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ブックマーク / onoya.hatenablog.com (39)

  • 映画『ラースと、その彼女』 - onoya's blog

    これについては、長く書かなくてはならない。 近日中にでも、少女論・人形論をまとめたい気分だ。 渋谷シネクイントで見る。設定そのものがコメディ的であるがゆえに、様々な読み取られ方がしそうな映画である。『キサラギ』もそうだったが、見る者の立場によって見方は相当に変わってしまうだろう。登場人物の誰に感情移入できるのかで、笑い方、泣き方は変わる。 あらすじ:アメリカ中西部の小さな町に暮らすラースは、優しくて純粋な青年で町の人気者だが、ずっと彼女がいないために兄のガス、義姉カリンらは心配していた。そんなある日、ラースが「彼女を紹介する」と兄夫婦のもとにやってくる。しかしラースが連れてきたのは、ビアンカと名づけられた等身大のリアルドールだった。兄夫婦を始め、街の人たちは驚きながらも、ラースを傷つけないようにビアンカを受け入れようとするが…。(goo映画より) ネタバレをするが、最終的に、ラースは職場の

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    Imamu
    Imamu 2008/12/25
    「これは造花だからいつまでも枯れないよ」「アイドルを愛したら、アイドルは死ぬのではないか」
  • 場のルールをどのように形成すべきなのか(1) - onoya's blog

    以前の「場のルールはどのように形成されるのか(3)」(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080807/1218128487)は、いろいろ思惑があって書いたものだが、内容としてはやはり不備があった。 神宮花火大会におけるベリキューヲタのはっちゃけぶりに関して、僕はヲタの立場から徹底してヲタの立場を擁護した。が、http://kyoto-edu.bne.jp/~althusser/nacci/ の8/13〜14で極めて正当に批判されているように、場のルールを運営者に委ねることによって理論的に責任転嫁を図ることであったり、ヲタ対一般という構図における非対称性を考えた時、実質上ヲタの居直りでしかありえないような言説を著してしまったことには問題があったと思う。とは言え、それであってもなおやはり、ヲタという立場から言葉を紡ぐ時、前回のエントリに意義はあったのだととりあえず言い

    場のルールをどのように形成すべきなのか(1) - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/08/26
    『実際、ヲタはその応援スタイルにおいて、はじめからアイドルを死に近接させているようなものだ』『ライブ中にアイドルの口から、小さい女の子にも見えるように、みんなずっと座ってください、と言われたら』
  • ガチの空間から生まれる倫理の可能性 - onoya's blog

    お台場冒険王ファイナル・フットサル「Gatas CUP 2nd Round」 シンデレラがヲタ向けではないので、迷った挙げ句ガッタスを見にいく。 しかしながら、ガッタスも、どうなんだ、これはヲタの空間なのか、どうなのか、と戸惑った。 それは、ネタ化、メタ化できない、という意味でだ。 今年になって何度か書いているので繰り返しになるが、ライブは彼女達自身が作品(虚構)となる場だから、彼女達はニックネームで呼ばれ、彼女達が「何であるか」が問題となる。極論すれば、パフォーマンスが悪くても、彼女たちがいさえすればよいという側面もある。「アイドルである」という点さえ守られれば、「何をしたか」はどうでもよい、というか、何か失敗したらそれもかわいい、という点で、様々な解釈可能性に開かれている。そういう意味で、メタ化できる。要は評価基準が統一されていないからいろいろな楽しみ方があるということだ。 一方、ガッ

    ガチの空間から生まれる倫理の可能性 - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/08/11
    『ガッタスって、Perfumeのとっている戦術に近いのではないかと思う』『「作品」として虚構的・記号的に「あり」』/『「存在」として現実的・身体的に「いる」』
  • 2.アイドルを信じるとはどういうことか - onoya's blog

