自己責任の問題に強い反応が起きるのはなぜなのか。 いまの会社をめぐる厳しい環境が、そうした心の動きに 関係しているのではないか。 ●職場における連帯感の喪失 この欄で取り上げるテーマは毎回さまざまだが、ネットで激しい反応が返ってくる話題のひとつは、「自己責任」に関するものだ。 04年の イラクでの邦人人質事件や耐震偽装の事件などでは、被害者の自己責任が議論になった。そうした話題を取り上げて、ネットでの議論の沸騰にいくばくか「貢 献」したかもしれない私が言うのも何なのだけど、正直なところ、多くの人が何でそんなに激高するのか不思議だった。「しょせんは他人事」でもあるはずなの に、ひとりひとりの心の琴線に触れる事件として激しい感情が巻き起こった。 たしかに、これらの事件の被害者の救済には、税金が投入される。自分たちの納めたお金が使われるのだから敏感になるのはわかる。しかし、少なからぬ悪意を持って
成果に応じて報酬を払うというのは聞こえはいいが、 会社が負っていたリスクを社員が負うことになる。 そしてこの制度は「人間の現実」に見あったものなのか ●総論賛成、現実には「?」の成果主義 学校を出て入った小さな出版社で、「企画を立てられる編集者は10人に1人ぐらいのものなんですよ」と社長に言われて驚いた。何しろ編集者は全部で10人ぐらいしかいなかったのだから。 人生経験豊富な社長は、「誰もが能力があるわけではないどころか、能力のある社員のほうがまれだ。それでもやっていけるのが会社だ」と、世の中を知らない 若者に教えてくれようとしたわけだが、こうした論理にしたがえば、10人のなかの1人は、ほかの9人の分まで働いているわけだ。待遇が同じならば、ばかば かしくなって転職してしまいそうだ。しかし、つねにそうともかぎらない。逆に、自分が頑張らなければ、と思うこともある。そして、その1人がいなくなる
某大学教授の方がまた逮捕されてらっしゃいますが。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060923-00000030-sph-soci ご本人の人となりをよく存じませんので本件自体の白黒については私はなんとも申せませんけど、一般論として確実に言えるのは、電車を利用する男性にとって、「痴漢容疑リスク」は(大げさでなく)現代社会における最大のリスクの一つになっている、ということではないかと思います。 数年前、知人が痴漢容疑(本人は無実を主張)で逮捕されたときに、留置されている警察署に知人の弁護士さんから呼ばれて面会に行ったのですが、ドラマでしか見たことがなかった丸いポツポツの穴がついたアクリルガラスの面会室の向こう側で、「○○、入れ」と、警官に呼び付けで名前を呼ばれて手錠をはずされて入室、という姿は、正直、大変ショックでありました。 さらに、ご案内の通り、容
問題行動:児童、出席停止も…厳格化へ報告書 文科省など 生徒指導厳格化:「信頼関係損ないかねぬ」…校長ら懐疑的 「ゼロトレランス」を導入したアメリカ、義務教育でも子どもを退学させることができるイギリスの双方で起こったことは何か。それは、教員の子どもへの無関心と無責任、退学などによる子どもの社会的排除だ。 問題を起こす子どもを排除することで学校や教室の秩序は回復できるかもしれない。しかし、それは問題の本質的な解決にはならない。このような取り組みは教育による格差の固定や拡大の大きな要因となる。この取り組みの対象となった子どもたちにとって、非常にリスクの高いものになる。 社会が寛容性を失いかけている状況で、学校から排除されることは社会的排除へとつながり、排除された者が社会に戻ることは非常に困難になる。そういうリスクを個人だけに押しつけるようなものには賛同できない。
> http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060920#p2 > > 結局のところ、「これが常識だ」「それは常識ではない」という対立は、両者共に「常識外への不寛容」という点で一致しており程度が同じ。 「夜中のメールは非常識かどうか」という問題が昔あって、この件はいろいろ考えたなぁ。そのとき分かったことの1つは、「ネット上に常識は存在しない」ということ。これは定義から明らかなのだ。 というのも、ネットの歴史は浅い。というかネットにいる多くの人の経験が浅い。せいぜい5〜6年とか10年とかの人がほとんどでしょう。そして、その間にもネットに流通するアプリやコンテンツや人はどんどん変わってきたわけで。 そういった過去を考えれば、2006年現在において、そこにいる人たちの間に、共通認識や常識というものが固まっているはずがない。そんな短時間に、常識などというものは形成さ
小泉政権発足当時、「痛みを伴う改革」が叫ばれた。あの田原総一朗も「首相自らが痛みを公言した。これが国民に支持されている。凄い」と褒めちぎっていた。私はどうも腑に落ちない感じを抱きつつ、反対する理屈もとくに見当たらなかったので、それになんとなく支持を与えていたような気がする。 今はそのカラクリがわかっている。一般の国民は「痛み」の宛先を、公共事業で太っている「守旧派」の政治家や、天下りを享受している官僚などのことだろうと考えていた。正確にはそう考えたがっていた。自分たちは大して痛まないだろう、とどこかでタカをくくっていた。そうでなければ、あれだけ「痛みの伴う改革」が支持されたわけがない。いまはもう、さすがに誰もそうは思っていない。「守旧派」の政治家や官僚もそれなりに「痛み」を感じたかもしれないが、一般国民もそれに劣らず「痛み」を感じるようなっている。本当は容易に予想できたことを国民は現実に直
「都」が「公務員」に業務命令を出したのに従わなかった。その行動は生徒たちに悪影響を与える。 という意見が散見されます。この論の人たちはあえて、事態を矮小化しすぎているんじゃないかなと思います。確かに一般的には組織の命令に従わない場合処分されても仕方のないことですが、今回のケースはちょっと違う扱いをしなくてはならないと思います。 「行政機関」が「教育者」に(憲法違反にあたる)業務命令を出したのに従わなかった。それをみて生徒がどう思うかはその生徒の考え方次第。 なのだと思います。 ではまずなぜ「教育者」は特殊なのかといえば、これは戦前に教育者が「不当な支配」によって軍国主義者生産マシーンと化してしまった歴史があるからです。なので今の教育基本法は「不当な支配の排除」が明文化されているわけです。その他の一般的な組織とは分けて考える必要があると思われます。 次に「行政機関」について。憲法は公権力行使
業務命令に従えない人や「非愛国者」を声高に非難する意見も好きじゃないけど、同じくらい、そういった見解を持つ人や右寄りの人の人間性をあからさまに見下すことを言うような意見もあまり好きにはなれない。私も既得権者とか政治家とか腹が立つやつへの罵倒とかよくやるけど、あとから読み返すとかなりみっともないと思う。私自身は自分のことを省みて、まーそれなりに自分の生まれ育った国の風景や文化や歴史上の人物なんかに愛着があるなと思うし、政治や社会のあり方に対するきちんとした批判ならともかく、十把ひとからげに日本人はバカだとか個性がないとかダメな国だとかいうことをことさらに言う言葉には好感をもてないので、まあとりあえず愛国心(てゆーか国と自分の同一化?)らしきものはあるのだろうと思っている。でもそれは時の政府や行政機関のやることを一から十まで全肯定ということじゃないし、日本人はバカだとか日本大嫌いとか言う人にも
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