辰砂(cinnabar) 朱色(しゅいろ、しゅしょく、しゅういろ)は色の一つ。朱肉のような、やや黄を帯びた赤色について呼ばれる。JIS慣用色名では「あざやかな黄みの赤」(略号 vv-YR)と定義している[1][2]。中国や日本の伝統色名である。単に朱(しゅ)ともいう。暖色のひとつ。 真朱[編集] 朱色とは元来は天然赤色顔料辰砂の色であり、色名としての朱色は本来この色をさす。しかし、後に硫黄と水銀から人工顔料の銀朱(バーミリオン)が作られたため、天然顔料としての朱の色であることを強調する場合には真朱(しんしゅ)・本朱(ほんしゅ)という。朱肉にも古くは真朱が用いられていた。 銀朱よりも赤みの強い深い色合いである。
ウンシュウミカン(温州蜜柑[2]、学名: Citrus unshiu)は、ミカン科の常緑低木またはその果実のこと。鹿児島県が原産とされる柑橘類の一種[3]。さまざまな栽培品種があり、産地によりブランド名がある[4]。果実が食用にされ、種がなくオレンジよりも淡泊な味わいがある[4]。 現代において「みかん」は、通常ウンシュウミカンを指す[5][6]:21。和名ウンシュウミカンの名称は、温州(三国志演義中などで蜜柑の産地とされる中国浙江省の温州市)から入った種子を日本で蒔いてできた品種であるとの俗説があることに由来する[7]が、本種の原産地は日本の薩摩地方(現在の鹿児島県)の長島であると考えられており、温州から伝来したというわけではない[2]。ウンシュウミカンの名は江戸時代の後半に名付けられた[8]が、九州では古くは仲島ミカンと呼ばれていた。 中国浙江省の温州にあっては昔からミカンで有名な地方
最近では「パーソナルカラー」「イエローベース」「ブルーベース」といった、1人1人の個性に合わせた色彩診断が人気です。 もともと色彩の区切り方・呼び名は世界各地で異なり、固有の文化を形成してきました。それはここ日本でも同じです。 わたしたちの住む日本は豊かな自然に恵まれ、四季の変化もその美しさを引き立たせています。 そして美しい自然の中にあふれる色彩は衣服・陶磁器あるいは鎧などの武具にも取り入れられ、さまざまな色が生み出されてきました。 ここ日本で育まれてきた「伝統色」の世界を、染織文化研究家・中江克己氏の著作『色の名前で読み解く日本史』をもとにご紹介します。 英語では「オレンジ」と呼ばれるこの色は、古くから「橙(だいだい)」と呼ばれてきました。 「だいだい」と聞くと、お正月飾りを連想する方が多いのではないでしょうか。まさに「橙色」はあのお正月に欠かせない果実の色。初夏に香りある白い小花をつ
専大日語の教員による、月替わりのコラムです。 2022年7月:めっちゃピンクい 色彩語彙とは何か 色を表す語のことを、「色彩語」と呼びます。 また、色彩語の集合を「色彩語彙」と呼びます。 日本語には、「赤」「青」「白」「黒」「黄色」「緑」「紫」「茶色」「ピンク」「オレンジ」「群青色」「肌色」など、さまざまな色彩語がありますが、 それぞれの形態的な振る舞いに着目すると、いくつかのグループに分けられることに気づきます (以下の例は、『日本国語大辞典』『現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)』などを参照して、用例の存在が確認できたもののみを載せています)。 「~い」の形になれるもの:赤い、青い、白い、黒い、黄色い、茶色い 「~み」の形になれるもの:赤み、青み、白み、黒み、黄色み、緑み、紫み、茶色み、ピンクみ 「~さ」の形になれるもの:赤さ、青さ、白さ、黒さ 「真(っ)~」の形になれるもの:
果樹の栽培ゾーン お住まいのエリアで栽培できる、果樹の種類についてご案内します。 1. 露地植えの場合 上の地図は、最低気温月の平均気温をもとに日本列島を5つのゾーンに分けた図です。果樹を育てるエリアがA~Eのどのゾーンかお確かめのうえ、下の表で栽培可能な種類をご確認ください。 2. 鉢植えの場合 鉢植えなら工夫次第でエリアに関係なくどの種類でも栽培できます。ただし、一部の時期に玄関など屋内に置くだけでよい場合から、温室が必要な場合まであります。詳しくはお問い合わせください。 ※露地・鉢植え共通 ・どこで育てる場合も、日当たり良好で夏の西日が強すぎない場所で育ててください ・品種による違いもありますので、詳細は各商品ページの説明をご確認ください ○:栽培適地 △: 品種により栽培可 空白:露地栽培は不向き 果樹の種類 (クリックすると商品一覧へ移動します) 栽培ゾーン A B C D E
茶色と呼びうる色合いの茶。左から緑茶、茎茶、烏龍茶、紅茶。 茶色(ちゃいろ)は、色の一つで、栗の実のような色。中性色の一つ。オレンジ色と青もしくは黒の中間色である。茶を染料として使った時に出る色に由来する。化学の世界や、他の色と対比したり、熟語を作る際には褐色(かっしょく)と称する(例:赤茶色→紅褐色)。栗色(くりいろ、りっしょく)ともいう。 なお、日本語では「黒砂糖」「黒パン」のように「brown」と「black」が混同されることがあるが、本項目においては“Brown”を茶色(褐色、栗色)、“Black”を黒として明確に区別する。 茶色は一般的に、木の枝幹、土、栗の実、チョコレートの色としても表現される。室町時代より茶の葉の煎じ汁が染料として使われはじめ、それにともない茶色の名が生まれる。茶染めの服は江戸時代に一般に広まることにより、この名も一般的になる。ただし、当時は「鶯茶」「青茶」な