    先日の、「1.誰がアイドルを信じているのか」の続きです。 「信じる」という言葉は不思議だ。「信じている自分」を意識した途端に、その信じる対象の不確かさに思いを馳せている。以前新宗教の信者の方に、「宗教の真理を「信じている」じゃなくて、「知っている」と言うべきではないのか」と問うたことがあるが(それへの返答はどうだったか忘れた)、「信じている」という言葉を使うのは不確かだけどあえてそう思う、ということにおいて、信じていない。信じている状態の時に、信じているという言葉は使えないはずだ。 一方それでも、その「信じる」という言明によって、あるいは信じようとするその精神の志向性の強さによって、信じるという行為が成立する余地がなお存在するのではないかという気もする。 「アイドルを信じる」という言明をする場合、まずそのアイドルが括弧の中に入っている。「アイドルを信じる」とは、「自分がそのアイドルをこうい

    2.アイドルを信じるとはどういうことか - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/06/11
    (認知的不協和)【「あなたをそのままで認めてあげます」商品/「本当のあなたはこうです」商品】【俺は○○を信じるよ!/俺は○○の生き方を信じるよ!】
  • 場のルールはどのように形成されるのか(2) - onoya's blog

    なんだかんだ他のことを書いていたので、℃-uteイベ品川を1週間遅れで振り返る。 仕事が終わってギリギリ間に合わせる、ということを2週連続でやってしまった。 ℃-uteヲタとして感想を述べるならば、最高だった、という一言で十分だ。最近の℃-ute現場では、℃-uteと自分、少なくともどっちかは泣いている気がする。 握手会は、例によって、なっきぃに「頑張れ!」と言ってもらうプレイ。なっきぃのために頑張ります。 さて、「場のルールがどのように形成されるか」ということを先日考えたのだったが、具体的な事象としての「サイリウム祭」等を今日は考える。(ヲタじゃない方はキーワードの「サイリウム企画」の説明をお読みください。) Ⅰ.ヲタがルールを作る サイリウム祭の是非については昔から考えてきた。簡単に言えば、「タンポポ祭」の奇跡は、ヲタの無償の愛の表現であったが、それが次第にヲタの自己満足になってきたの

    場のルールはどのように形成されるのか(2) - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/06/02
    「イントロのMIXは僕にとってはニコ動のコメントみたいだ」笑った。アイドルオタクのクネクネとニコ動の疑似同期コミュの類似。アイマス動画とアイドルコンサートの比較検証が必要なのかも。
  • ヲタ芸再考(4) - onoya's blog

    4.ヲタ芸の死 ハロプロの現場である程度確立したヲタ芸の型は、主に秋葉原で活動するようなマイナーなアイドルに対する応援の文化としていつの間にか定着したらしい。 気がつけば、昨年、今年と、メディアで取り上げられるヲタ芸というものが、もはやハロプロとは何の関係もない現場におけるものになっている。フジ深夜「コンバット」における「オバ芸」にしても、NHK教育で2007年5月に放送された「一期一会 キミにききたい!」にしても、僕からすればなんだかずいぶんヲタ芸が遠いものになったな、という印象。 昨年4月には「ピュアロマンス」という、「ヲタ芸を世に広めよう!」というコンセプトのアイドルまでデビューしている(9月に解散)。(参照 ⇒ http://www.youtube.com/watch?v=oupZqTqjZyQ)映像を見てもらえば分かるけれど、こんなマニュアル化された「ヲタ芸」は、もう死んでいるの

    ヲタ芸再考(4) - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/05/29
    「ヲタ芸は死んだ」
  • ヲタ芸再考(3) - onoya's blog

    3.ヲタ芸の衰退 ヲタ芸がハロプロの現場において見られなくなるのは2005年だったか。僕は2005年10月16日の相模大野の後藤真希のコンサートで、はっきりとヲタ芸が打たれなくなっていることを感じた。今もって、僕はハロプロ現場におけるヲタ芸の衰退の理由をうまくつかめないでいる。ただ、原因となりそうなことがいくつか思い当たる。 ①マナー意識 当然のことながらヲタ芸は常にマナーという観点から非難の対象だった。OADもロマンスも隣の人にひじが当たる危険な技だ。隣がヲタ芸師だとたまったものではない。僕も打つときはヤフオクで通路席を取るという申し訳程度の配慮はしたが、そもそも、隣の席でなくても目障りだ、おまえの狂喜乱舞を見に来たわけではない、と言われるとどうしようもないのだ。いずれにしても、ライブ会場内でのヲタ芸は相対的に減ってくる。一方、2005年以降でも、ライブ会場ではないところでのヲタ芸は激し

