ブックマーク / okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com (29)

  • ゴーレスの正体 - 目からウロコの琉球・沖縄史

    大航海時代、ヨーロッパ人たちは琉球を「レキオ」と呼びました。そして「ゴーレス」もまた琉球人を指す名称として知られています。トメ・ピレス『東方諸国記』にはこうあります。 レケオ人はゴーレスと呼ばれる。彼らはこれらの名前のどちらかで知られているが、レキオ人というのが主な名前である。(レキオ人)は7、8日でジャンポンへ行って彼らの商品(小箱など調度品、扇、刀剣)を金や銅と交換する、レキオ人がもたらすもの(金、銅)は全部ジャンポンから来る。そしてレキオ人はジャンポンからの荷をルソン布などの商品と交換する。 このゴーレスという名前の由来はいったい何なのか、これまで明らかにされてきませんでした。しかし近年、歴史研究者の的場節子氏によってこの謎が解明されました(『ジパングと日』)。的場氏は西欧側の史料を丹念に読み込み、琉球の金の入手先である「ジャンポン」「チャンパン」「ジャボンガ」「ぺリオコ」などが日

    ゴーレスの正体 - 目からウロコの琉球・沖縄史
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    zu2 2020/01/31
    “東南アジアへ日本刀を広めたのは、実は日本ではなく琉球だったのです。知られざる琉球の歴史がまたひとつ解明されたといえます”
  • 尚寧王の花押 - 目からウロコの琉球・沖縄史

    琉球は中国の朝貢国ということもあり、文書に印を押す文化が発達していました(辞令書などがその代表)。ところが1609年、薩摩島津軍の征服後、琉球は外交文書にヤマト風の花押(かおう。いわゆるサイン)を強制されることになります。 先月、東大の史料編纂所で島津家文書中の琉球関係の文書を見る機会がありましたが、そこで尚寧王の花押が書かれた文書も確認しました。それが以下のようなデザインです。 鏡もちや雪ダルマのようで何だかカワイイですね(笑)これがどのような花押を参考に作成されたのかはまだ突き止めていませんが、かなり書きやすいデザインであることがわかります。花押の経験のない尚寧王が書きやすいものを選んだとも考えられます。 なお琉球国王が花押を使用した初めての事例は尚寧王で、しかも1611年の島津氏に忠誠を誓う起請文で使用されています。その花押を見ると慣れていないのか、筆跡はかすれ、花押の丸部分もいびつ

    尚寧王の花押 - 目からウロコの琉球・沖縄史
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    zu2 2016/06/03
    “ところが1609年、薩摩島津軍の征服後、琉球は外交文書にヤマト風の花押(かおう。いわゆるサイン)を強制されることになります”
  • 円覚寺から出た「クリス」 - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2015/10/12
    “ヤマト伝来の仏教はやがて琉球に「土着化」して、ヤマト仏教と似て非なる宗教になったと考えるのが適当”
  • 琉球はどんな文字を使ってた? - 目からウロコの琉球・沖縄史

    独立国だった時代(古琉球)の琉球王国は、文書にどのような様式のものを使っていたのでしょうか。おそらく多くの人は、琉球王国が中国・明朝の朝貢国であったことから、中国風の漢文を使っていたのではないかと考えていると思います。しかし、国内の文書に漢文はほとんど使われていません。では琉球独自の文字があった?いいえ。実は、琉球国内で広く一般的に使われていたのは日の「ひらがな」でした。 国王から家臣に出された任命(辞令)書【写真。クリックで拡大】は全て「ひらがな」の草書体で書かれ、中世日で使われていた「候文(そうろうぶん)」という書き方と同じです。候文とは、文章の最後を「~です。」とするのではなく「~候(そうろう)。」と書く文体のことです。 もちろん琉球から明朝に送る外交文書には全て漢文が使われています。しかし、これは琉球自身が漢文で書くことを選んだのではなくて、当時明朝に外交の使者を送るには、明朝

