「webで書く意味を自覚しているブロガーを増やしたい - パソコンはおもちゃ箱」を読んで。 ブクマコメントに返事を頂いていたので、更に返答。ブクマコメントから繋がるってのも結構面白い。 まだ多くに知られていない素晴らしいブログがあるということ どうしてもウェブ界隈を見ていると、有名なブログの記事がピックアップされがちで、あまり固定読者の少ないブログの記事はなかなか浮かび上がってこないのですが、有名ではないブログでも素晴らしい記事があってそんな記事を読みたいとは常々思います。 そういう人にもっと多くの人に向けた記事を書いて欲しいと啓蒙?するのもひとつの方法だと思いますが、ブログに何を書くか、どうやって使うかは人それぞれな部分が大きいので、そこは各自好きにやってもらえれば、と私は思っています。 人に見てもらうことをあまり意識しすぎると、面白く無くなっちゃうってのもちょっと危惧していたり。 むし
サワムラナユ sawaあっとsawamuranayu.sakura.ne.jp正直、スクイズやひぐらしよりも考えさせられています。 あっちは、表現の自由とか現実と虚構とか、そういう『いつもの事』の問題でしかないので、いつものように堂々巡りにしかならない。 『こどものじかん』の場合、またそれとはちょっと違った複雑さを抱えていると思う。 まず、原作通りにやれば、確かに地上波で放映し難い内容だと思う。 児ポ法がとやかく言われる昨今で、小学三年生である女児に、明らかに性的な行為をさせている事、それらが読者の性欲を喚起させる目的でのシーンである事が問題。 割れ目とか挿入とかあるわけじゃないんで、言い逃れしようとすれば、『実はもう一枚パンツはいてるスよ!』とか、言えなくはないけれど、まぁ、常識的な範囲でこれはNGだろう。あ、男装している時、乳首出てたか。 とりあえず、それは間違いないんだけど、この作品
2009年01月(1) 2008年11月(3) 2008年10月(3) 2008年09月(3) 2008年07月(2) 2008年05月(1) 2008年04月(2) 2008年03月(1) 2008年01月(3) 2007年12月(2) 2007年11月(2) 2007年10月(2) 2007年09月(3) 2007年08月(2) 2007年07月(2) 2007年06月(2) 2007年05月(4) 2007年04月(4) 2007年03月(4) 2007年02月(3) 松岡さんから頂いたTBで、 「匿名の心理、実名の心理~暴言の抑止力になるものは」 を読んで、僕も松岡さんと同意見です。 プロダイバにHPやブログを開設して継続的に更新して、同じHNを使い続けていればそのHNはその人の人格の一部になるし、まともな発言を続けていればそのHNに対して信用も生まれるでしょう。 自分のHNに対す
TBSがオタクを使って、初音ミクのネガティブキャンペーンしたそうで。 印象操作でサブカルチャーにネガティブなイメージを植えつけようとする手口は宮崎事件の頃と何も変わってませんね。 そう。今から18年前、一つの大事件が起きました。 警察庁広域重要指定117号事件、通称宮崎勤事件です。 コミックREXの「ろりぽ∞」に、同事件を下敷きにした話が掲載されてたので、紹介してみます。 1989年、連続児童殺傷犯・宮崎勤の逮捕。 アニメや漫画に注目が集まりつつあった時代にあの悪夢はやってきました。 当時のマスコミは、逮捕された宮崎の部屋から漫画やアニメが出てきたのをいいことに、犯行と漫画・アニメを結びつけ、「アニメファンは妄想と現実の区別がつかない人間」と決め付けました。 彼らは「オタク族」というカテゴリーを捏造し、アニメファンをスケープゴートにするのです。 劇中で放送中止になったというアニメ『メイドう
症候群、といってもいい気がする。 恋愛論とか最たるものなんだけど。世の中には、「どう考えても特殊な状況における個人的な問題なんだけど、それを一般的な問題にしたい、凄くしたい」という病気にかかっている人がたくさんいる。そりゃもう数限りなくいる。 新聞やテレビといったマスメディアが、例えば特殊な事件をネタにしてWebやオタク、アニメやゲームといったものを一般的に叩くことに憤る人は多い。が、翻ってみると、「特殊なネタ→一般化」を駆使する病というのは、マスメディアに限らずあたり一面に蔓延しているのである。もうこれは風土病などというレベルの騒ぎではない。数十年も前から発生している、思考的疾患のアウトブレイクである。 かく言う私も「一般化病」を長年患っている患者の一人である。筋金入りの患者といってもいい。病気自慢を貫徹する為にも、ひとつこの病気について一般化を行ってみよう。一般化病患者の辞書に「自己撞
音楽は、言葉が通じなくても伝わるコミュニケーション・ツールとして扱われている。演奏者と聴衆の間には、基本的に言葉を介す必要がない*1。音楽を作り、響きを届けて、色んな受け取り方をする。その幅が面白い。音楽凄い。 けれども音楽の作り手同士の場合は、そんな態度ではいけないのではないかと思う。例えば同じ言語を話す奏者同士である場合は、まず言葉で伝え合うほうが良い方向に音楽を導くのではないか。「このフレーズをこう演奏したい」「あなたの今の音色は全体の響きに馴染まないと思う」「もっと精度を上げて欲しい」「イントネーションが不安定だ」、色々な意見の交換をする余地が、音楽をする者同士にはある。意見交換することで洗い出された課題を、音楽で実践し検証していく。言葉を超えたレベルで音楽をするためには、言葉の効能を使い尽くしてからでなくては。 音楽を一つにするためには、後悔や不完全燃焼な雰囲気は残して欲しくはな
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