    ヲタ芸再考(3) - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/05/28
    (ヲタ芸問題)『こうした中で、ヲタ芸はハロプロの中で比較的マイナーなグループのイベント会場で行われるようになる』なるほど。
  • ヲタ芸再考(2) - onoya's blog

    2.ヲタ芸の隆盛 さて、基的には推しではない演者のところでするものだったヲタ芸(主にOADやロマンス)は、2002〜2004を流行のピークとしたように思う。 2001年夏にコンサートに初めて参加した僕の記憶では、はじめはPPPHくらいしか統一性のある動きはなかったように思う。そこから年を経るごとにOADやロマンスは次第に現場で広まっていった。 そして、2003年初頭(たぶん2月11日)のテレビ東京の音楽番組「MUSIX!」にて、藤美貴のよみうりランドでのイベントの映像が流れ、「マワリ」をするヲタが晒された。スタジオで矢口真里らが「ステージを見てないんですよ」と「マワリスト」を笑う映像が放送されたことによって、ヲタ芸はアイドルのお墨付きを得たのだ。基的にヲタ芸は「指差されて笑われる」ことを志向している。アイドルに笑われることはヲタにとって至高の喜びであっただろう。この放送がゴーサインと

    ヲタ芸再考(2) - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/05/28
    (ヲタ芸問題)『ヲタ芸は「指差されて笑われる」ことを志向している』ほんと「かまってチャン」なんだよね。コール-レスポンス求める行為も。
  • ヲタ芸再考 - onoya's blog

    前回のエントリを引き継いで、ヲタ芸について考える。過去2年くらいで書いてきたこともふまえて。 ちょっと仕事まで時間がないから途中まで書きます。 1.ヲタ芸の発生 ヲタ芸は広義のものとしてはPPPHも含むとは思うが、批判の対象になるヲタ芸はOAD・ロマンス・マワリ・MIX等になってくると思う。それらが一体どのように発生したのか。おそらく(2000〜2003あたりの)ハロ紺の存在が大きかったのだと考える。 OAD・ロマンス・マワリを現在の形態に完成させた・普及させたのはハロヲタだろうと思う。言うまでもなく、これらのヲタ芸はステージの演者を見ない志向性がある。ヲタ芸をする者はそれに自覚的である。では、なぜわざわざコンサートに来てヲタ芸をするのか、それは不毛ではないのか。そうではない。なぜなら、ハロ紺(ハロープロジェクト総出演のライブ)では、特に好きでもないメンバーが多数出演するため、正直言えばス

    ヲタ芸再考 - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/05/24
    (ヲタ芸問題)(2000~2003あたりの)ハロ紺//『だからヲタ芸にはもともと、見たくない演者の時にやる、という、「見ない」という志向性が始めから含まれている』
  • 場のルールはどのように形成されるのか - onoya's blog

    MELON GREETING・渋谷O-EAST オールスタンディングは嫌なのだが、たまたま週休でBuono!も出るので見に行く。 渋谷O-EASTなんてところは初めてだ。渋谷のそこらへんはラブホばっかりだが、土地がデコボコしていたり猥雑としていて、オシャレ感とは全く違う毒が感じられて、大通り沿いのいい子ぶりよりは居心地がよい。 到着したら丁度整理番号付近を呼んでいたのですぐ入る。中は蒸し暑い。結構な密度なのに、「前に詰めてください」と言われる。 メロン記念日の曲がよく分からなくなっていた。僕のメロン記念日は2年前くらいから止まってしまっている。 なっきぃがいないので、比較的ライブ中全体をゆったりと見る感じになる、と言っても1メートル先では人がピンボールのようにはじけ飛んでいるのだが。 Buono!の時の狂乱は予想通りすさまじい。押し合いへし合いど突き合いでこける者ありのしかかる者あり。天国

    場のルールはどのように形成されるのか - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/05/21
    「2003年にハロの現場で隆盛を迎えたヲタ芸は~場のルールがその場にいる者達によって決定、展開していく様は興味深い」「そもそも、どういったことが「ルールを守る」ことなのか自明でない」
  • ケータイ小説「過誤・愛」 - onoya's blog

