奥州太平記宮城を舞台にした歴史物語を描きます。 独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに 多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を うまく表現できるように努めます。 とりあえずは、暖かい目で見守ってください。 延元2年(1337)、 8月に霊山(れいぜん)城を出立した奥州軍は、 12月13日、大河・利根川を挟んで 斯波家長率いる足利軍と対峙した。 先の上洛戦に比べ、侵攻速度は非常に遅い。 これには理由として3点あげられる。 1)足利方の防御体勢の確立 奥州管領・斯波家長は、鎌倉に戻り、 足利尊氏の嫡男である足利義詮(よしあきら)の 傍で副将として関東方面軍の総指揮をとった。 彼は、来る顕家軍の上洛戦に備え 関東の要所各所への防御陣地の強化、 将兵の配置を行っていた。 奥州軍が小山城攻略等に 苦戦を強いられたのはそのためである。 2)南朝方の支配固め 北畠顕家は、先の上洛戦において 東北地方に