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ブックマーク / bushoojapan.com (3)

  • 「和を以て尊しとなす」の聖徳太子が武闘派で戦争好きだった件

    なぜかというと、国のトップである天皇にはそれなりの経験が求められていたからです。 さらに、天皇という地位は一度ついたら死ぬまで決して誰にも譲られることはないという大原則があったからです。 (ちなみに、史上はじめて譲位したのは、これよりあと、7世紀中頃の女帝・皇極天皇=大化改新のクーデーターの時の天皇です) つまり聖徳太子が天皇になるには、推古天皇よりも長生きしないと即位できる可能性はゼロだったわけです。 実際には、太子は622年に49歳で死に、推古は628年に75歳で亡くなっています。 女性は長生きだってことです。 中2で父を亡くす 「聖徳太子」という呼び方(尊称)と聖人君主的なイメージは、死後50年以上たってから作られたものということが最近の研究で分かっています。(最近時々話題になる「聖徳太子はいなかった」説はこのことを言っているのです) では、後世に作られた伝説を一枚一枚はがしていくと

    DG-Law
    DG-Law 2013/12/08
    4記事目。
  • ドラえもんに脳内変換すれば古代の【崇仏論争】が劇的に面白くなる!

    古代日と朝鮮半島の新羅が一触即発の緊張状態となった聖徳太子の時代。その原因をさかのぼったところ、継体天皇という新王朝の大王にたどり着いたというお話をしてきました。 「明日はついに聖徳太子!」と言いながら、なかなか聖徳太子の尻尾も見えないのですが、今回ようやく、ようやく尻尾くらいが見えてきます。すみません…。 なぜかというと、古代古代と簡単にいっちゃいますが、継体天皇から聖徳太子(天皇は推古女帝)までの天皇を並べると、 安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇俊と6人もいるではないですか! 前回、このうち前半の3人の方を紹介しました。 となると、後半の3人も触れないわけにはいけないのでは、と思い至った次第です。 びだつ、ようめい、すしゅん…またもや古代史ファン以外には初出場の名前の数々にクラクラしていると思います。しかも、この時期は有名な「仏教伝来」というビッグイベントもあるのですが、ご存じのよう

    DG-Law
    DG-Law 2013/12/06
    個人的には,この辺は東方神霊廟の世界だなぁ。系図に布都ちゃん出てきてるわ。
  • 「古代の日韓交流史」NHKがクローズアップした時代の少し前になにが起きたかまとめた

    継体は皇位を簒奪していない6代なんていっているが単なる自称で、継体は皇位の簒奪者だったではないのかとも言われています。 しかし、答えはNOでしょう。 確かにはるか昔の天皇から数えて6代目ともなると、もはや皇族と言えないくらい遠いのですが、少なくとも「昔の大王の子孫」と、自他共に認識されていたことは間違いなさそうです。(DNA的につながっているかどうかではなく、あくまで認知されていた) もし継体が征服王朝の始祖だと考える場合、戦国時代のように、まずは地元でトップになっていることが必須となります。 ところが、越(福井県)での古墳の規模を見ると、継体がいたと考えられる地区とは別の地区に圧倒的に大きい前方後円墳があることが考古学から判明しています。つまり、継体は越の王ですらなかったのです。日海側で一番強い武将だから天皇になったのではなく、やはりいにしえの天皇の血を引く人物とみなされていたことが最

    DG-Law
    DG-Law 2013/12/04
    おもしろい。継体天皇のイメージ変わるわ。
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