    加護亜依のインタビュー2と3を見る。 「弱い人間」「弱い人間」と加護が繰り返す。その言葉は「人間は弱いものだ」という普遍的真理として受け取ろうと思う。「加護亜依は弱い人間だったので二度も過ちを犯しました。」そんな物語を消費して平気な面している人間にはもちろんなりたくないし、そんなに辛いことがあったのにまた頑張ろうとしている、応援しよう!というのも何か違うような。 「弱い人間」「弱い人間」と加護はまた自分を追い詰める。そして多分過誤を繰り返すのだ。僕はバッドエンドしか思いつかない。このインタビューが織り成す物語の収まりどころが加護の死にしかないような気がしてとてもこわいのだ。こうして2年ぶりに語り始めさえすればそれが「真実」であるかのような悲劇の物語を僕は目にしたくない。始めから僕はアイドルの語る言葉を信じちゃいない。 まとまりがつかないが、結局僕は、①アイドルという職業の成り立ちがたさと、

    ケータイ小説「過誤・愛」 - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/04/10
    (リストカット→ネタ化の防波堤としてのガチ)『「加護亜依」というケータイ小説めいたものがネットで流されている』『「アイドルをしている人間」=「アイドル現象の総体」という勘違いを誰もがしないこと、である』
  • ③ジュニアアイドルしほの涼 - onoya's blog

    先週分、Gyao「生やぐち」を見る。いい番組だなこれ。 ジュニアアイドルしほの涼が普通にしゃべっているところを初めて見た。 芸歴の長いしほの涼はよくしゃべる。僕のイメージではオタク的な女性は概して声が低い。しほの涼もオタク的な雰囲気を醸していると思う。番組を見て改めて思うのは、もちろんしほの涼はバカではなく、自覚的にアイドルを演じていること。メタ的に自分を捉える視線を確保して、他のアイドルと並べて評価もできるし、逆に他のアイドルに対してもオタク的視線を投げかけることができる。そこには社交辞令もあるのだろうが、かわいいものが好き、という趣味も見てとれる。ハロプロエッグ能登有沙(のっち)のブログにおいても表明されるような「かわいい女の子」が好きという趣味。 基的に「丈の足りていない」衣装で見せパンを存分に見せつけるDVDを何も知らない振りして撮られているのではなく、どうですか、こういうのが萌

    ③ジュニアアイドルしほの涼 - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/03/12
    「アイドルの芸人化-芸人のアイドル化」ベタブリッコ→空気読めるアイドル(アイドルなんて「痛い」が「あえて」というパフォーマンスによる免責)。しほの涼や仲村みうの自覚(若い少女は価値がある社会)の先は光/闇
  • ②女性アスリート・四元奈生美 - onoya's blog

    雑誌「Number」が「女子力。」という特集を組んでいる。 女子アスリートのアイドル化、という問題は興味深い。茂木健一郎・・生島淳・辛酸なめ子の鼎談を拾いつつ、この問題についてちょっと考える。 そもそもなぜ女子アスリートがアイドル化するかというと、アスリートには「ストイックでピュアなイメージがある。『練習漬けで彼氏をつくるヒマはないのでは?』という妄想をする余地がある」(辛酸)からだ。もともとアイドルが担っていた役割をアスリートが受け継ぐようになったということ。 2つの側面が少なくともあるように思われる。ひとつは情報化社会の抗えない側面としての、表層的消費(「今は、実績がない選手でも、ルックスがよければ注目を集める、成立しちゃう時代」(生島))。深く物語として消費する、というよりは、浅く、または情報を断片的につまみいするような消費。(アスリートのアイドル化) もうひとつは、疑心暗鬼の状態

    ②女性アスリート・四元奈生美 - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/03/10
    アスリートのアイドル化はメディアへの露出の多さという点と「スポーツは万人に関心があるものだ」という信仰が絡んでいる気がしている。『表層的消費(ルックス)/スポーツ=真剣』
  • ①AKB48「悪魔の握手会」 - onoya's blog

