上柿智生先生のゲナディオス二世の論文を読んだ。ゲナディオスはコンスタンティノープル陥落後初の正教総主教。メフメト2世に会ってキリスト教信仰の説明をしたという。どんな話だったんだろうかとも思うしメフメト二世もよく呼んだなと思う。『帝都陥落についての書簡』ではビザンツ敗滅の理由を説明
マネーのない生活は想像すら難しい。電車に乗るためにも、ランチを食べるためにも、部屋に明かりを灯すためにも、マネーが重要な役割を果たしている。空気や水のように当たり前の存在だと思われるこのマネー、一体どのように生まれたのか。 マネーが生まれる前の社会から、マネーが発明される様子を想像してみよう。マネー以前の社会では、人々は自分が作ったモノと、自分が必要なモノを物々交換していた。いつしか誰かが、物々交換の非効率性に気がついたはずだ。なんといっても、「自分は欲しいモノを持っていて、かつ、自分の持っているモノを欲しがっている人を見つけ」るのは容易ではない。そして、あるとき他の誰かが特定のモノ、多くの場合は金や銀、を「交換の手段」にすることを思いつく。この「特定の手段」を使えば、どのようなモノとも交換ができるようになり、富の蓄積すら可能となった。 このような「マネー誕生物語」はなんとも説得出来である
Foucault as Historian キース・ウィンドシャトル (Keith Windschuttle) (Critical Review of International Social and Political Philosophy Vol 1, No 2, Summer 1998, pp 5-35, Robert Nola (ed.) Foucault, Frank Cass Publishers, London, 1998 にも再録) 要約: フーコーの「歴史」と称するものはいい加減であり、実際の歴史とは全然対応していない。実際の歴史と並べてみると、フーコー流の「知」の考古学や系譜学はでたらめ。かつて中世にキチガイがうろついていたのは、連中が人間として権利を認められていたからではなく、人間以下の動物としか思われていなかっただけのこと。精神病院に入れたのは、別に人間以下のも
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く