ブックマーク / gdgdwktk.blog.shinobi.jp (77)

  • グダグダ(β) 寄宮区画整理 3

    左が71年、右が75年。下の図でオレンジの一帯が立ち退きと工事が進行中のようで、75年ゼンリン地図にも「区画整理地域」との表示があります。 寄宮中学校の長田原そばは道路がキチンと通り、そのそばの宅地はわずかに拡がりました。 上間小学校北東にあった国吉農園は「花鱗園」と名を替え、鯉や金魚を養殖するようになったようですが、地図で見る限りでは国吉農園も花鱗園もレイアウトの枠組みは変わらないため国吉農園も同じく養殖業であったのではないかとも考えられます。また75年には花鱗園の北に池が出現しています。 オキナワグラフ 1963年1月号の14ページには「花鱗園」の広告があり、住所は上間819番地ノ2となっていて営業種目に観賞用鯉と金魚の項目があります。 http://okinawa-ebook.wook.jp/detail.html?id=211820 左は75年、右が77年。この図でのオレンジの一帯

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    zu2 2024/06/29
  • グダグダ(β) NAHA, OKINAWA - 1954

    外人さんから無断拝借。51年だそうです。 NAHA, OKINAWA - 1954 http://www.hartshorn.us/Navy/navy-25d.htm まちのたね通信に平和館入口(後年国際ショッピングセンター入口)の写真があり、最初の写真で写っているものと同じでしたので写真の範囲は平和通り入口近辺でしょう。 (右)那覇まちのたね通信 | 劇場・映画/国際劇場平和館入口 http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2336 同時期のほぼ同位置。 この記事は検証が紆余曲折したのですが、経緯がわかりにくかったので簡単に書き直しました。 過去の検証は折り畳んであります。 ---以下検証記事旧版--- 外人さんから無断拝借。51年だそうです。 NAHA, OKINAWA - 1954 http://www.hartshorn.us/Navy/

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    zu2 2024/06/29
  • グダグダ(β) 美栄橋町(昭和4)

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    zu2 2024/06/03
  • グダグダ(β) 復帰前の沖縄の道路

    良いまとめがあったのでメモ。 復帰前の沖縄の道路 http://page.freett.com/gpzagogo/roadindex.html 軍道・琉球政府道 http://page.freett.com/gpzagogo/road.html

  • グダグダ(β) 19人が語ったマチグヮーの歴史

    那覇市が少し前に冊子を作ったようです。 この冊子は、1950年代後半から1980年代前半にかけてマチグヮーに関わった19人のみなさんへの聞き取り調査を行い「19人が語ったマチグヮーの歴史」として冊子500部を作成し、中学生が授業で活用できるように市内中学校や、公民館、図書館などに配付を予定しています。 http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/kaiken/y2011/m03/kaiken110323_02.htm 冊子はpdfにもなっているようで上記のページからもダウンロードできます。 直アドレスは下記。 http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/kaiken/y2011/m03/stuff/110323_2siryou.pdf 辰野元造さんの息子(榮一/昭和17年生)さんが登場していたりします。 参考:グダグダ(β)

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    zu2 2024/05/02
  • グダグダ(β) 「那覇 戦後の都市復興と歓楽街」

    のご紹介。 「那覇 戦後の都市復興と歓楽街/加藤政洋(フォレスト)」 出版社のサイト。 http://forest-web.jp/index.html 以下著者とは関係なく。 他府県のことはよく知りませんが、とにかく沖縄には、研究し、記録しておくべきことが多いですね。日土から離れた島であり、かつては一つの王国であり、侵略され、戦場となり、そしてまた他国の支配下におかれ、と、独特の歩みがあるからですね。しかもそんな中でも脈々と途絶えることなく受け継がれてきたものが、日文化のかなり根底の部分と深くつながっている。だから他府県の人たちも沖縄の文化や伝統に惹かれるのでしょう。 http://forest5155.ti-da.net/e3697136.html この文が何処に向かって書かれているのか、はうちなーんちゅはよくよく考えておく必要がありますね。 【追   記】 感想。 歓楽街は「

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    zu2 2024/05/02
    “この文が何処に向かって書かれているのか”
  • グダグダ(β) 球陽堂