    話題のAKB48「悪魔の握手会」動画を今さら見る。 これが僕にとって不快なのは、AKB48がファンをバカにしている構図だからではない。 AKBヲタはAKB48というアイドル現象の一部なのだから、それが自虐と言われようがAKBヲタはそれすらも内輪ネタとして消費するだろう。それについてこれないヲタはもはや外部であって、要はAKBは外部からの批判を内部を強化するためのネタとして利用する、悪いたとえをするなら終末系の宗教の構造に近い。もちろんそういう意味でシステムとして不安定であるということは問題だと思うが、問題だと思う人間はヲタではないからAKBというアイドルシステムにとっては問題ではないのである。 そんなことより僕をイラつかせるのは、こうして握手会の「裏」を見せる動画が、結局のところハロプロを相対化してしまうからである。(実際AKBとハローは共通する部分が多いからこそ相対化される。握手会にして

    ①AKB48「悪魔の握手会」 - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2008/03/05
    『「自分だけは気づいている」方式』『アイドルばかりを信じてはいけないものの象徴のように語る人は、自分もまたペルソナをかぶって演技して生きているということにすら気づいていないのだろうか』
  • モーニング娘。人気 - onoya's blog

    おとといニッポン放送のラジオをラーメン屋で聞いていたら、「女性アイドルグループと言えば?」のアンケート結果のトップが「モーニング娘。」だった。当たり前だ。さて。 「モー娘。」は終わった TV視聴率なんと「0.8%」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080118-00000002-jct-ent まあ、確かに、僕ももう娘。ヲタではないけれども、どうしても、こういう安易で悪意な記事に怒りを禁じえない。 どういった勢力がこういった記事を書かせるのか知る由もないが、まずはマスメディアを基準としてアイドルの人気を判断していくことにどれだけの妥当性があるのか、とベタに反論したくもなる。そもそも娘。に原因を帰することの出来ない「ハロモニ」という番組の極限のつまらなさがあって、さらにテレビからネット動画やDVDへ、という消費されるメイン媒体の変化がある。単純に言って

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    Imamu
    Imamu 2008/01/20
    『「モー娘。」の名を出し、ヲタを笑う「一般人」は、「モー娘。」という、流行における過去の名称に依存している点で、実は過去の流行に染まっていた自分を笑う構図にしかなっていない』
  • 音楽戦士「うちのアーティストを宣伝させてよ PRタイム争奪!クイズバトル!!」 - onoya's blog

    ℃-uteの宣伝をするために中澤姐さんと美勇伝の岡田・三好が出てくるという「事情」も気になるけれども、AKB48も同時に出演していて、結構おいしいところを持っていったのが気になる。ただこうしたアイドルによるクイズバトルが、珍解答こそがバラエティにおける正解、のようになってしまうのはどうかと思った。珍解答では明らかにAKB48の勝ちなのだが、それって安易なバラエティだなあという思いもある。最近の娘。と「うたばん」の関係でもそうなのだが、MCがアイドルのことをよっぽど好きか、知識を持っているかしない限り、アイドルの魅力を伝えるのは難しい。じゃあクイズで珍解答、というのはハズレは無いにしても、創造性のない番組作りではないかなあ。そうやってバカな(だけど容貌と肉体だけは立派な)アイドルというイメージづけをすることは、結局女性アイドルというものを上から下目線で見るもの、と規定してしまう危険があるし、

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    Imamu
    Imamu 2008/01/06
    クイズ珍解答→「女性アイドルというものを上から下目線で見るもの」となる危険=ヘキサゴンⅡのスザンヌ・里田まい・木下優樹菜問題。バラドルが容姿の良いお笑い芸人という形にならざるを得ないことについて
  • アイドル惑星 - onoya's blog

    昨日のメロン記念日のライブ中にアイドルってなんだっけってまたいつものようにふわふわ考えていた。 僕が結局Perfumeを好きになりきれないのは、宇多丸氏が言うようにアイドル最後の希望とかいう語られ方がされていながら、結局擁護する言説がアイドルではない要素を扱っている、というちぐはぐさにあるように思える。僕はそうした典型例としてオカルト雑誌「月刊ムー」に載っている広告を思い浮かべてしまうのだ。例えば「幸福のペンダント」みたいな商品があったとして、それの権威付けのために結局は科学に依拠してしまう。どっかの聞いたこともない大学の大先生が科学的根拠に基づいて商品の効能を説明してくれるのだが、その説明が途中から科学を超越した世界からのものにずれ込んでいくことによってペンダントの権威付けを無理やりに行う。 これというのはアイドル語り一般における難問としてあるように思う。アイドルそのものを語れないから、

