要するにパソコンのパラダムシフトと、ITの次にくる基幹産業の話。 転換点は2015年ごろだそうな。そこで日本がどういう役割でいるかは、予想というよりも「エール」に近い。梅田望夫は胡散臭いが安易な悲観論も御免だね、という方に。 グローバルスタンダード(死語)のお題目で、米国型経営や成果主義が日本に広がっているなか、著者は以下の切り口で問題点を挙げている。 切り口1 : 内部留保の軽視 切り口2 : ROEへの固執 切り口1。資金調達の方法として、以下のルートがある。イノベーションを起こすための研究開発資金なら、1と2はあまりにもチャレンジングなので、普通3だろう。過去の蓄えでもって未来の食い扶持を創出するわけ。 1. 金融機関から借金 2. 株主調達 3. 内部留保 米国のベンチャーキャピタルは肥大化しているという。リスクを取って新しい技術を育てるのではなく、「買う」わけだ。そのため、調達ル
はしごたんへ。セックスは、できません。 - 世界のはて 見解は先の記事の通り。 もし今から、セックス無しで会ったとしても、メル友になったとしても、「はしごたんにセックスの期待を持たせるだけで、それに応えられない僕」という図式は続くでしょう。であれば、僕ははしごたんと、これ以上関わるべきではない。僕は、はしごたんとの個人的なやりとりを、ブクマやブログも含め、すべて絶つことに決めました。 思うことが少しあるので、id:Masao_hateさんに対して書く。「大きな御世話」であるけれども。 一般論として、かつ経験則から言えることであるけれども。極言するなら、私的な関係は、公的な責任感とはかかわりない。広義のビジネスではない、極言を重ねるなら、好き嫌いや相性の問題であるから。「ウマが合う」なら機縁であるし、合い続けるなら僥倖。「責任」概念のかかわることではない。情は、善悪や倫理の観念を余裕で飛び越
科学の優越性が一般に認められている現代社会では、科学の成果の全面的否定が主張されることはあまりない。科学的認識を通じてしか真理が獲得できないわけではないとか、科学的認識は限界づけられたものであるとか、科学的認識とイデオロギー的認識との間に本質的差異があるわけではないという形で、科学的活動とそれ以外の知的活動との同列化、相対化が図られることが多い。 本稿ではそうした考え方に対して、<科学的認識の中に事実として存在する相対性>と、<相対主義>を区別するという立場から相対主義的科学観に対する批判を展開したい。というのも相対主義的科学観をめぐる賛成論の中にも反対論の中にも、<相対性の事実>と<相対主義>との混同が数多く見受けられるからである。相対主義者が主張するように科学的認識の中に相対性が存在することは確かに否定できない事実である。しかし<相対性の事実>を認めることは<相対主義>を認めることでは
「沖縄集団自決」において「軍命令」があったか、なかったかを争う大江健三郎の『沖縄ノート』の記述をめぐる名誉毀損裁判に、訴えられている側(被告)の大江健三郎が大阪地裁に出廷し、証言したようであるが、日頃の僕の「保守反動的」(笑)な言論からは意外かも知れないが、僕は、「沖縄集団自決裁判」に関しては、多くの留保をつけた上でだが、本質的には大江健三郎を擁護する。大江健三郎は法廷に出廷することを拒否していたようだが、証人喚問ということで、仕方なく出廷し、証言することになったようである。大江健三郎を嫌う一部の保守派陣営は、「大江健三郎を法廷へ引き摺りだした・・・」ことを重視して、「大成功」だとでも言いたげに喝采を叫んでいるようだが、僕には、それは、無知無学な大衆のルサンチマンの叫びであり、ただ単に不謹慎に見えるだけだ。僕には、その拍手喝采する保守陣営の背後に曽野綾子や谷沢永一の顔が重なって見える。僕が
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