    球陽堂を「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル/大浜 聡」(以下国際通り物語)を参考にしてまとめてみます。 国際ショッピングセンター建設以前の球陽堂はこんな感じで、それ以前は松尾の現山城時計店向いにあったようです。 創業者の山田親度さんは1901(明治34)年に松下町で生まれ、師範学校を出て長らく北部で教職に就き、戦時中は喜如嘉国民学校校長です。 好きの山田はたくさんのを買っては大切に保存していた。北部で教職についていたおかげで山田は生き長らえた。しかも、戦後、山田が書店を経営する元になった多くの蔵書は、国民学校の校長舎宅に一冊も失われずに残っていたのである。 国際通り物語 p78(抜粋と編集) このがのちの元手になります。 終戦後はCP(シビリアンポリス)になるが、元教職ということで1946年に田井等高等学校辺土名分校(英語教師)、翌年奥間初等学校校長に就任しますが194

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    zu2 2024/05/02
  • グダグダ(β) 那覇の料亭

    資料で確認できる戦前の那覇の料亭です。 まず6の風月楼。 奥武山公園付近の御物城跡で現在米軍施設内ですが道路から確認できます。ここは要人来沖の際の会など新聞記事等に名前が出てきます。 とんで1の見晴亭。 当時海岸線で小高い場所でした。そしてそばには辻、辻原墓地(サンモウジ、潮の崎)が一望できる場所だったことが名前からも推測できます。 2の花咲停、3の三杉楼も要人接待に使われたようです。 4の幸楽、5の一味亭は記事などでは確認できませんでした。 以上の6箇所は那覇民俗地図に記載されている料亭と思われる名前です。図には料亭と記されているわけではないのですが接待等で使われていた記録などから<大和風の料亭>だと思われます。 そのほか明治39年9月の新報記事「市街巡り」には風月楼、玉川屋、いろは屋、明月楼という名前が出ています。また明治41年の新報では「15年間那覇区の発展」と題された記事がありま

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    zu2 2024/04/23
  • グダグダ(β) 千歳橋周辺

    まちのたね通信に千歳橋の写真があります。 那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/千歳橋付近/市場通り千歳橋付近、交差する道は浮島通り/1959年 http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1722 右図の赤矢印が撮影方向、千歳橋そばの幕には「千歳橋連絡所」、左手前の看板は「古濱」と読みとれます。看板部分をクローズアップ。 下の写真はBLACKIE-SANで使ったものなのですが、右写真に千歳橋の欄干が写っています。 題なのですが、下の写真(Images of Okinawa after World War IIに掲載)の右にある「古濱商店」はここではないかと考えています。撮影位置は浮島通りから開南方向に向けて撮影されていて、写真の左は新天地市場になるのではないかと。 http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okin

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    zu2 2024/04/21
  • グダグダ(β) 国際ショッピングセンターのテナント

    ゼンリン地図から国際ショッピングセンター内の店舗名を抜き出してみました(同じ名前が二つあるのは間違いではありません)。 下図はショッピングセンターの一階を簡単に描いたもので、店舗名の順番は上(北)から右手(東)を壁沿いにぐるっと回り入口に戻ったところで中央のエスカレータ(赤)両脇に進むようになっています。各階で微妙に配置が違っていますがだいたいは同じです。 ※写真は国土交通省のものです(昭和52年)。 http://nrb-www.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=7&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19 国際ショッピングセンターの歴史や写真などは下記アドレスが参考になります。 http://www.zu

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    zu2 2024/03/25
  • グダグダ(β) 那覇タワー開業広告

    別記事で那覇市内の建築物についてまとめているのですが、そこで那覇タワーについての情報をいただきました。1973年6月26日開業とのことなので当時の新聞の開業広告を確認しました。 http://www.zukeran.org/shin/d/2011/09/13/naha-tower/ 那覇タワーについてはよくわからないことが多くてなにか情報がないかなと思ったのですが残念ながら目新しい情報は無し。広告はこんな感じ。 新生・観光おきなわの新しいシンボル那覇タワー完成 回転展望台で那覇全景が一望に見わたせる 19〜17F ブルースカイラウンジ 7F 和・寿司 都、中国料理 龍園、那覇タワー会館 代表者 高良定尚 宝不動産合資会社 株式会社那覇タワー 沖縄タイムス 1973年6月26日 同じ広告内には、ブルーシールの店「くるみ」が旧店の位置(1階タワー入口横)にオープンとあります。また軽コーナ

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    zu2 2024/03/25
  • グダグダ(β) 真和志民俗地図ほか

