ブックマーク / www.zen-essay.com (13)

  • 異常だって正常さ ~色覚異常の目で普通に生きていく~ - 禅の視点 - life -

    私は生まれつきの先天性色覚異常という目の障害があって、赤と緑に関連する色の識別が難しい。識別できる場合もあるのだが、たとえば緑色の草のなかに赤色の花が混じっていても全部緑色に見えることが多いし、熱っぽい顔だとか、生焼けの肉だとか、そういった「赤み」はまったく見えない。赤みという色合いがあるのは情報として頭で理解してはいるが、自分の目で実際に赤みが見えたことは一度もない。 小学生の頃は、青と紫の違いがわからなかった。紫は青に赤みが加わった色だから、この赤みが抜けて青に見えてしまうのである。私にとって青と紫はほとんど同じ色で、紫のほうが若干暗いと感じることだけが、強いて言えば青と紫の違いだった。 だから図工の時間に外で絵を描くときには、空の色を紫で描いたこともあった。私にしてみれば、絵具セットには青色と暗い青色(紫)が並んでおり、どちらを使うかは気分次第で決めるというような違いでしかなかった。

    異常だって正常さ ~色覚異常の目で普通に生きていく~ - 禅の視点 - life -
    zaihamizunogotoshi
    zaihamizunogotoshi 2021/06/19
    「多くの人が他者のことを「自分と違ってあたりまえ」だと思えたなら」いいですね🍀
  • 無縁墓は「縁の無くなった墓」とは限らない  - 禅の視点 - life -

    仏教における「無縁」の話 「無縁」という単語をくっつけた言葉をたまに見聞きする。良い意味で使われているケースは、まずない。 パッと思いつくところでは、「無縁墓」「無縁社会」「無縁死」。どれも言葉の後ろにひっそりと静まりかえったような淵を感じる言葉で、否が応でも寂しさが漂う。これら「無縁」という言葉の意味を一言で表せば、「つながりが無い」となるだろうか。 墓の管理をする者とのつながりが絶えた「無縁墓」。他者とのつながりが希薄な「無縁社会」。看取られることも引き取られることもない、つながりが消失したなかでの「無縁死」(孤独死)。3つの言葉は、およそそのような意味合いなのではないかと思う。 世間一般で「縁」といえば、それはやはり何らかの「つながり」を意味する文脈の中で使われる言葉となっていることだろう。それが「無」いのであるから、「無縁」を「つながりが無い」を意味する言葉として用いることは当然の

    無縁墓は「縁の無くなった墓」とは限らない  - 禅の視点 - life -
    zaihamizunogotoshi
    zaihamizunogotoshi 2021/05/04
    多様な人が集まった「無縁墓」楽しそう!いろいろな視点があってそれを知れて楽しいです。ありがとございます🍀
  • なぜ悪いことをしてはいけないのか? - 禅の視点 - life -

    悪いことをするべきではない理由 問いを少し修正しよう。 なぜ悪いことを「してはいけないのか」 ではなく、 なぜ悪いことを「するべきではないのか」 に。 悪いことをするべきでない理由は、悪いことをすれば、そのとき人は人生を「悪い人」として生きているから。 悪い人として生きた時間は、悪い時間である。 悪い時間を過ごしているあいだは、悪い人生である。 つまり、悪いことをすれば、人生が悪くなる。虚しいものになる。 決して良くはならない。必ず悪くなる。 自分の生きる意味が悪いものになってしまうのだから、悪いことをするべきではない。 悪いことを「してはいけない」問題 悪いことを「してはいけない」と言う人もいる。 してはいけない。 それは自分に対しての言葉なのか、自分以外の誰かに対しての言葉なのか。 どちらにしても、「してはいけない」は規制の語である。禁止の語である。 したがって「してはいけない」が悪い

    なぜ悪いことをしてはいけないのか? - 禅の視点 - life -
  • 【禅語の本】禅の入門書にオススメ『糧になる禅語』の内容をご紹介 - 禅の視点 - life -

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    zaihamizunogotoshi 2018/12/17
    「幸せは得るものではなくて、感じるものだということ」自分で見つけるものなんですね…。目を開かないと見えないですね…
  • 六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)と六識の意味 - 禅の視点 - life -

