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ブックマーク / technique.hateblo.jp (3)

  • (4) 差別と批判の見分け方 - Freezing Point

    連続エントリ: 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」 第4回 「差別と批判の見分け方」(今回) 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」 【承前】  3回にわたってエントリしてきましたが、今回でようやく核心です。 批判的な議論をするとき、それが「意図せざる差別」なのか、それともフェアな批判なのか、よくわかりません。 この違いを明らかにしておかないと、 「差別される側のやってることは、誰も批判できない」 「被差別部落のことは、論じちゃいけないのか」 になって、みんなが萎縮してしまいます。 私の提案するポイントは、《名詞か、動詞か》 という一点だけです。 (1)《名詞形カテゴリ》 に還元していれば差別。 相手をほめる場合でも、あるいは自分についてでも、《名詞形カテ

    (4) 差別と批判の見分け方 - Freezing Point
    FFF
    FFF 2012/11/03
  • Freezing Point 「時をかける少女」観てきました。

    一人で「109シネマズHAT神戸」へ。 18時からの上映で、観客は7〜8人。 病んだ人間が登場せず、あまりにさわやかで、正直 救いがなかった。 帰り道、ひどく落ち込んでしまう。 僕は、自分に思春期心性が残っているのではないかと気になっているのだが、映画に登場する「2006年の高校生群像」は、僕の自意識がいくら抵抗してもどうしようもなく「もうずっと下の世代」で、それが単なる反発の対象ではなく、「できれば自分もこうでありたかった」姿だけに、「もうお前にはこんな時代は来ないんだよ」 「どんなに長生きしても、もう無理なんだ」 「あとは老いの時間を楽しむしかない」――そういう事実を突きつける、冷酷なイニシエーションになった。 僕は『耳をすませば [DVD]』と似た、「あり得ない青春」を描いた残酷さ*1を感じたんだけど、ネット上の声を見ると、ものすごく評判がいい・・・ *1:【参照】 自分に生じている

    Freezing Point 「時をかける少女」観てきました。
    FFF
    FFF 2006/10/04
    「病んだ人間が登場せず、あまりにさわやかで、正直 救いがなかった。」…高瀬君じゃだめなのか
  • Freezing Point - 「異様に自由」(traumatic freedom)

    ひきこもり当事者の熱意が、心情主義(「努力」「気合」「一生懸命」)*1になるのはまずい*2。 ほぼ間違いなく長続きしない。 「スキャンダラスな過剰性(反復強迫)」の社会的措定でなければ。 心情主義では、当事者側が自他を「説教する」ことになってしまう。 それでは「社会的なもの」=「想像的なもの」でしかなく、お互いに縛り合うことでしかない。 ▼当事者界隈の人間関係が、ひどく「想像的(鏡像的)になりやすい件について。 ▼ニートやフリーターに「説教する」のは論外としても*3、「構造的排除だ」という言説も、いまだ「順応」ロジックでしかないのではないか。 属性として「ある社会的スティグマを得ている」ということのみでなく、「異様に興味がある」*4という反復的な過剰性もあるのではないか【「属性当事者である」ことは、社会的な過剰性?】。 ▼支援を考える際、当事者を「抱擁」するタイプは、属性を帯びた「存在とし

    Freezing Point - 「異様に自由」(traumatic freedom)
    FFF
    FFF 2006/01/19
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