    参考にしている図についても書いておきたいと思います。 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗(1979年) 沖縄戦で破壊される前の旧那覇・首里・真和志・小禄・の社会生活、衣住、生業、信仰と祭祀、年中行事、人生儀礼、民俗知識、芸能、言語伝承を216点の写真、図版、地図5枚を添えて詳述。付録:那覇市歴史民俗地図(5葉) このの付録に「旧真和志の歴史・民俗地図」があり、「旧那覇」、「小禄」、「首里」も同様の形式であります。それに大正10年の参謀部陸地測量部測図(1/50000)を基に拡大した「那覇全図(1/18000)」がついて全部で5葉です。 このブログでは「旧真和志の歴史・民俗地図」を「真和志民俗地図」というふうに略して呼んでいます(旧那覇も同様)。 それに様々な字誌や那覇市などでも引用される真和志市誌の「真和志区劃図」。オリジナルは古く大概ボロボロなので、他の文献で引用されている

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    zu2 2024/02/15
  • グダグダ(β) きぶんじゃ川・三原川の改修工事

    65年の建設事業計画で取り上げた川の改修工事の区間を図示してみます。 きぶんじゃ川は、真和志三原、大原の開眼橋、三原橋、振興橋を通り安里川へ注ぐ(略)素堀のままとなっているため、流水の浸が激しく、流域の住宅が危険な状態にある。65年度においては、安里川分岐点から振興橋間の 485メートルを改修を行って、都市防災を予防することになったもの。 --- 三原川は松川小学校前より真和志2号線間を流れているが素堀のままとなっている。このため大道練兵橋から上流、真和志2号線までの465メートルを改修する計画を立て(後略) 市民の友 1964年1月15日 第165号(抜粋と編集) 図の上が三原川、下がきぶんじゃ川、図内のポインタは振興橋(A)、練兵橋(B)、繁多川交番(c)、真和志支所(D)です。 真和志2号線については別記事で「真和志支所前から、繁多川交番にいたる真和志2号線」とあるんですが「大道練

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    zu2 2024/01/23
  • グダグダ(β) 黒丸宗周辺

    図は真和志小学校から黒丸宗前の道で、「最新沖縄県番地入り地図」を参考に作成しています。 大きく変わったのは後年黒丸宗になった敷地の前ですが、この前にあった道はもともと濃い茶色で書いたようなカーブを描いていました。寄宮売店前バス停からの今もある細い道から連続しています。 「戦前の寄宮民俗地図」では黒丸宗通りが無く、寄宮十字路からくる道は山幸しょうゆ(戦後から/ 寄宮73)のあたりまでしかありません。 以前に書いた黒丸宗・赤丸宗関連。 現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗ができたのがいつなのかははっきりしません(58年発行の地図にはある)。黒丸宗(現寄宮市街地分譲住宅)が現在の敷地になったのはおそらく道路の直線化と同じ時期? グダグダ(β) 赤丸宗/黒丸宗 2 グダグダ(β) 50年代初期の具志堅醸造所 仮説で話を書いてみます。 (1)まず50年に壺屋近く(真和志郵便局近く)の寄宮に具志堅醸造所

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    zu2 2024/01/23
  • グダグダ(β) 大石橋・政府住宅前道路

    1958年の市民の友から。 大石橋の新設始まる 市土木課では11月12日、市内三原政府住宅前の大石橋(巾員7米、延長4.5米)の新設工事にとりかかった。同工事は近く入札される政府住宅前道路の改修工事(巾員7米、延長200米)と平行して行われるもので、平良組が工事費3200ドルで着工、来年2月12日竣工の予定。橋梁、道路の両工事が完了すれば、来春から真和志小校-工業高校-三原教会までの車両通行も可能で、バス路線の開設も計画されており、付近住民に大きな便利を与えることが予想される。 市民の友 1958年11月15日 第96号 将来バスも通る/大原政府住宅前道路工事始まる 市土木課では、さる11月25日、真和志大原政府住宅前道路工事の入札を行った。この工事は巾員6.30米、延長364米、工賃5800ドルで平良組(平良作吉氏)の手によって来年2月末完成する。これはさきに着工された大石橋の工事とも平

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    zu2 2024/01/23
  • グダグダ(β) 真和志小学校周辺

    戦前の寄宮での写真。 道などは写真で自分が確認できたものだけ描いてあります。 戦後すぐの寄宮で扱った「那覇復興地図」を基にした図で、オレンジが荒地、緑が水田、赤が住宅、茶が道で破線になっているところは庭園路です。 なにが言いたかったのかというと真和志小学校前から上間に向けてのぼってゆく道は戦前からそのままだということです(参照:戦前の字寄宮の民俗地図)。「那覇復興地図」では描かれていなかった点が気になっていたのですが確認できたので一応記録として。 「戦前の字寄宮民俗地図」に描かれている戦前の道などはこんな感じなんですが、現在と同じ道筋である寄宮中学校前の道は描いてありません。 理由は左図。 このピンク色の区分けは土地の区分だと思うのですが現在もそれに準じた形で住宅は存在しています。この辺り一帯の碁盤目でない住宅地はほとんど「戦前の字寄宮民俗地図」に見える敷地の形そのままです(区画整理がおこ

