ツイッターで話題になっていたマンジケルトの戦い記念祭(?)の記事に触発されて書いてみる。 マンジケルトの戦いはかつてビザンツ史の大きなターニングポイントの一つだとされてきました。ムスリムの君主がキリスト教徒の皇帝を打ち破り、それを捕虜とまでした戦い。これを期にビザンツはアナトリアから徐々に後退し、同地の「トルコ化」や「イスラーム化」が進展したとされてきました。トルコにおけるセルジューク朝研究ではとくに強調されている点で、話題になっていたトルコでの記念祭もその流れなのでしょう。 しかし後述するように、この一回の戦いの影響それ自体はさほど大きくなかったとされています。その理由は、①1070年代当時のセルジューク朝の目標はそもそもアナトリア進出ではなく、ファーティマ朝等との北シリアをめぐる争いだった ②対ビザンツ戦において、セルジューク朝は会戦よりむしろ外交的・非間接的手段を重視していた あたり