    琉球はどんな文字を使ってた? - 目からウロコの琉球・沖縄史
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    zu2 2015/08/03
  • 安慶名グスクに新たな穴! - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2015/04/04
  • 沖縄最古の木製墓 - 目からウロコの琉球・沖縄史

    沖縄独特のお墓といえば亀甲墓が知られていますが、こうした形式は近世になって導入されたもので、それ以前は崖下のくぼみや洞窟を利用したお墓でした。浦添ようどれや小禄墓に見られるように、崖下のくぼみに石を積んでふさぎ、墓室としますが、さらに古いものになると、その場所に木製の建物を設置します。今帰仁の百按司墓が代表的な木製の家型墓です。 あまり知られていませんが、宜野座村にも古い時代の木製家型墓が残されています。漢那のウェーヌアタイ遺跡にあるもので、洞窟の壁際に置かれています。部材はチャーギ(イヌマキ)を使い、内部には実に170体以上の遺骨が安置されていました。この墓は近代まで使われており、最後に葬られたのが大正元年(1912)だそうです。 その形式は今帰仁の百按司墓のものとほぼ同じです。実は現地にあるこの墓は2005年に復元されたもので、現物は宜野座村立博物館で見学することができます。 解体修理

    沖縄最古の木製墓 - 目からウロコの琉球・沖縄史
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    zu2 2014/09/24
  • 「那覇」表記の起源 - 目からウロコの琉球・沖縄史

    沖縄県の県庁所在地の那覇市。王国時代には沖縄随一の交易港として栄えました。この「那覇」という地名、一説では漁場を表わす「なば」からきてるとも、また那覇の浮島にあったキノコ状の形をした石灰岩(ナバ=奈波)からきているとも言われています。 それでは、「なは」という地名に「那覇」の漢字があてられるようになったのはいつ頃のことでしょうか。確認できるかぎりでは、1521年の三司官から種子島時堯へ宛てた書状(『旧記雑録』)。「那覇之奉行」という文言で登場します。 1542年の大内氏奉行人・相良武任の書状には「奈波」とあり(「中川家文書」)、この頃は表記が定まっていなかったようです。 1559年には「那覇主部(なはぬしべ)」から島津氏の老中あてに書状が送られていますが、ここでは「那覇」と表記されています。どうやら16世紀後半から「那覇」表記が一般的になったようです。 書状では琉球側から「那覇」と表記し、

    「那覇」表記の起源 - 目からウロコの琉球・沖縄史
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    zu2 2014/05/18
  • 皇紀2600年のナウいデコ - 目からウロコの琉球・沖縄史

    名護市東海岸の嘉陽(かよう)の丘陵地帯に、嘉陽グスクというグスクがあります。このグスクは石垣はまったく存在せず、日の中世城郭のような土でできたグスクです。山を削って平場や切岸を設け、敵の侵入を阻む造りです。伝承によると、グスクは勝連から移住した嘉陽大主(かよう・うふぬし)なる人物が築いたということです。 グスクも非常に興味深いのですが、今回紹介するのは廃城後、地元民の信仰対象となったグスクについてです。グスクを登ると、1939年(昭和14)に建立された鳥居があり、そこをくぐると広場になっています。そこにはコンクリート造りの祠と碑があります。 碑には「紀元二千六百年祭記念」と、祠建立に寄付した者一覧が刻まれています。紀元2600年祭といえば戦前の日で大々的におこなれた国家的な祝賀行事。こんな沖縄の一地域にまで影響を及ぼしていたんですね。名護は沖縄戦の激しい戦火にはみまわれなかったので、こ

    皇紀2600年のナウいデコ - 目からウロコの琉球・沖縄史
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    zu2 2014/04/12
  • 中城グスクに天守閣!? - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2014/04/09
  • ペット可の沖縄銭湯!? - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2014/03/09
  • 軽便鉄道の時刻表 - 目からウロコの琉球・沖縄史

