四季のうつろい、地理的、歴史的、文化的背景などさまざまな影響を受け、日本の伝統色とされている色の名前は、非常に多くの種類があります。 数々の色の中でも、藍色、紅色、紫色の3つの色は活用されてきた歴史や色の豊富さなどをみると、日本人にとってとりわけ関わりの深かった色とも言えます。 古来、日本人は、色彩や色の表現について特別な感情や独自の感性を持っていたとされます。 古代の人々は、草木にも霊があると考え、草木の霊は特に「木霊こだま」と呼ばれ、一番身近に存在する「和霊にぎたま」としてとらえていたとも言われています。 今から1000年以上も前の日本では、現在のように科学が進歩しておらず、自然災害や病気の流行など、人間の理解を超えた現象というものは極めて多かったことでしょう。 当時の人々は、不可思議な現象は人間以上の力をもつ何者かの成せる業と考え、自己に危害があると考えたときには救いを求めて祈りを行
「一房の葡萄」(ひとふさのぶどう)は、有島武郎による小説(童話)。雑誌『赤い鳥』1920年(大正9年)8月号に掲載された。その後、本作を表題作として全4篇を収録した単行本『一房の葡萄』が1922年(大正11年)に叢文閣より刊行された[1]。 「一房の葡萄」は、有島が書いた最初の創作童話で、横浜英和学校(現横浜英和学院)での自身の体験に基づいている[1]。 単行本『一房の葡萄』は、有島が生前に残した唯一の創作童話集であり、全4篇中、本作を含む3篇が有島の幼少期の体験に基づくものである。有島が自ら装幀、挿画を手がけ、自分の3人の子供達に献辞が捧げられている[1]。 小さい頃絵を描くことが好きだった主人公の「僕」は、自身の住む横浜の山の手に続く美しい海岸通りを絵に描いて再現しようとする。しかし、自身の所持している絵具では、本当の景色で見るような絵には描けない。 ある日西洋人の同級生・ジムの持つ舶
不自然な色彩 浮世絵の色彩と西洋の絵具との差異を、原材料の視点から研究している目黒区美術館学芸員・降旗千賀子はこう語る。 「浮世絵で使われた顔料は植物系の染料なので、ヨーロッパの絵具よりも蛍光性があります。だからヨーロッパの画家たちには、よりいっそう鮮やかに見えたのではないでしょうか。それに色は時の経過とともに退色しますから、当時はいまよりももっと鮮やかな作品だったはずです」 ティムもこう語る。 「大英博物館のGWも色が退色していますが、本来の北斎の多くの作品は、淡いイエロー、淡いグレー、そして空はもっとピンクがかっていただろうと想像しています。ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しているGWは、世界でも一番色がはっきりしています。作品全体で色は退色していますが、このブルーはいまも素晴しいと思います」 「神奈川沖浪裏」でも北斎が使い、のちに「北斎ブルー」と言われることになる青は、「ベロ
『色の用語事典 : 写真・イラストでよくわかる』p.218 江戸時代にさまざまな茶色や灰色が大流行したことを表わす言葉であり、四十八や百は実際の数ではなく多いことを意味している。江戸時代は火事が多かったので「灰」は縁起が悪かったため「鼠色」という言い方が多かったようであると書かれている。 『日本の色辞典』p.238 庶民の華美、贅沢を禁じた幕府の奢侈(しゃし)禁止令に対して人々が茶や黒、鼠系統の地味な色合いにさまざまな変化をつけて、それぞれの色に、当時人気の歌舞伎役者や風月山水などの名前をとってつけ楽しんだと書かれている。当時刊行された文献などから拾った茶色系統、鼠色系統の色名も記されている。 『色彩の宇宙誌 : 色彩の文化史』p.180-188 江戸中期から末期に流行した茶系統・鼠色系統の色の代表的なものについて色名と特徴を示した表が載っている。 『自然の色と染め : 天然染料による新し
※記事タイトルのよみがなは脱字ではありません。 概要江戸時代にたくさんの茶色や鼠色が存在したことを表す言葉。48や100というのは多いことを形容するもので正確な数値ではない。 江戸時代には贅沢禁止令がたひたび出され、茶色や鼠色といった地味な色の染物がたくさん作られた。 江戸時代に使われていた色名かを判別するのは歴史の専門家でなければ難しいが、茶系の日本の色名は48をゆうに超える。 茶色の名称茶色 焦げ茶 黄土色 弁柄色 生壁色 樺色 丁子色 海老色 栗色 枯色 小麦色 飴色 狐色 江戸茶 根岸色 路考茶 団十郎茶 利休茶 芝翫茶 璃寛茶 梅幸茶 仙斎茶...など 鼠色の名称鼠色 灰色 鉛色 鈍色 銀鼠 利休鼠 深川鼠...など 関連記事 親記事
概要白って200色あんねんとはアンミカが放った衝撃の事実である。 元ネタは2021年8月20日に放送された「人志松本の酒のツマミになる話」で、ノブが質問した時の回答である。 その時の即答ぶりが出演者を爆笑させた。 当時はあまり注目されなかったが、その半年後に突如としてYouTubeやTikTokに出現。YouTubeでは500万再生を超えるほどの人気を集めた。 また彼女がカラーコーディネーターの資格を持つため、言える言葉でもある。 実はこの発言はアンミカ自身のものではなく、アンミカがパリコレのオーディションに落ちたとき面接官に言われた「白って200あるのにどうしてあなたは自分に似合わない白の服を着るの!?」というものだった。 江戸時代には四十八茶百鼠という言葉があり、たくさんの茶色や鼠色が存在した(48や100という数字は多いことを表すもので正確な数値ではない)。白が200色あるというのは
