1975年神奈川県生まれ。毒ライター。 普段は会社勤めをして生計をたてている。 有毒生物や街歩きが好き。つまり商店街とかが有毒生物で埋め尽くされれば一番ユートピア度が高いのではないだろうか。 最近バレンチノ収集を始めました。(動画インタビュー) 前の記事:野付半島でサケ漁体験 > 個人サイト バレンチノ・エスノグラフィー
環境DNAと呼ばれる川の水に溶けたフンや体の表皮などのDNAを手がかりに、絶滅危惧種のニホンザリガニがいるかを調べる方法を北海道大や兵庫県立大などの研究チームが開発した。生息環境に影響を与えず調べられる利点がある。研究結果が19日付の米科学誌電子版に掲載された。 ニホンザリガニは北海道や東北の一部に生息する在来種で体は茶褐色。環境変化に弱く、環境省のレッドリストで絶滅危惧Ⅱ類になっている。河川上流で石の下に隠れてすむため、調査では石を一つずつひっくり返す必要があり、時間やコストがかかる。生息環境への影響も懸念されている。 そこで研究チームは札幌市近郊の21カ所で川の水を1リットルずつ採水し、ニホンザリガニの環境DNAの有無を調査。その後実施したニホンザリガニの捕獲調査と比べたところ、実際に見つかった10カ所すべてで環境DNAが見つかった。 研究に加わった兵庫県立大の土居秀幸准教授(生態学)
北方領土の元島民やその家族が故郷を訪問する「ビザなし自由訪問」で択捉島に上陸した訪問団が、大きなヒグマに至近距離で遭遇した。10日に北海道根室市に戻った訪問団が記者会見し、明らかにした。事故はなかった。 訪問団(56人)は8日、択捉島南部にある旧居住地・宇多須都(うたすつ)に、戦後島を追われて以降初めて上陸した。浜に下りたところ大きな足跡があり、同行のロシア人ハンターを先頭にして丘に上がると、納屋のような場所からクマが現れてすぐに林の中へ消えたという。付近には15人ほどの団員がいた。 クマを撮影した択捉島元島民二世の一戸真幸さん(52)=函館市=によると距離は15~16メートルほどで、体長3メートル以上、重さ400キロくらいあったのではないかという。「相当大きく堂々としていて、襲ってくる感じはなかった。白と茶のまだらで、北海道本島のヒグマとはちょっと違うのでは」と話した。 ビザなし訪問では
環境省北海道地方環境事務所は9日、絶滅危惧種シマフクロウへの給餌(きゅうじ)について、環境省の認める保護増殖事業以外は「安易な餌づけ」だとし、やめるよう指導する方針を明らかにした。社会教育の場としてシマフクロウを見せる試みを行っている知床羅臼町観光協会の取り組みも指導対象で、地元の反発は必至だ。 釧路市で開かれた「シマフクロウ保護増殖検討会」で示した。保護増殖事業における給餌の基本的な考え方として「必要最小限の期間及び量に限って行う」とし、これ以外の給餌は「餌づけ」だとして区別。「終了するよう指導する」とした。人の与える食べ物への依存や人慣れが進むことなどで、シマフクロウと周辺生態系へ影響を及ぼす恐れがある、との理由だ。 シマフクロウを見せている場所は道内で複数ある。羅臼町では、一軒の民宿の前を流れる川にある給餌池で個体を見せ、自然保護の重要性を説いたり、その行動解説を行ったりしている。観
雷山 @Nord_Habicht 日が暮れてきそうな中で、電話をかけました 円山動物園「うちは籠の中の鳥で十分なんじゃ〜^ ^」 道警「ま、様子見てたらどうにかなるべ、あんちゃん頑張って〜^ ^」 私「\( 'ω')/ウオオオオオアアアーーーッ! 」 ※会話は投稿者の偏見で曲げられています 2016-01-23 18:20:22
北海道の世界自然遺産・知床で、絶滅危惧種シマフクロウを来訪者に見せる試みが始まった。保護すべき生物をあえて見せることで、知床の自然への理解を深めてもらおうと、地元観光協会が動いた。環境省は「めったに人目に触れることのない希少種を見せて保護、啓発につなげようとしている非常に少ない事例。良い方向に進んでもらいたい」と見守っている。 知床半島の羅臼町を流れるチトライ川。日没から間もなく、川沿いの民宿「鷲(わし)の宿」隣の小屋で、家族連れらが薄明かりに照らされた川面を眺めていた。知床羅臼町観光協会の佐藤紳司さんが説明した。 「シマフクロウの主なエサはイワナの仲間のオショロコマです。その数から考えると、知床では一つの河川域に一つの家族しかすめないでしょう」 その時、シマフクロウが流れに浮かぶ岩に降り立った。「来た!!」。小屋に歓声が上がる。フクロウは小屋には目もくれず、微動だにしない。何分経過しただ
北海道大学は、チュウヒという湿地性の猛禽類の繁殖成功度が高い湿地を保全すれば、その他の小鳥の繁殖成功度の高い地域も保全できることを明らかにした。(写真:北海道大学の発表資料より)[写真拡大] 北海道大学の先崎理之氏らによる研究グループは、北海道苫小牧地方の湿帯で、チュウヒという湿地性の猛禽類の繁殖成功度を3年間調べ、チュウヒの繁殖成功度が高い湿地を保全すれば、その他の小鳥の繁殖成功度の高い地域も保全できることを明らかにした。 猛禽類の生息地の保全は、最も頻繁に行われる生物多様性保全手法の一つであるが、猛禽類の保全が他種の保全に繋がるのかあまり調べられていないこと、この手法が猛禽類の親鳥にのみに着目し、その繁殖成功度を無視してきたことが問題点となっていた。 今回の研究では、北海道苫小牧地方の分断化された湿地景観で、2012〜2014年にかけてチュウヒの繁殖成功度を調べ、2014年に3年間のチ