    六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)と六識の意味 仏教書を読むなどして仏教について学んでいると、けっこうな頻度で専門的な仏教用語と出くわす。 ある程度読み慣れて仏教知識が身についていけば、いちいち辞典等で意味を調べなくても読み進めていくことができるが、学びはじめたばかりの頃はそうもいかないことが多かった。 辞典を引いたら引いたで、今度は辞典に書かれている説明文の意味がわからず、 「辞典の辞典はどこじゃー!」 と、辞典に向かって叫びたくなるような衝動に駆られたことが何度もあった。 あの頃はまだ若かった……。 理解してしまえば特に難しい話ではないのに、なぜか当時はやたらとややこしく感じていた仏教用語として、私が思い出すのは「六根(ろっこん)」「六境(ろっきょう)」「六識(ろくしき)」。 この3つが一体何を意味しているのかよくわからないという方が私以外にもいるかもしれないので、今回はこの話

    六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)と六識の意味 - 禅の視点 - life -
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    zaihamizunogotoshi 2018/09/25
    「自分の認識を「絶対」と思い込むと (略)思い込んだ人同士が、どうにかして自分の絶対を通そうとすれば…いざこざが生じるのは目に見えている。」わかってはいるのですが…無になれないです…。
  • 正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part⑤ - 禅の視点 - life -

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    zaihamizunogotoshi 2018/09/19
    「あなたがもし仏性を見たいと思うなら、まずは自分が不変に存在し続けることを望む心を捨てなければならない」そのほかにも心に響く言葉ばかり。ありがとうございます。
  • 正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文 Part② - 禅の視点 - life -

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    zaihamizunogotoshi 2018/08/08
    「「時節にもし至ったなら」は「まさに今、時節に至っている」ことであるのだから、今この時間を無駄にするような生き方はすべきでない」最近ふと昆虫や牛に思いをはせるのだけど、そういうことかなと。違うかな?
  • 正法眼蔵第一「現成公案」巻の概要と現代語訳と原文 - 禅の視点 - life -

    「現成公案」巻の概要と現代語訳と原文 『正法眼蔵』の数多の巻のなかでも、この現成公案の巻は最重要の部類に含まれるものと考えて相違ないと考える。 75巻の首巻となっているのも、もちろん偶然ではないはず。 現成公案とは、ずばり「悟りの実現」を意味する言葉であり、この巻で著述されている内容は、仏法の根幹である「悟り」をテーマとしている。 「現成」は「現成正覚」の略で、より意に近い訳を当てるとすれば、悟りとは目の前に実現されている、というほどの意味となるだろう。 実現するものを示す「正覚」の部分が省略されているわけだが、そんなことはあえて言わなくてもわかるということなのだと思われる。 もちろん正覚とは「悟り」の意だ。 一方の「公案」は、原意を辿れば中国における官の公文書に行き着く。 なぜいきなり公文書が登場するのかであるが、たとえば、年間にいくらかの米を納めなければならない、というような公文書

    正法眼蔵第一「現成公案」巻の概要と現代語訳と原文 - 禅の視点 - life -
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    zaihamizunogotoshi 2018/07/02
    「途切れた「現在」が連続することによって、時間はあたかも進んでいるかのように感じられるだけで、実際に存在する時間は常に現在をおいてほかにない。」今の連続。
  • 「世知辛い」ってどういう意味?【身近な仏教用語】 - 禅の視点 - life -

    「世知辛い」はもともと仏教用語 なんというか、世知辛い世の中である。 普段の会話で耳にする機会は少ないが、文字やセリフとしてはときどき見聞きする「世知辛い」。 「よちがらい」ではなく、「せちづらい」でもなく、「せちがらい」。 間違えると恥ずかしい。 この世知辛いという言葉を聞くと、なぜか砂ばかりの乾燥しきった砂漠を想起してしまう。 暮らしにくさを感じさせる言葉だから、生きることが苛酷な環境である砂漠を連想してしまうのか自分でもよくわからないが、なぜか不毛の大地をイメージしてしまう。 打算の都会と不毛の砂漠ではだいぶイメージが違うはずなのだが……。自分でもよくわからない。 まあ、イメージは各人それぞれ異なれど、世知辛いと言われればなんとなく生きづらい世の中を指しているのだろうということはわかる。 しかし、この「世知辛い」という言葉がどのような意味なのかと、あらためて問われると返答しにくいので

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    zaihamizunogotoshi 2018/05/02
    世知の反対が「仏智」とは知りませんでした。なんとなく知っていた単語の意味が深く知り、ぜひ世知甘い世の中になるといいなと、私も思います。
  • 禅問答って何? その意味と知られざる成立過程と例話をご紹介 - 禅の視点 - life -