新版 色の名前507―来歴から雑学、色データまで 日本の色、世界の色が見て読んでわかるの評価67%感想・レビュー8件
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2013年11月05日 カテゴリ:カラーコーディネート(色彩) ツイート 11月に入って、10月の運動会シーズンには黄緑だった蜜柑が、オレンジ色に色づいてきました。この写真のような、蜜柑の皮の色を「蜜柑色」といいます。このような蜜柑が普及したのは、明治時代なので、「蜜柑色」は、比較的新しい色名です。 これより少し濃いオレンジ色を「橙色(だいだいいろ)」という色名があります。こちらも、色名としては新しいのですが、橙そのものは、とっても古いようです。実が落ちにくくて、収穫しなかったら2~3年枝についているので、「代々」と言われるようになり、それが「橙」になりました。子孫繁栄の縁起物として、お正月に飾られますね。 また、英語では、オレンジの実の色から、「オレンジ」という色名がつけられています。橙色と、ほとんど同じです。「オレンジ」も「だいだい」も、赤と黄色の間にある、基本的な色名でありながら、物
外来語(がいらいご)は、広義の意味としては他の言語から借用され、自国語と同様に使用するようになった語(借用語)を指し、狭義の意味としてはその中から、主として欧米諸国から入ってきた語(広義から、漢語を除いた言葉。洋語や横文字とも呼ばれる)を指す[1]。また狭義の場合、カタカナで表記することが多いことからカタカナ語(この表記は適切ではない、理由は後述)とも呼ばれる。 現代言語学辞典によると、 外来語は「外国語の音とアクセントをほぼそのままの形で取り入れたもの」となっており、 借用語は「自国語の音韻体系に合うように変形して取り入れたもの」となっている。 しかし、実際には音声形に変形が見られるかどうかとは関わりなく、外来語は外国語からとりいれられて日本語として定着したものを外来語と総称することが多い[2]。 または、外来語を洋語(西洋の諸語から取り入れた語)の意味として、そこに漢語などを含むものを
回答: 言葉の持つ意味とイメージと用法の関係だと思います。 ピンクやオレンジという言葉の響きが、桃色や橙色に比べて、用いられる時代や状況に、より適していたということではないでしょうか。 「ももいろ」「だいだいいろ」よりも「ピンク」「オレンジ」のほうがファッション性やスマートさを感じさせ、それが時代に受け入れられていったのだと思います。 また、赤や青等についても同様の現象は見られますから、日常生活のカタカナ化の流れの影響も背景にあると思います。
皆さんは赤という色にどのようなイメージを持たれるでしょうか? 正義? 情熱? 妖艶? 危険? 状況によってさまざまなイメージと結びつく色ですが、パッと目に飛び込んでくる強い色ですよね。浮世絵版画の歴史においても、その始まりから作品の根幹を支える重要な色でした。今回は、太田記念美術館で開催されている企画展「赤 ―色が語る浮世絵の歴史」を通じて、浮世絵版画の歴史を学んでいきましょう。 初期の浮世絵は一枚一枚塗っていた! 「浮世絵」といって多くの方が思い浮かべるのは、おそらく北斎や広重の風景画や、歌麿の美人画、写楽の役者絵といった色鮮やかな木版画の数々ではないでしょうか。18世紀に、これほどのクオリティのフルカラー印刷が広く庶民に普及していた文化は、世界的に見ても極めて特異でした。多色摺の浮世絵版画は、色彩に対する日本人の繊細な感性と高度なものづくりの技術の結晶と言えるでしょう。 多色摺の華やか
明治から昭和にかけて、日本の化粧は欧米のスタイルを取り入れて大きく変化していきました。 明治期 お歯黒は時代遅れ? 幕末以降、日本にやってきた欧米人の目には、お歯黒や剃り眉が奇妙なものに映りました。そこで、明治政府は風俗面の西欧化を進め、化粧に関しても、明治6(1873)年、皇太后や皇后が黛(まゆずみ)やお歯黒をやめたことが発表されました。しかし、欧米人など見たこともない庶民にとっては、日常的な慣習であるお歯黒や剃り眉が変だと言われてもピンときません。明治半ばごろになっても、水で溶くだけで黒く染まる粉末タイプのインスタントお歯黒が発売されるなど、お歯黒の習慣は根強く残りました。 これは、明治10(1877)年ごろの女性の風俗を描いた錦絵です。皇后がお歯黒をやめたという発表の4年後ですが、よく見ると女性の歯が黒々と塗られているのが分かります。 石鹸から始まる洋風化粧 明治初期、政府は海外から
私がクレヨンに興味を持ったのは、クレヨン自体ではなくパッケージデザインからだった。クレヨンは子供のお絵かき道具として使われるのが最も一般的だ。昔は今よりクレヨンを作るメーカーやクレヨンの種類も多く、子供の目を引く鮮やかな色彩に、かわいらしい、時にユニークな絵柄のパッケージのクレヨンが多く作られた。 *クレヨンのパッケージ。推定昭和初期から昭和20年頃。 単に見栄えの良いパッケージを探す蒐集が、ライオンの描かれた小さいクレヨンを見つけたことで潮目が変わった。このクレヨンはサイズもそれまで知っていたクレヨンよりはるかに小さく、箱の絵柄や雰囲気も全く異なる。日本製かどうかもわからないが箱に「CRAYON」と書いてあることから、かろうじてクレヨンであることがわかった。 のちにこれはライオン事務器のクレヨンであることがわかった。ライオン事務器に問い合わせる機会があり当時の歴史資料室のご担当の方々が大
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