獣害史上最悪として知られる「北海道三毛別羆事件」。死者8人を出したこの惨劇が起きたのは、大正4(1915)年。時は第一次世界大戦下、この地に入植していた人々を恐怖のどん底にたたき落したのは、体重300キロをゆうに超す巨大な人喰い羆であった。 本書は営林署に勤務していた著者が、事件後46年目に当地区の担当になったことをきっかけに、生存者や遺族、討伐隊に参加した人たちから入念な聞き取り調査を行った記録である。本書の内容は、吉村昭によって『熊嵐』として小説化もされている。 12月――野山一面が雪に覆われ、ヒグマは森で冬の眠りについている……はずだった。最初の犠牲者が出たのは、開拓部落の太田家。寄宿していた男が家に戻ると、男の子が座ったまま眠っている。呼びかけても返事がないので肩を揺すったとき、男の子は喉の一部を鋭くえぐられ、こと切れているのに気がついた。一緒に留守番していたはずの、この家の妻もい
千葉県東部の九十九里浜で同県八街市の山田容子さん(75)とみられる切断された胴体や頭部が相次いで見つかった事件で、県警は24日までに、死体損壊・遺棄の疑いで、同居の息子(37)を...続きを読む
少し早いお盆休みを取って、北海道の東側に行ってきました。 目指すは道内でも数少ない怪獣伝説のある湖、屈斜路湖! 当然怪獣の名前はクッシーなのですが、似た名前のクッタラ湖やクッチャロ湖にクッシーはいるのだろうか、とかそんな非建設的なことを考えているうちに到着しました。 今回、この湖に来た主な目的はザリガニです。ザリガニを本気で獲って食うのです。食用として日本に持ち込まれ、今は北海道や福島県を中心に広まって問題視されている外来生物、ウチダザリガニです! 【もくじ】 屈斜路湖でザリガニクッキング! アメリケーヌソースのパスタをつくりました。 ウチダザリガニと外来生物法について 外国から入ってきた生物についての説明です。 環境教育として行う外来生物の『駆除』について思うこと ウチダザリガニの「命」の扱いについて思うところを書いてみました。 【屈斜路湖でザリガニクッキング!】 ここ屈斜路湖は湖岸で温
知床のヒグマ、サケは栄養源のわずか5% 京大院生ら、骨のコラーゲン分析 (07/20 14:31、07/20 16:46 更新) 川に遡上したサケを捕らえ食べるヒグマ=2013年11月、オホーツク管内斜里町 知床のヒグマの栄養源のうち、サケはわずか5%にすぎない―。京都大生態学研究センターの松林順さん(大学院博士課程3年)らの研究で、意外な実態が明らかになった。河川改修などの環境変化でサケの遡上(そじょう)が減ったことが原因となっている可能性があり、生態系への影響も懸念される。 サケはヒグマの主要な食料と一般に受け止められているが、捕獲されたクマの胃の内容物調査などから、実際はあまり食べていないという見方があった。松林さんらは、ヒグマが生きている間、何をどんな割合で食べたかを、「安定同位体分析」という手法を使って調べた。 道が知床半島で捕獲したヒグマ190頭の大腿(だいたい)骨からタンパク
4日午後2時頃、北海道せたな町大成区太田の山林で、山菜採りをしていた苫小牧市の会社員女性(45)が後ろからヒグマに襲われた。 女性は肩や腕をかまれて重傷を負い、病院に運ばれたが、命に別条はないという。 せたな署によると、女性は知人(63)と2人でギョウジャニンニクを取るために入山。山菜採りを終え、知人の後ろを歩いて下山中、林道から約1キロ・メートルの山中で襲われた。ヒグマは体長約2メートルで、知人が枝払い用に持っていたナタでヒグマの顔をたたくと、山中に逃げた。 山林に入る林道入り口には「クマ出没注意」の看板が設置されており、よく出没する地域。せたな町では昨年4月、現場から約10キロの北檜山区新成の山林で、1人で山菜採りをしていた女性(当時52歳)がヒグマに襲われて死亡した。
ラッコがいつ日本の史料に出てくるのか。一つの問題は「独◻︎(けものへんに干)」をどう判断するか、ということである。アザラシ説、北方の犬説、ラッコ説がある。アザラシ説は「独◻︎」が「水豹」と並べて記されており、しかも「水豹」に「アザラシ」と訓が振ってあることを考えれば成り立たず、また北方の犬もそれが貴重なものであるとは考えられないことから、若月義小氏はラッコと考える。ただそれをラッコと考える積極的な論拠もないところから、通説では「安藤陸奥守宛室町殿御内書」をラッコの確実な初出としているようである。 もし8~9世紀の「独◻︎」がラッコであるとすれば、当時ラッコの生息域に分布していたオホーツク文化の荷負集団から擦文文化の荷負集団を通じて入手していたのだろうと考えられる。ということは、オホーツク文化の変動、オホーツク文化と擦文文化との関係の変動、擦文文化と日本との関係の変動のいずれかが起こればラッ
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