Posted by Joseph Heath 先週のエントリでは,現代の大学界隈に見られる多種多様なふるまいをジャーナリストたちがひとしなみに「ポリティカル・コレクトネス」の一語でくくってしまいがちだとぼやきました。「古典的な」ポリティカル・コレクトネス-たとえば言葉狩り-の問題はすっかり廃れているのですが、それとは別の困った傾向が潮流として存在することを述べたのです。今週はその続きとして、私たち(物事を分類するのが大好きなのです)が「規範的な社会学(normative sociology)」と呼んでいる、やはり少々問題がある慣習について書こうと思います。 この「規範的な社会学」というコンセプトの由来は、ロバート・ノージックが「アナーキー・国家・ユートピア」の中で軽い調子で書いたジョークです。「規範的社会学、つまり『何が問題を引き起こしている”べき”なのか』、の学問がわれわれ全員を魅了する
2012年か13年のいつだったか、筆者の娘たちは母語のコンカニ語で話すことをやめた。何がそうさせたかは定かではないが、おそらく彼女らのムンバイの学校が生徒に家庭でもっと英語を話すことを奨励していたのがきっかけだ。あるいは他のなにかかもしれない。それは問題ではない。 問題なのは、うちがときどきの散発的なコンカニ語会話以外、ほぼ排他的に英語を話す世帯になったということだ。インド都市部の富裕層全体に我々のような多くの家族が群れをなしており、成長途上で喋っていた言語でなくもっぱら英語を話している。 これらの家族のいくらか、あるいは少なくともこれら英語を話す世帯の親たちは、英語で話すのと同じくらい母語で話そうと試みる。しかし、これらバイリンガル世帯においてさえ、英語は依然支配的である。子供たちにとって、二三の単純なフレーズ以上にインドの言語で話すことは骨が折れる。他方、英語は自然に出てくる。彼らのも
フィールドワークと街歩き もともと文化人類学の語彙であるフィールドワークという言葉は、日本語では実地調査ないしは参与観察などと訳される。「調査」や「観察」という語が示すように、仮説の検証など学術的な目的が設定される場合が多い。外部の観察者が観察対象となる原始社会の共同体に一時参入することで、その構成員としての経験的な視点を獲得し、あらかじめ設定した仮説の再検証を行なう。参与者は半分その共同体に溶け込みつつ、もう半分で観察者としての客観性も維持する必要があるというのが教科書的な定義だろう。 文化人類学の方法論としてのフィールドワークはのちに、カルチュラル・スタディーズなどの学問分野において、原始社会の調査のみならず、先進社会における特定の文化集団(移民集団・若者集団・サブカルチャー・グループ・性的マイノリティ集団など)を対象とした調査手法としても定着した。こうした新たな対象のひとつにグラフィ
かつては、年配者が、若者の道徳的退廃を嘆く、というのが相場だった。しかし、いまや、逆である。少なくとも、年配の者が、若者をその道徳性に関して非難する資格を失いつつある。ここで念頭においているのは、NIMBY、近年の日本における、軽すぎるNIMBYの頻発である。NIMBYは、"Not In My Back Yard"(うちの裏庭にはやめてくれ)の略語である。その意味するところは、ある施設に関して、一方では、その必要性は認めていながら、他方で、自分の近隣に建設・設置されるのは嫌だと主張する住民、または彼らの態度である。「死活的」とはとうてい言えない小さな問題しか引き起こさない施設に関して、このNIMBY的な態度をとる住民が増加していること、これが、近年の日本の特徴ではないか。近年、各地でNIMBY的な拒否にあっている施設としては、例えば保育園や学校、あるいは公園、精神科の病院、墓地等を挙げるこ
