2011年4月29日のブックマーク (8件)

  • 『ダロウェイ夫人』ヴァージニア・ウルフ - ボヘミアの海岸線

    [たった一日] Virginia Woolf MRS.DALLOWAY , 1925. ダロウェイ夫人 (集英社文庫) 作者: ヴァージニア・ウルフ,丹治愛出版社/メーカー: 集英社発売日: 2007/08/21メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 28回この商品を含むブログ (21件) を見る イギリスの女性作家による、6月のロンドンの、たった一日の物語。 著者ウルフは、イギリスのロンドンの文学一家に生まれた、お嬢様タイプの作家。そのへんの境遇は、書の主人公であるダロウェイ夫人に似ているけれど、ほがらかなダロウェイ夫人とちがい、ウルフは生涯、神経的発作に悩まされ続けた。 国イギリスでは、「夜眠れない? ならばヴァージニア・ウルフを読みなさい」なんていうユーモアが通るくらい、難解な作家とされる。実験的な手法が多いせいかもしれない。書は、ジェイムス・ジョイスで有名なあの「意識の流れ

    『ダロウェイ夫人』ヴァージニア・ウルフ - ボヘミアの海岸線
  • 『木曜日だった男 一つの悪夢』チェスタトン - ボヘミアの海岸線

    [何かに抗いたい] Gilbert Keith Chesterton THE MAN WHO WAS THURSDAY , 1905. 木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫) 作者: チェスタトン,南條竹則出版社/メーカー: 光文社発売日: 2008/05/13メディア: 文庫購入: 8人 クリック: 74回この商品を含むブログ (73件) を見る 「僕にはすべて分かったぞ」… 「地上にあるものはなぜお互い同士戦うのか?世界の中にあるちっぽけなものが、なぜ世界そのものと戦うのか?一匹の蝿が、なぜ全宇宙と戦わねばならないのか?」 19世紀に活躍したイギリスのジャーナリスト・推理作家による、哲学アナーキズム小説。 作者は、「ブラウン神父」シリーズなどの探偵ものを書いている。書も、無政府主義者の集会に刑事の男が侵入するという、スタンダードな探偵物語のプロットだが、途中からどんどん抽

    『木曜日だった男 一つの悪夢』チェスタトン - ボヘミアの海岸線
  • 『新ナポレオン奇譚』G.K.チェスタトン - ボヘミアの海岸線

    「ひげ剃りですか、旦那?」芸術家は店の中から尋ねた。 「戦いです」とウェインは、戸口に立ったまま答えた。 「何ですって?」と鋭く相手は言った。 「戦いです」とウェインは、熱をこめて言った。 ——G.K.チェスタトン『新ナポレオン奇譚』 狂った世界の肯定法 イギリス紳士め、とチェスタトンを読むたびに思う。ユーモアを愛し、シニカルに世界を笑いながら、哲学や神学を大まじめに語る。デビュー作でもその態度は変わらない。チェスタトンはどこまでいってもチェスタトンであった。 今から80年先のことを想像するとしよう。メーヴェをみんなが乗り回して、ドラえもんのマジカルな道具が実現しており、脳がWebにつながっているかもしれない……なんて私のお粗末な妄想は置いておくにしても、80年先の未来を普通は「進歩した未来」として想像する。しかし、1904年のチェスタトンは、80年後のロンドンを「中世に逆戻り」した世界と

    『新ナポレオン奇譚』G.K.チェスタトン - ボヘミアの海岸線
  • 『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ - ボヘミアの海岸線

