石に「内も外も敵だらけで閉口している」と愚痴をこぼすほどでした。「歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候」なんて言ってケンカ売りに行っているわけですから仕方ないんですが、堪えたのは堪えたんでしょうね。そんな状況ですから初めての歌会の参加者は高浜虚子や河東碧梧桐ら俳

    子規の短歌②雑多な題で歌会 歌人を笑わす子規先生
  • 正岡家所蔵の史料を展示!子規記念博物館へ行こう!

    今、松山で面白い展覧会が開かれています。正岡子規の孫、正岡明さんが所有する子規や加藤拓川の書簡などが子規記念博物館で展示されています。明さんは、妹律の養子となった忠三郎氏の息子さんです。奈良にお住まいの造園技師で樹木医さん。現在は正岡子規研究所を主宰されているそうです。会期が7月2日までと、あとわずかですが、目を引かれた展示物をいくつか紹介します。 漱石の絵はがき漱石がロンドンから明治33年12月26日付で子規に送った絵はがき。ロンドンの街角のイラストの周囲に細かい文字でびっしり書かれています。内容は次のような感じです。 病気の具合はいかが?僕は東京の深川のような田舎に引きこもって勉強しています。を買いたいんだが、欲しいものはだいたい30~40円もするから手が出せない(子規の月給が40円)。いろいろ詳しく報告したいところだけど、忙しくて時間が惜しい気持ちがして葉書で済ませてしまった。許し

    正岡家所蔵の史料を展示!子規記念博物館へ行こう!
  • 子規の庭

    柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺正岡子規の代表句。などと言う必要がないぐらい有名な俳句ですよね。 明治28(1895)年夏、日清戦争に従軍記者として参加し、帰国の戦中で大喀血して病気を悪化させた子規は療養のため故郷の松山に戻ります。当時松山中学の英語教師をしていた夏目漱石の下宿愚陀仏庵で50日余りを過ごし東京へ向かいます。 漱石に借りたお金で旅立った子規は奈良に立ち寄り、この句を詠みました。このあたりの話は、いずれまた書こうと思います。で、何を書くつもりなのかと言いますとですね。 奈良へ!私、奈良に行ってきたんです。ちょっと関西に行く機会がありましたので。時間的には厳しかったのですが、行けるとこまで行ってやろうとまずは法隆寺へ。 分かってはいましたが、修学旅行生がいっぱい。久しぶりでしたのでゆっくり見たかったのですが、時間がないから駆け足駆け足でまわりました。百済観音は何度見てもいいですね。 子

    子規の庭
  • 子規の生涯⑦幼年時代豆知識(2)

    正岡子規幼少期の豆知識(1)の続きです。 好物はカボチャ大いで知られる子規ですが、母八重の談話によると、小さい頃の好物はカボチャでした。 柳原極堂の「友人子規」には父の実家佐伯の伯母の次のような談話が紹介されています。 升さんが幼少の頃遊びに来られて御飯時に膳を出すと「オバタン」「カボタ」があるかな、などと片言いつて一同を笑はせたものださうです 八重の談話をまとめた「子規居士幼時」にも出てきます。 其処(※佐伯家)へ月に二三度行くのを楽しみにして居たが佐伯で何が一番好きかといふと南瓜が一番好きだといふ事でした。菓子物は小児の時から矢張好きでありました。 ただカボチャ好きの理由について、妹律は経済的理由からそうなったとしています。 それから稚い時分、南瓜が好きだったとか言いますが、何分貧乏士族のことで、ロクに魚類などよう買わなかったせいもありましょう(家庭より観たる子規) 朝寝坊子規は小学

    子規の生涯⑦幼年時代豆知識(2)
  • 子規の俳句⑤薫風や大文字を吹く神の杜

    明治30(1897)年の句。先日紹介した柳原極堂の句碑が建てられた松山の井手神社に前からある子規の句碑に刻まれています。「大文字を吹く」。これ読んで分かる人はどれぐらいいるでしょう?私は分からなかったです。 大きな文字を書いて奉納この神社には天満宮を祭ってあり、毎年祭礼の時に字が上手になるように、と子供たちが競って大きな文字の墨書を奉納する風習があったそうです。妹の律と河東碧梧桐が子規を回顧した「家庭より観たる子規」で2人は次のように語り合っています。 (碧)立花神社の大文字-私どもでは、オモジと言っていました。お祭の日に大きな字を書いてあげると、手が上手になるという、昔の話らしい習慣、あれも無論お書きになったのでしたね。 (律)おもじ、私ども女は、オモウジ、と長く引張つたように思います。兄も、きょうはオモウジの日だと、というと、其の日に限って、判紙をついだりしないで、唐紙と言ひましたがか

