東京・内幸町のオフィス街の高さ一メートルほどの植え込みに「放送記念碑」と刻まれた黒い石碑が立つ。かつて日本放送協会のラジオ局があった痕跡だ。戦後、姉妹で童謡歌手として名をはせた植村(旧姓・川田)孝子(78)=東京都新宿区=は、碑と同じくらいの背丈のときに、毎日そこで歌っていた。一九四五年春、一帯が空襲で焼け、火の玉のようなものが飛び交った日にも。 「とにかく『お国のために』って一心だった」 孝子が所属していたのは、童謡作曲家、海沼實(みのる)の児童合唱団「音羽(おとわ)ゆりかご会」。海沼は「お猿のかごや」などをヒットさせ、コンクールやラジオ放送の常連になっていた。 だが、戦局とともに、優しい調べの童謡は影を潜めていく。「欲しがりません勝つまでは」。戦時中、誰もが耳にした標語も海沼の手で、軽快なテンポの一曲となった。 本来、軍歌を歌う大人の歌い手たちは兵隊に取られ、合唱団は、持ち歌でなくとも