安川 一 1998a「“ヴィジュアル”の“わかりづらさ”――ヴィジュアル表現の社会学へ(上)――」『言語』(大修館書店)27(8): 10-16. このWebバージョンには、出版バージョンと表記等で異なる部分があります。このバージョンからの引用は、いかなるものもお断りします。 “ヴィジュアル (the visual)”の“わかりづらさ” ――ヴィジュアル表現の社会学へ(上)―― 1.“ヴィジュアル”ということ1 新聞記事に「ヴィジュアル系ロックバンドが異常に盛り上がっている」とあった(『朝日新聞』98.05.07 朝刊)。長身で細身、カラフルなヘア・スタイルをした化粧の美しい、服装倒錯風の男たちを目当てにオーディエンス(おもに女性の)が群がる。そのこと自体はずいぶん前から見聞きしていた。記事の焦点は「外見を磨くこと」に対する若い男性たちの関心の高まりの指摘と、それを具体化してみせる男性向け
The sociological religion of no biological differences between the sexeswhyevolutionistrue.wordpress.com 昨日に引き続き、進化生物学者・無神論者のジェリー・コインのブログからまたまた記事を紹介。 「性別間の生物学的な差異は存在しない、という社会学者たちの宗教」 by ジェリー・コイン アカデミック業界にはタブーであって自由な議論を行えない二つの論点が存在する、ということを私は生物学者として学んできた。第一の論点は「人種」…または、人口間の遺伝的な差異である。文化人類学者たちは、人種は「社会的に構築された」と言う。たしかに、それぞれの人種を明確に区別することのできる有限数は存在しないのだから、その限りにおいては文化人類学者たちの主張にも真実は含まれている。しかし集団間には遺伝的な
以前から話題になっていたポケモンのキャラクターを用いた位置情報連動ゲーム(位置ゲー)である「ポケモンGO」が欧米でリリースされて1週間ほどが過ぎた。巷ではポケモンゲットに熱中する外国人や、関連株の値上がり、いわゆる「ポケモノミクス」についての話題でもちきりだ。日本でも同作がリリースされれば海外のような、あるいはそれ以上の熱狂が起きるはずだと当て込んだ人々の落ち着かない動きも、こうした話題への注目に拍車をかけているようだ。 むろん、ポケモン関連市場は国内において非常に大きいから、リリースされればなんらかの動きはあるだろう。一方でまだ同作をプレイしていない僕には、それがコロプラからイングレスまで連なる「位置ゲー」の特徴や課題を共有するものであると見えるし、やや距離を置いて見ていたい気持ちになるところがある。ひとまずこのエントリでは、「ポケモンGO」に限らず、こうした技術が社会に拡がることはどう
シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。 あんた、知ってる? 今は本当にモノが高いのよ。食器用洗剤750ミリリットルが、2兆ジンバブエ・ドル(以下、ZD)もするのよ。何でもかんでも「トリリオン(兆)」、「トリリオン(兆)」って、もう何も買えないわよ! (2008年7月18日、筆者友人の言葉) 南部アフリカの内陸部にあるジンバブエ共和国は、2007年から2009年のはじめにかけて、記録的なハイパー・インフレに見舞われた。もう7年以上も前の話になるが、当時このニュースは、アフリカの話題としては珍しく日本でも新聞やテレビなどでさかんに伝えられた。インターネット上にはインフレ率やモノの値段、紙幣に並ぶゼロの数、歴代紙幣
今月の初め、能登のフィールドワークを仲間と行い、彼らと別れてから父母の墓参りをした。じつは、金沢から能登へ向かう途中にあるかほく市というのが私の生まれ故郷なのである。かつて通学で使っていた駅の近くに、いま、新しく県立西田幾多郎記念哲学館が建っている。最近、それを知ったのだが、多少なりとも関心があったので寄ってみた。かつて毎年、夏に町主催で西田幾多郎の哲学講座のようなものが開かれていたので、1度参加したこともある。西田哲学は東洋的で観念的だと思っていたので、あまり惹かれなかったが、故郷の偉人なので少し学んでおこうと思ったからであった。 [写真左から、展望室から日本海を望む、眼下は筆者の故郷の集落。哲学館、車から夕焼けの立山連峰、満月1日前の月が登る] 喫茶、研究室もある安藤忠雄設計の立派な建物で、やはり毎年哲学講座も開かれているようだ。今回はじめて西田の私生活や彼の人となりを知って、ちょっと