    子規の俳句⑤薫風や大文字を吹く神の杜
  • 子規の俳句④寝ころんで書読む頃や五六月

    明治29(1896)年の句。「寒山落木 巻五」に入っています。読書の秋などと言いますが、さわやかな初夏にのんびり読書にふけるのもいいもんです。私も枕元に積み上げた子規関係のを適当に取ってはページをめくって楽しんでいます。 子規はこの句を詠む1年前、日清戦争の従軍記者となって現地に赴き、病気を一気に悪化させました。松山での療養を経て秋に東京に戻り、俳句革新などの文学活動を活発化させていきました。 こんなに大望を抱いて死にゆく者がいようかただ明治29年2月には左の腰が腫れて寝たきりになります。3月17日には医師にカリエスと初めて診断されショックを受けます。この日、虚子に宛てた手紙では「貴兄驚き給ふな僕ハ自ら驚きたり」と書き始めます。 覚悟は決めていた。今更驚くこともないともないと思っていたけれども、驚いた。しばらく言葉が出なかった、と打ち明ける子規。その間、頭に浮かんだのは「自分ほど大きな望

    子規の俳句④寝ころんで書読む頃や五六月
  • 子規と漱石③論争!アイデアとレトリック

    「七草集」と「木屑録」。互いの作品批評を通じて認め合った子規と漱石。この時期に2人の間で交わされた有名な論争があります。始終何かを書いている子規に対して漱石が苦言を呈したのがきっかけでした。 漱石「大兄の文はなよなよとして…」明治22(1889)年の大晦日、漱石は松山に帰省中の子規に手紙を書きました。「七草集」で様々な文体を駆使してみせた子規に、漱石は「兼て御趣向の小説は已に筆を下ろし給ひてや。今度は如何なる文体を用ひ給ふ御意見なりや」と尋ねます。 「大兄の文はなよなよとして婦人流の臭気を脱せず、近頃は篁村(饗庭篁村)流に変化せられ旧来の面目を一変せられたる様なりといへども未だ真率の元気に乏しく従ふて人をして案を拍て快と呼ばしむる箇処少なきやと存候」 読書してideaを養うべしこのように切り出した漱石は、文壇に立ちたいならオリジナルなアイデア(思想)を養うことこそが大切。文章のレトリックな

    子規と漱石③論争!アイデアとレトリック
  • 慶応三年生まれ

    今年生誕150年となる子規、漱石と同じ慶応三年生まれには、司馬遼太郎「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之のほか幸田露伴や尾崎紅葉ら多士済々。実は子規没後100年の年に坪内祐三「慶応三年生まれ七人の旋毛曲がり」を知り、気づかされたという次第ですが…。その坪内氏がチョイスした七人は子規、漱石、露伴、紅葉、宮武外骨、南方熊楠、佐藤緑雨です。 子規の小説家志望に引導を渡した露伴明治25(1892)年、子規は渾身の小説「月の都」を書き上げ、「五重塔」の連載を始めるなど、すでに文壇で活躍中だった露伴に出版のあっせんと批評を乞います。評価は今ひとつで子規は意気消沈。小説家を断念し俳句に懸ける決意をしたことはよく知られているかと思います。 「日派」に対抗した俳人紅葉「金色夜叉」の尾崎紅葉は俳句も作りました。表現を凝縮させる手法や句を作るときの観察力が小説にも生かせると考えたらしいです。子規の「日派」に対

    慶応三年生まれ
  • 子規山脈③虚子·碧梧桐

    高浜虚子(1874-1959)松山出身の俳人。名清。河東碧梧桐とともに子規門下の双璧をなした人。柳原極堂が創刊した「ほとゝぎす(のち「ホトトギス)」を東京で引き継ぎました。子規の生前、「後継者に」と望まれた際には断って思いっきり落胆させていますが…。自立した一人の文学者たらんとの思いがあったのでしょう。でも、真意を内に秘めて安心させてやるとかできなかったのかなあ。正直すぎです。 漱石をプロデュース子規没後は夏目漱石の「吾輩はである」などを掲載し、漱石が文豪への道を歩むきっかけを作りました。 花鳥諷詠、客観写生一時俳壇を離れますが、かつての親友碧梧桐の新傾向俳句と対峙せんと復帰。「花鳥諷詠」「客観写生」の理念を提唱し、「ホトトギス」を大きく発展させ、俳壇の最高権威となりました。 子規逝くや十七日の月明に子規が亡くなった時に詠んだ句です。命日の9月19日は新暦。旧暦では8月18日です。子規

