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ブックマーク / magnavravra.blog.fc2.com (4)

  • マグナウラの裏 ビザンツはなぜ「十字軍」を呼んだか

    ツイッターで話題になっていたマンジケルトの戦い記念祭(?)の記事に触発されて書いてみる。 マンジケルトの戦いはかつてビザンツ史の大きなターニングポイントの一つだとされてきました。ムスリムの君主がキリスト教徒の皇帝を打ち破り、それを捕虜とまでした戦い。これを期にビザンツはアナトリアから徐々に後退し、同地の「トルコ化」や「イスラーム化」が進展したとされてきました。トルコにおけるセルジューク朝研究ではとくに強調されている点で、話題になっていたトルコでの記念祭もその流れなのでしょう。 しかし後述するように、この一回の戦いの影響それ自体はさほど大きくなかったとされています。その理由は、①1070年代当時のセルジューク朝の目標はそもそもアナトリア進出ではなく、ファーティマ朝等との北シリアをめぐる争いだった ②対ビザンツ戦において、セルジューク朝は会戦よりむしろ外交的・非間接的手段を重視していた あたり

  • マグナウラの裏 ニケフォロス・フォカスと海軍

    10世紀は東地中海情勢が大きく変動した時代でした。アッバース朝の求心力が低下し、地方に様々なムスリム政権が割拠する中、ビザンツ帝国の領土は大きく東へと伸長します。その中にはアンティオキアやエデッサなど、のちの十字軍の舞台となる地域も多く含まれていました。またその中でビザンツ軍の在り方や境域防衛のシステムも大きく変化したとされており、まさに後の十字軍時代の前提条件が形成された時期だと言えるかもしれません。 (*1) さて、そのビザンツの軍事的伸長の中で最も大きな役割を果たした皇帝の一人が、「サラセン人の蒼ざめた死」として有名なニケフォロス・フォカスです。カッパドキアの軍事貴族フォカス家に生まれた彼は、マケドニア朝の皇帝の庇護のもと軍歴を積み、テマ・アナトリコン長官を経てドメスティコス・トン・スコロン(総司令官)の地位にのぼります。そして当時ビザンツの東方境域を度々侵犯していたアレッポのハムダ

  • マグナウラの裏 ペルシア人のくせに!

    タイトルにあまり意味はない。 さて、前のブログでも通訳官の例で述べたように、ビザンツには帝国内における非ギリシア語話者(外国人とも言いづらいしなあ。なんて言ったら良いんだ。異邦人、異人…?)への不信のような物があった可能性があります。ただしこれは言語の使用に限らず、帝国内にいる非ギリシア人に対するものであったかもしれません。例えば軍事書でも、アルメニア人将兵たちはいつ裏切るとも知れないから信頼してはならない、と不信が繰り返し述べられています。この背後には、大勢力に挟まれた境域という位置を利用し、帝国とその他の勢力(イスラーム勢力とか)の間を行き来することで生存をはかっていたアルメニア人諸侯たちの動向が反映されていたのかもしれません(これに関しては論文の・ようなもの一応書いた。査読通ったので近いうちに英語でももういっこ出るはず)。 今回はこのような非ギリシア語話者について興味深い文章を一つ見

  • マグナウラの裏 ビザンツにおける言語

    かつてとある国立大学の入試に、こんな世界史の問題が出たことがあるそうです。 「ビザンツ帝国では、首都コンスタンティノープルを中心に、古代ローマを継承した文化が開花した。この帝国の公用語は何語であったのか。その言語の名称を記せ」 いつぞやツイッターでも話題になっていたようですね。おそらく「公用語」ということであれば、7世紀以降、帝国滅亡まで長らく行政言語となっていたギリシア語と答えるのが無難なのでしょうが、確かにビザンツをいかに定義するかが大きく関わってくる問題なのは間違いありません。 むろん、東ローマ帝国の中心地であった東地中海世界では、ギリシア語が非常に大きな存在感を持っていましたが、ラテン語も西地中海世界の領土では広く用いられていましたし、何より6世紀までは帝国の行政言語であり続けました。7世紀にラテン語話者を多く抱える西地中海地域およびシリア語・コプト語人口が多いシリア・エジプトを失

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