親戚が農業を引退するというので、うちの圃場とは少し離れていますが、その農地を借りることにしました。 どうせなら、観光農園をはじめられないかと考えており、みかん狩りができる農園を作ろうと考えているのですが、問題は気候です。 新たに借りる農地は北国なので冬には雪が積もり、寒さも厳しいです。 しかし、近くにみかん狩りをやっている観光農園はなく、もしみかんを栽培できれば、レジャーとして需要があるのではないかと考えています。 そこで、みかん栽培の北限について、詳しく教えてもらいたいです。 地球温暖化の影響で佐渡島がみかんの北限と言われており、今後はより北上していく可能性があります みかんの北限 みかんの北限はさまざまな説がありますが、近年の地球温暖化の影響で新潟県の佐渡島が北限とされています。 都道府県別の収穫量ランキング(令和4年産 農水省調査)では、和歌山県が22%、愛媛県が16%、静岡県が15
発祥地 インドのアッサムからヒマラヤの山麓地帯といわれています。 ここから中国や地中海沿岸に渡り、多くの品種が発生しました。 日本への渡来 中国から 奈良時代から平安時代初期に…柑子、ゆず等 鎌倉時代から室町時代に…橙、九年母 「紀州みかん」の普及 江戸時代中期から明治中期まで、我が国柑橘栽培の主流 「温州みかん」の誕生 紀州みかんが普及している頃、中国から九州に持ち込まれたマンダリンの種子を播いた中から、誕生しました。 中晩かんの誕生 山口県で「夏みかん」、「伊予柑」、広島県で「はっさく」が誕生しました。 「温州みかん」の普及 明治中期から紀州みかんに代わって栽培が行われました。 栽培面積の増大 昭和30年代以降に急増し、栽培される種類も多くなりました。 オレンジの輸入自由化 平成3年以降、海外産のカンキツが多く輸入されるようになりました。 このページに関するお問い合わせ 経済産業部農業
1.自館開架の757色彩、425視覚、観念・文化?38~、361の辺りを見てみた。 2.425は屈折率などで探している事項とはちょっと違うようだった。3類も探している事項について記載はないようだった。7類の棚で色彩事典など見るが違うようだった。 3.閉架の色彩関係の資料を何冊か出して見てもらった。a、b、cの3冊を貸し出し。 NDC デザイン.装飾美術 (757) 参考資料 河原英介 著 , 河原, 英介, 1927-. 色彩いろいろ事典 : 漢字で綴る色のイメージ. ビジネス社, 1984. http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001697949-00 , ISBN 4828402012 朝日新聞社 編 , 朝日新聞社. 色の博物誌 : 世界の色彩感覚. 朝日新聞社, 1986. http://iss.ndl.go.jp/books/R10
日本には、お正月やひな祭り、七夕、ハロウィーン、クリスマスなどの行事があり、西洋の伝統的なイベントを取り入れる文化があります。本書では、私たちにとって身近な年中行事や季節にまつわる色のふしぎや由来・ルーツを、豊富なビジュアルとわかりやすいテキストでたどります。 東西それぞれで養われてきた色彩観や、四季折々の日本で育まれた独自の色彩感覚など、「知っておきたい」色の知識を収録する充実の一書です。 掲載内容: 第1章 日本と世界の色 日本の色の始まり/日本の彩色美/侘び・寂びの色/ジャポニスムの色彩/ 国旗で読み解く世界の色/紋章の色 ほか 第2章 春夏秋冬の色 日本の正月と門松の色/十二単とかさねの色目/端午の節句の起源と色の意味/ 虹の色はいくつに見える?/七夕を飾る五色の短冊/藍染の色とジャパン・ブルー/ 秋の七草の花の色/ハロウィーンの歴史と由来/ワインの色/七五三の色/ クリスマスを飾
江戸時代後半のある紀行文に「守山駅に泊まる」と書いてあった。鉄道も通っていない時期なので、「守山宿に泊まる」の誤植ではないかと思う。そこで、守山宿でなくてもよいが、江戸時代に宿場を駅と称することがあったのか具体的な事例を知りたい。 『岩波日本史辞典』によりますと、「宿駅(しゅくえき) 江戸時代の五街道や主要脇往還の伝馬制度は、律令制の駅制や中世に発展した宿を継承したもので、その人馬の継立地であり宿泊施設のある場所を宿駅と称した。江戸時代には単に宿、あるいは宿場と称することが多く、維新期になって古代の官制が復活する中で一般に宿駅と称するようになった。(後略)」とあります。また、『日本史事典』(朝倉書店)でも、「宿場(宿駅) 古代律令制下の駅制に起源を有し、やがて旅行者の休泊や人馬の供給機能を備えた集落を宿と呼ぶようになり、これが江戸時代に至って幕藩体制上重要な交通政策を担う運輸機関としての宿
色で感じる文化コロナ禍で海外に行くことも、人が来ることも少なくなったが、「文化」を感じるのは、自分たちとは異なる文化を持つ共同体の地域に行ったり、人が来たりするときだろう。 1874年(明治7年)に政府の招きで来日したイギリスの化学者、ロバート・ウィリアム・アトキンソンは、『藍の説』において「日本において藍は染料となして、これを使用するのが大変多い。日本に来て全国に至るところで藍色の衣裳をみる」と記載し、「ジャパン・ブルー」と称したという(※1)。また、1890年(明治23年)に来日した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も、『神々の国の首都』に着物や暖簾など藍がいたるところで使用されていることを記している(※2)。日本の藍染めに用いられる蓼藍と、その染色の技術は、染色家の吉岡幸雄によると、中国や朝鮮半島から5世紀頃に輸入されたという。安土桃山時代前後には徳島県の吉野川流域で栽培され、全国に流
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