    47都道府県のなかで、唯一鉄道がない県の沖縄。しかし戦前には県営の軽便鉄道がありました。「ケービン」と呼ばれ親しまれた汽車は1915年(大正3)12月1日に那覇―与那原間で開通。さらに糸満線、嘉手納線も増設され、1945年の沖縄戦で破壊されるまで存続していました。 ところでこの軽便鉄道、どのようなダイヤで運行されていたのでしょうか。最近、1943年の時刻表が見つかってニュースになりましたが(「沖縄タイムス」2012年4月21日)、開通当初の時刻表が「琉球新報」に掲載されていたので、それを見やすく一部改変して紹介します(表はクリックで拡大)。 この時刻表ですが、実は開通時に南風原―与那原間の線路が破損していて、ひとまずの臨時ダイヤだったことが注記されています(与那原駅も仮設駅です)。また時刻表を見ると停車駅が那覇・国場・南風原・与那原の四駅のみ。後には古波蔵、真玉橋、一日橋、宮平、大里駅が加

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    zu2 2014/02/19
  • 東南アジア貿易は途絶したのか - 目からウロコの琉球・沖縄史

    アジア各地へ交易活動を展開していた15世紀の琉球王国ですが、16世紀に入ると倭寇をはじめとした民間勢力の台頭で貿易は衰退し、1570年のシャム(タイ)派遣船を最後に東南アジア貿易は途絶した、というのがこれまでの通説です。 しかし、史料を探っていくと1570年以後も東南アジア貿易は続いていたことがうかがえます。 1598年には、堺商人の川崎利兵衛が琉球の「南蛮才府」に任命されています(『蒙姓家譜』)。彼は茶器を求めて琉球へたどり着き、そのまま定住して王府役人に登用された人物。「南蛮」とは東南アジア、「才府」とは現地で貿易品の買いつけを行う役職です。おそらく商才を買われ、王府にスカウトされたのでしょう。家譜には年月日が記載されてることから、家譜編集当時に南蛮才府の辞令書を参考にした可能性が非常に高いです。 さらに万暦年間(1573~1619年)には、ルソン(フィリピン)へ交易におもむいた新垣筑

    東南アジア貿易は途絶したのか - 目からウロコの琉球・沖縄史
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    zu2 2014/02/02
  • 見えなかったことにしよう - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2014/01/09
  • 大正時代オモシロ投稿(2) - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2013/11/20
  • ピョコっと出た石の起源 - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2013/09/10
  • 沖縄県立一中の試験問題(1) - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2013/07/27
  • 拙著が電子書籍に! - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2013/06/29
  • 書評『消えた琉球競馬』が掲載されました - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2012/12/25
  • 琉球ガセ情報に反論 - 目からウロコの琉球・沖縄史

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    zu2 2012/08/21
  • 那覇が津波に襲われたら - 目からウロコの琉球・沖縄史

    東日大震災では津波による大きな被害が出ました。四方を海に囲まれている沖縄も、津波と無関係ではありません。過去1000年に1~2度は南西諸島が津波災害に襲われていたことがわかっています(こちら参照)。 沖縄県や那覇市も今回の震災で津波などの災害対策に乗り出しています。そのなかで那覇市の津波浸水予測図が公開されました。 【那覇市津波浸水予測図】 【画像】古琉球の那覇概念図 この予測図を見てあることに気づきました。浸水する地点は、ほぼすべて埋め立て地になっています。那覇はかつて「浮島」と呼ばれた独立した島でした。那覇は王国時代から近代までに埋め立てがかなり進み、今では島の面影はほとんどありません。そして、津波による浸水をまぬがれる地区は、この浮島だった部分とほぼ重なるのです。 つまり、この浸水予測図から、王国時代の那覇の地形が浮かび上がってきたといえます。

    那覇が津波に襲われたら - 目からウロコの琉球・沖縄史
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    zu2 2011/05/08
    地名は大事だね。地番変更のデメリット。