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    zu2 2024/01/23
  • グダグダ(β) 寄宮区画整理関連新聞記事

    「那覇市議会史第4巻 資料編3 新聞にみる議会 アメリカ統治期(合併後)」は1958(昭和33)年から1972(昭和47)年5月までの議会・行政関連の新聞記事を集めたものです。 その中から寄宮の区画整理関連の記事をタイトルのみ抜出します。 地主、減歩率に反対/寄宮の区画整理/頭を痛める市当局 沖縄タイムス 1963.6.23 “不良住宅化”を防ぐ/寄宮地区区画整理事業認可 沖縄タイムス 1964.1.25 あすから工事開始/那覇/寄宮、壺川の区画整理 琉球新報 1964.3.8 進まぬ区画整理/那覇市、地主説得に全力 沖縄タイムス 1965.12.26 寄宮区画整理/減歩率で審査/市は方針通り施行の意向/那覇市建設委 沖縄タイムス 1966.1.24 寄宮地区区画整理/反対押し切って着工/地主、すわり込み続ける 沖縄タイムス 1966.2.15 “傍聴”でもめる/寄宮の区画整理/当局は強行

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    zu2 2024/01/23
  • グダグダ(β) 筆山(繁多川)

    フディザン(筆山) 高さ約5メートル、直径3メートルの地面から突き出した岩のことで、先のとがった形が筆に似ていることからそう呼ばれた。石田城碑文(1762年)によると金城・寒川(カナグシク スンガー)等の文人たちによる名称で遠くからでも目立つ奇岩であった。学問の神様として地元では御願コースになっているが、現在住宅地で入れないため、近くより拝んでいる。 「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p10 この筆山は見たことがなかったのですが石田川(イシダガー/イシジャガー)側のスージを入って行くと案内板があり、約1.5メートルくらいのコンクリート塀に設置されている案内板の向こう側に筆山はありました。案内板の位置からは余程背が高くないと全体は見えません。 図中の赤いポインタが筆山、青が石田川です。写真は下記アドレスより無断拝借。 繁多川11ヶ所めぐり http://www.nahaken-

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    zu2 2024/01/23
  • グダグダ(β) 長田原からの陳情

    1962(昭和37)年の市民の友、「市民の声」欄から引用します。 寄宮中校うらに道路を新設して欲しい 私ども寄宮中校裏に住んでいるもの78戸の住民は1日も早く道路が新設されることを希望しております。 住宅のある場所に自動車道路もないということは、非常時の際、大きな危険を伴うし、浸水さわぎをたびたびおこすほど環境衛生が悪く、現在のままだと、住宅が急激に増えていく傾向にあって、家屋が密集してからでは道路新設は困難だと思われます。 それにすでに測量も済んでおり早急なる着工をお願いします。 字国場長田原付近一帯住民一同 準備できしだい着工予定 [答]寄宮中校裏一帯の著しい発展に対処するため、市当局としては同地域一帯の土地区画整理を施行するよう計画し、すでに行政主席の認可を得てあります。 したがって寄宮中校裏同地域の道路新設については、この土地区画整理事業と閉校して施行する計画であります。 なお、区

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    zu2 2024/01/23
  • グダグダ(β) ケブン川原(識名)

    キブンジャー川はケブン川原(ケブンジャーバル)に発する流れです。 この安里川に合流する流れは真和志民俗地図ではクチャガーラグヮー、別の資料ではキブンジャー川(ケブンジャー)。そして源流付近一帯は真和志市誌の真和志市區劃図にある地名の原名(ハルナー)にはケブン川原とあります。 クチャガーラグヮーはクチャ川(ガーラ)小(グヮー)でしょう。そしてケブンジャーとキブンジャーの違いはおそらく表記や読みの揺れで、ジャーはガーラと同じように川の意ですからケブンジャー/キブンジャーのみでケブン川/キブン川のことになります。 ケブン川原はケブン川の源流であるケブンジャー樋のあるハルという意味でしょうか。 参考に原(ハル) 毛(モウ) トーから引用します。 カーとは井泉の義であるが、その音声から川の字が当てられ、河川にはカーラまた濁音になって○○ガーラ。カーラの変化した○○チャーラ、また濁って○○ ヂャーラと

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    zu2 2024/01/23