東京大学大学院情報学環教授 北田暁大〔Kitada Akihiro〕 龍谷大学社会学部教授 岸政彦〔Kishi Masahiko〕 北田 『同化と他者化』ってすごくオーソドックスな本なんですよ。ちゃんと背景をがっちり調べて、そしてインタビューで調査して、そこから導かれる理論的な知見を出して、ものすごい愚直な本。愚直というか、近年まれに見る王道的なものなんですよね。そこでなされている作業っていうのが、僕にとってすごく面白かったですね。たとえば、まず一人ひとりの動機っていうのを書いちゃう。その動機が発生してくる背景も外在的だとか何とかと言われても、ちゃんと説明してやる、っていう気概のすごく直球なスタイル。そのなかでフィールドの実態を浮かび上がらせて、最後に理論的な知見を出す。すごく標準的なものに見えるんだけど、最近そういうのってなかったんですよね。少なくとも、僕はそう思っています。ここで採られ
★ このサイトを運営するNPO法人WANは、多様なフェミニズム実践とジェンダー研究の情報を発信・集積し、 ジェンダー平等を求める人々に交流の場を提供します。 唐突だが、BL好きと歴史好きはしばしば重なる。 正確に言えば、歴史をテーマにした二次創作ものは、しばしばBLに走る。古くは『三国志』や『封神演義』(封神演義は『ジャンプ』紙上で連載された漫画の影響が大きく、その漫画自体が二次創作といっていい作品だったが)から、最近なら『ヘタリア』まで枚挙にいとまがない。これはなぜか。 かく言う私自身、小学校2年生で『三国志演義』、4年生で『水滸伝』、5年生で『封神演義』の順番で中国古典文学にハマり、中学校3年間は春秋戦国時代と諸子百家を読んで過ごした。せっかくなら漢詩の素養も身につけなくてはと『唐詩選』やNHKの漢詩・漢文講座も視聴した。中学時代最後に南宋からモンゴル時代を題材にした小説(田中芳樹著、
「運動」は転換したのか? ――新しい市民社会はどうすれば作り出せるのか(5) 毛利嘉孝(東京芸大准教授)×五十嵐泰正(筑波大准教授) SEALDsと「68年以降」の終焉 毛利 反原発運動や官邸前抗議行動も、新しい展開を見せ始めています。たとえば最近だと若い人たちのSEALDsの活動など新しいネットワークの作り方やデモの見せ方を示しているように思います。 僕はこれまでSEALDsについてはメディアからのコメント要請は全部断ってきました。契機となるようなタイミングでは何回か行ってはいるけど主体的に関わっているわけでもないし、メンバーを知っているわけでもない。そんな人間がもはや国民運動にまで発展している動きに余計なことを言うべきではないし、世間の彼らへの印象に誤解を与えかねないので、時期がくればきちんと調べた上で発言しようと思っています。でも、とにかくすばらしいと評価しています。 五十嵐 僕もそ
(長文かつ専門家向けであり、一部の人以外にとってはあまりおもしろくない記事なので、あらかじめご了承ください。) 教科書的な社会学方法論 教科書的な社会学方法論においては、主観主義的立場と客観主義的立場の分断について論じられることが多い。いくつかのテキストブックには、主観主義的立場の元祖はウェーバーであると書いてあり、それはウェーバーが「理解社会学」の方法として「行為の行為者にとっての意味を理解することが必要だ」と説いたことに根拠付けられている。これに対して客観主義的立場の元祖はデュルケムであり、それはデュルケムが個人の外に存在する社会的事実に注目せよ、と説いたことに由来する。 他方で、社会学の実証研究に従事している人たちは、多くの場合こういった区分をそもそも参照していないように思える。つまり社会学のテキストブックに書かれているような方法論と、現在実践されている、特に社会調査論に依拠した経験