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    Imamu
    Imamu 2007/12/25
    「記号性・高-間接性/身体性・高-直接性」軸「権威・高/権威・低」軸「非人間的/人間的」軸「技能的-人格的/素質・天然-非人格的」軸
  • 紅白というメディアとハロプロ - onoya's blog

    正直、最近紅白を見る気がしない。最近の紅白に関しては、むしろハロプロがどんな技を使って出場するかという事前の動きの方に関心がある。特にここ3年くらいは、人気が落ちたといわれる中で抱き合わせ出場になっており、じゃあ今年は、ということである。AKBやらしょこたんやらの出場がささやかれる中で、別に僕個人の思いとしては紅白に出なくたっていいじゃないかとも思うのだが、腐っても鯛じゃないけど、やっぱり紅白ってのは一つのメジャーである指標ではあって、多くの歌で勝負している人たちにとって大事なものなんだろう。 いい機会なので、これまでのハロプロの紅白出場の歴史を振り返る。以下がそれである。 ハロプロ紅白出場歴 1998 モーニング娘。(初) 抱いてHOLD ON ME! 1999 モーニング娘。(2) LOVEマシーン 2000 モーニング娘。(3) ハッピーサマーウェディング大晦日スペシャル 2001

    紅白というメディアとハロプロ - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2007/12/05
    「テレビで流すほどでないどうでもいい動画」→「ヲタにとってはいい物語供給源」
  • ハロヲタの僕がPerfumeを観る。 - onoya's blog

    PerfumePerfume 〜SEVENTH HEAVEN イイ気分♪〜」 LIQUIDROOM リキッドルームに着いたら、予想よりも客層が違った。なんとなくごつい人が多い気がした、ハローの現場に比べて。 2Fでごった返して待っていたら、いつの間にか番号順に呼び出しが始まっていた。僕はと言えば700番台だから、ゆったり待ってから入場。人がいっぱいだが、押し合いへし合いというほどでもない。ライブ始まったらどうなるんだろうと思う。 Perfumeにおける身体性って何?Perfumeってアイドルなのか?ってことを確かめたい。もちろん、曲が好きでなけりゃ来ないのだが。 20分ほどおしてライブ開演。暗くなったら一気に前に圧力がかかるが、モッシュする領域は限られていて、周辺部は比較的穏やかに見ていられる。いろんな観客、いろんな楽しみ方。 「コンピュータードライビング」でMIXとPPPHをしているフ

    ハロヲタの僕がPerfumeを観る。 - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2007/11/09
    「歌手・楽曲」/「性的に欲望されにくい」/「MC」
  • 「しゅごキャラ!」を読む少女 - onoya's blog

    「キャラ化するニッポン」 (講談社現代新書)は読む気がしない。 その代わり、この前「しゅごキャラ!」をネットカフェで4巻まで読み切る。 しゅごキャラはジョジョで言えばスタンドみたいなもので、普通の人には見えない。 なりたい自分が守護霊みたいな感じで具現化したもの。少女マンガらしく、しゅごキャラの存在と思春期の内面性が絡んで描かれる。そこに見えるように思われる矛盾。 「クールで強くてかっこいい イケてると言われていても ほんとはそんなでもないし フツーに女の子だもん」という側面、つまり素直なありのままの自分。 だけども、「なりたいあたし」が具現化したしゅごキャラと「キャラなり」するのは明らかに変身行為。 このマンガでは(現実でもそうなのだが)、自分の状態を3つに分類できる。まずは「周りからそう思われているところの自分」(=クールで強くてかっこいい)。そして、「自分がこうだと思っているところの

    「しゅごキャラ!」を読む少女 - onoya's blog
    Imamu
    Imamu 2007/10/12
    「ホントのじぶん」『「現実の自分」も「理想の自分」もどっちも指示しうる言葉』『だからこのマンガは、確かに少女を応援するものではあるが、現実においてどう振舞うべきか、逆に迷わせるかもしれない』