    禅問答とは何か 禅問答という言葉を聞いて、頭に思い浮かぶこと。 それは、 「意味のわからない言葉のやりとり」 ではないだろうか。 応答が噛み合っていなかったり、突拍子もない返事をしたり、非論理的な会話をしたり。 そのような意味不明な会話を指して「禅問答」と呼ぶのが、現代における禅問答という言葉の主たる用例であるように感じられる。 来の禅問答の意味 しかしそういった意味不明な言葉のやりとりといったような用法はもちろん、禅問答という言葉の来の意味ではない。 来の意味は文字どおり「禅の問答」、すなわち、禅僧らが交わしてきた悟りに関する言葉や動作のやりとりである。 けれどもそこで交わされるやりとりがあまりにも非論理的・抽象的なものを含んでおり、文字どおりに読んだだけではまったく理解できないといったことが起きたことから、「意味のわからないやりとり」を指す言葉として禅問答という言葉が使用されるよ

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    zaihamizunogotoshi 2018/04/16
    ゆっくり考えてみたい。
  • 分別のある大人になるより、無分別の悟りを開こう - 禅の視点 - life -

    仏教用語としての分別、無分別 「分別(ふんべつ)のある大人になりなさい」 と、普通人は言う。 分別のない人間ではいけない。 ちゃんと善悪をわきまえて、しっかりと自分の頭で考えて判断して生きるべきだと。 今どきの成人式でも言われているのかは知らないが、市長の挨拶にこの手の話がよく登場すると聞いたことがある。 成人、つまり大人になるということは、分別のある人間になるということなのだと。 それはそれで当然のことである。 しかしながら、「もう分別のある大人なんだから、そんなことをしていてはいけない」というような言い回しは、順序が逆。 大人になったから分別があるのではなく、分別のある言動を指して大人と呼ぶのである。 ゆえに、年を重ねても大人ではない人は当然いる。 生きていれば体は勝手に大きくなるが、精神は自然には育たない。 べ物はべなければ生きていけないが、精神は育てなくても生きていくことができ

    分別のある大人になるより、無分別の悟りを開こう - 禅の視点 - life -
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    zaihamizunogotoshi 2018/04/11
    「認識≠真実」心に刻みたい。
  • 退屈な人に読んでほしい、仏教用語「退屈」の話 - 禅の視点 - life -

    退屈な人に読んでほしい、仏教用語「退屈」の話 あー退屈だ。退屈すぎて、逆に何もする気になれん。 と、暇を持て余している方がいらっしゃれば、まずはちょっとした退屈しのぎに「退屈」という言葉の来の意味についてご承知願いたい。 それというのも、退屈という言葉は、じつは仏教から生まれた仏教用語なのである。 通常、退屈という言葉は、 することがなくて暇 つまらない、飽き飽きする、嫌気がさす といった意味で使用されている。 「遊び相手が見つからなくて退屈だ」とか「つまらない話で退屈した」とかいった用例である。 しかし、そもそもなぜ「退く」「屈する」という2つの漢字を組み合わせた「退屈」という熟語で、暇な様子が表現されるのか、少々不思議に思われはしないだろうか。 退くも、屈するも、退屈とは少し違う意味の漢字に思えるし、どちらも「挫折」に近いニュアンスの言葉のような気がする。 退屈というのは「暇」「飽き

    退屈な人に読んでほしい、仏教用語「退屈」の話 - 禅の視点 - life -
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    zaihamizunogotoshi 2018/03/26
    「何度も何度も心を起こして精進あるのみだー!」挫けてもまた起きればいいと思えば、がんばれそうです。ありがとうございます!
  • お彼岸とは何か? 仏教行事として考える彼岸の意味 - 禅の視点 - life -

    お彼岸とは何か? 仏教行事として考える彼岸の意味 暑さ寒さも彼岸まで。 ということで、今回は春と秋におとずれるお彼岸について。 冬から春へ。夏から秋へ。季節の変わり目の時期にやってくるお彼岸は、昼と夜の長さが同じになる春分の日と秋分の日を中日とし、前後それぞれ3日を含めた計7日間にわたる行事である。 つまりお彼岸は年に2回、春と秋にそれぞれあるわけだが、一般的に「お彼岸」といえば秋彼岸を指していることが多い。 ちょうど真紅の彼岸花が咲き誇る時期が秋だから、どうしても秋をイメージしてしまうのかもしれない。 意外と知られていないお彼岸の意味 お彼岸というのは当然のごとく仏教行事と考えられているが、意外にももともと仏教に彼岸という行事はなかった。 インドにも中国にも彼岸という仏事は存在せず、不思議なことにこれは日独自の行事なのである。 しかも日における彼岸の歴史は古く、『日後紀』には崇道天

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