鈴木謙介先生の紹介で、関西学院大学院社会学研究科で4週にわたって講義を行った。さいわい受講者に恵まれ、ヘタな講義にもかかわらず、そこそこ実りのある授業ができたのではないかと思う。この記事では、そこで話をしたことを備忘録代わりに軽くまとめておこう。あわせて、講義内ではうまく伝えられなかったことについての補足の意味もある。 1講 実証=調査ではないこと 私の役割は、計量分析の視点から生活保障について講義をすることだった。そこで、最初に計量分析とはなんぞやというところからはじめた。そのなかでも冒頭で話をしたのは、「実証=調査」ではない、ということだった。 しばしば社会学では実証というとすぐに(質的にしろ量的にしろ)「社会調査」だと考えられてしまう。しかし、より広い科学の世界を見渡してみれば、少なくない分野において調査データは「二流市民」扱いなのだ、ということを説明した。因果関係をより正確に特定し
第二弾はお馴染み、第二世代フランクフルターの旗手、ハーバーマスの『公共性の構造転換』。 公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 作者:ユルゲン ハーバーマス出版社/メーカー: 未来社発売日: 1994/06/01メディア: 単行本 これはレビューがたくさん出ているので「いまさら」な古典ですが、第5章「公共性の社会的構造変化」を中心に、気になったところを少しだけピックアップ。 第十六節 公共圏と私的領域との交錯傾向 ハーバーマスの公共性の構造転換の一番のポイントは、公共圏の変質というよりは、その背景にある「国家と社会の分離とその後の交錯(相互浸透)」であると思う。国家(公権力)と社会(ブルジョア社会)の分離を社会経済的前提として、その間に成り立つのが市民的公共圏(討議空間)であるので、国家と社会の分離がなくなれば市民的公共圏もその基盤を掘り崩されてしまう。この節ではその「国家
(今回の議論はたぶん、かなり穴があります。ご承知おきを。...ってブログの記事はそもそもそういうものか。) 経済学に権力という概念が全くないわけではないと思うのですが、社会学ほどは目立たない概念でしょう。なぜでしょうか。 このことは、権力の定義を考えると自ずと見えてくるのではないでしょうか。まず手始めにWikipediaをみてみましょう。 権力(けんりょく、ドイツ語 Macht、英語 power)は、何らかの物理的強制力の保有という裏づけをもって、他者をその意に反してでも服従させるという、支配のための力のことである。権力者とは、そうした権力を独占的に、あるいは他に優越して保有し、それを行使する可能性をもつ者を言う。(権力:Wikipedia) ウェーバー的な定義ですが、日常的定義(人々が権力という言葉でどういった状態を指しているか)としてはこんなもんで十分なんじゃないでしょうか(フーコーの
東京大学大学院情報学環教授 北田暁大〔Kitada Akihiro〕 龍谷大学社会学部准教授 岸政彦〔Kishi Masahiko〕 北田 (調査をするのは)社会学者じゃなくていいわけだから。 岸 あ、計量ができたら、それでいいって思われたわけ? なるほど。 北田 そう。でもそれなら、もう一方でルーマンとかハーバーマスみたいな理論の人が、それをちゃんとガードしなきゃいけないはずなんですよ。社会学だからこそできる精度のある調査ってものがある、と。でもあの人たちはまるっきり関心ないし、弟子たちもまるっきり関心ないでしょ。それで、みんな「死」に向かっている。ズーアカンプも――言ってみれば日本なら岩波書店みたいなところですけど――社長が替わって、このままでは「大塚家具」みたいになりかねない……みたいなことが言われてて、ズーアカンプのあの分厚いシリーズだって、なくなる可能性だってある。 岸 それは要
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