    波音は、たいていは控えめに心を和らげるリズムを奏で、夫人が子どもたちとすわっていると、「守ってあげるよ、支えてあげるよ」と自然の歌う古い子守唄のようにも響くのだが、また別の時、たとえば夫人が何かの仕事からふとわれにかえった時などは、そんな優しい調子ではなく、激しく太鼓を打ち鳴らすように生命の律動を容赦なく刻みつけ、この島もやがては崩れ海に没し去ることを教えるとともに、あれこれ仕事に追われるうちに彼女の人生も虹のように消え去ることを、あらためて思い起こさせもするのだった。 ーーヴァージニア・ウルフ『灯台へ』 私はここにいた 「灯台」という存在が好きだ。実際に灯台に足を運んだことはほとんどない。おそらく私は建造物としての灯台ではなく、灯台が持つ独特の雰囲気、象徴としての灯台に惹かれているのだろう。「私はここにいる」「そちらはどうか」と光を放つストイックさ、孤独の距離感が、星や人の営みに似ている

    『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ - ボヘミアの海岸線
  • 新訳『賜物』あるいは『記憶よ、語れ』――ナボコフ再訪(5) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra

    ナボコフの作品は短篇、長篇にかかわらずいずれも大好きだけれども、もっとも鍾愛する作品はといえば、まず『記憶よ、語れ』に指を屈する。はじめてナボコフの作品にふれたのが十代の終わり、英語の授業で読んだFirst Loveだった。大津栄一郎注釈のFIRST LOVE AND OTHER STORIESの冒頭に収められている短篇で、そこに登場するフランス人の女の子の名前Colletteを題名に「ニューヨーカー」に発表され、のちにSpeak Memoryの第七章に組み込まれた(Nabokov's DozenにはFirst Loveのタイトルで収録されている)。First Loveを読んだのは、大津栄一郎の翻訳『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』が刊行されるずっと前で、覚束ない語学力で辞書を引き引き一行ずつ辿っていったことを今でもよくおぼえている。鉛筆で訳語の書き込みのある南雲堂のテキストは幾たびかの引越し

    新訳『賜物』あるいは『記憶よ、語れ』――ナボコフ再訪(5) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
  • 没後32年目にようやく出版されたウラジミール・ナボコフの遺作 ー The Original of Laura

  • 訳すのは「私」 ウラジーミル・ナボコフにおける自作翻訳の諸相(秋草 俊一郎) │ 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科

    バイリンガル作家ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)はロシア語と英語の二言語を用いて創作をおこなっただけでなく、自分のロシア語創作を英語に、英語の創作をロシア語に翻訳した。この“self-translation”(論文では「自作翻訳」という訳語をあてた)が、ナボコフの創作活動を特徴づけているのはまちがいないが、それについては30年以上前にグレイソンのモノグラフが一冊あるだけで、以降あまりまとまった研究がされてこなかった。論文では、サミュエル・ベケットやミラン・クンデラ、多和田葉子などもおこなったこのすぐれて現代的な現象である自作翻訳を用いて、以下の二点を考察することを目的としている。1、自作翻訳を通じて、ナボコフの作品について、あるいはナボコフという作家について理解を深めること。2、ナボコフにおける「自作翻訳」とはなにかを、緻密な比較対照によって検証すること。 序章、イントロダ

  • 『雪の練習生』 多和田葉子 | 新潮社

    全国のケモノバカの皆さん、トヨザキは今、〈耳の裏側や脇の下をくすぐられて、くすぐったくて、たまらなくなって、身体をまるめて床をころがりまわっ〉てるシロクマの仔のように上機嫌です。なんなら〈四つん這いになって肛門を天に向かって無防備に突き出して〉もいいくらいスコーンと開放的な気分といってもようございましょう。なぜならば、出来たてほやほやの『雪の練習生』を読んだからです。多和田葉子さんのこの最新作の主人公が、ベルリン動物園で生まれ人工哺育で育った、あの人気者クヌートだからなんです。 しかも、ケモノバカの皆さん、クヌートばかりじゃないんですよ、この小説に登場するのは。第一部「祖母の退化論」はクヌートのお祖母ちゃんにあたる〈わたし〉が、会議の合間をぬって書き進めている自伝になっていて、第二部「死の接吻」はサーカスで猛獣使いをしている小柄な女性ウルズラと、クヌートの母トスカの物語。そして、クヌートが

    『雪の練習生』 多和田葉子 | 新潮社