    子規山脈③虚子·碧梧桐
  • 柳原極堂の句碑

    子規の俳句革新支える松山市の井手神社というところに柳原極堂の句碑ができました。極堂は子規と同年生まれの友人。子規存命中は「ほとゝぎす」を創刊するなど、その活動を支え、子規没後は顕彰活動に尽力した人です。「友人子規」を書いたことでも知られていますね。 中学時代からの「文友」極堂と子規は中学時代からの友人で、子規は極堂を「文友」と称しました。子規と同時期に上京しますが、学業半ばで帰郷。松山の「海南新聞」の記者になり、明治28年、子規が病気療養のため帰省し、夏目漱石の下宿愚陀仏庵で過ごした時には日参組の一人となり俳句指導を受けました。海南新聞に子規選の俳句欄を設けて子規の俳句革新に協力。明治30年に創刊した「ほとゝぎす」は新聞社で印刷していたそうです。のちに新聞社を経営したり、政治家になったりもしました。今も活動中の松山子規会の発足にも貢献したそうです。 吾生はへちまのつるの行き処句碑は生誕15

    柳原極堂の句碑
  • 子規山脈②大原観山・加藤拓川

    大原観山(1818-1875)子規の母八重の父、外祖父。名は有恒。儒学者。幕府直轄の昌平黌(しょうへいこう)の舎長、松山藩の藩校明教館の教授を務めました。明治維新後は私塾を開き、子規も漢文の素読を観山に学びました。 子規を愛した祖父観山は子規をかわいがり、訓育に力を注いだようで。母八重は「升はなんぼたんと教えてやつても覚えるけれ、教えてやるのがたのしみじゃと言うておりました」(母堂の談話)と語り残しています。 祖父のような学者になる!観山は子規が数えて九歳の時になくなりますが、子規の人格形成や志向に大きな影響を与えたようです。子規は観山について「筆まか勢」第一編「当惜分陰」でこのように書いています。 余幼より懶惰、学を修めず。八、九歳の頃、観山翁余を誡めて「余の幼なる時も汝程は遊ばざりし」といはれし時には多少の感触を起こしたり。翁は一藩の儒宗にして人の尊敬する所たり。余常に之を見聞する故

    子規山脈②大原観山・加藤拓川
  • 子規と漱石②七草集と木屑録

    寄席通の二人ともに慶応3(1867)年生まれの子規と漱石。明治41年、「ホトトギス」の子規七回忌号に寄せた漱石の談話によると、二人が親しくなったのは寄席好き同士だったからでした。 「わすれてゐたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は二人で寄せの話をした時先生(子規)も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであらう。それから大に近寄て来た」(「子規全集別巻二」より) 当時は第一高等中学科(文科)一部の1年生。おそらく予備門時代から面識はあったでしょうが、交際が始まったのは明治22(1889)年の1月ごろ、とされています。はて?出典がなんだったかが思い出せず、なかなか分かりませんでした。いろいろ見返してようやく発見。 「木屑録(ぼくせつろく)」の評でした。漱石はこの年の夏休みに房総を旅行。その紀行文を漢文で書き、子規に評を求めました。子規も漢

    子規と漱石②七草集と木屑録
  • 子規と漱石①最後の手紙

    僕ハモーダメニナツテシマツタ僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ 明治34(1901)年11月6日、正岡子規が英国留学中の夏目漱石に宛てた手紙はこのような告白から始まっています。 同い年の二人の出会いは学生時代、22歳の時。互いを認め合い励まし合いながら時を重ね、病いに倒れた子規は立身出世を諦め文学者の道を、漱石は子規の影響で始めた俳句で名を上げつつも英文学者・教育者としての道を進んでいました。 子規を喜ばせた倫敦消息漱石が渡英したのは前年9月。官費留学でした。子規の病いは重く、互いに生きては会えないと思っていました。渡英後の漱石は日から送られてくる「ホトトギス」で子規の消息を確認していたようで、明治34年1月22日付の日記に「ほとゝぎす届く子規尚生きてあり」と書いています。 そして漱石は4月に子規、高浜虚子宛てにロンドンでの暮らしぶりを日記風につづった長文

    子規と漱石①最後の手紙