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1ヶ月前に書いたエントリがなぜか今になって急にホッテントリ入りした。 付いたブクマが罵詈雑言から中傷から賑やかで楽しかった。 いつもは自分が付ける側なので付けられると言うのは結構新鮮で嬉しいものだね。 ただ、改めて「はてなはひどい」と思った。 何の耐性も無い人がいきなり呪詛だらけのブクマコメを見たら間違いなく心に傷を負う。 呪詛を吐くような連中は元々「相手にダメージを与える事」を目的にしている。内容なんてどうだって良くて、叩いて相手にダメージを与える事で自分の心をすっきりさせている。 言わば「ネットいじめ」なんだよね。 はてな極めて陰湿な「ネットいじめ助長サービス」なんだよ。 日頃の生活のストレスを、はてなで呪詛を吐く事ですっきりとさせるためのサービス。 だから日頃からムシャクシャしている人にとってはてなはうってつけのサービスで、日々獲物を探してうろうろするようになってしまう。 それを一番
お笑いタレント陣内智則(35)と離婚した女優藤原紀香(37)が25日、滞在先のアフリカから帰国した。関西空港を経由して羽田に到着した紀香は、長旅の疲れや離婚の傷心を見せず、取材陣に笑顔であいさつ。「未来形で2人それぞれ頑張っていきます。どうかよろしくお願いします。応援してください」。再度結婚する気があるかを聞かれると「はいっ」。新たな恋を目指して、約2年ぶりとなるシングルライフのスタートを切った。 前日の陣内の会見で、離婚原因は陣内自身の浮気だったことが明かされたが、26日発売の女性誌「女性セブン」で、紀香と親交の深い風水建築デザイナー直居由美里さんが離婚への経緯を赤裸々に語っている。「紀香の了承を得た上」と取材に応じ、陣内が再三否定しているドメスティックバイオレンス(DV)についても明かしている。 2人がけんかをして、逆ギレした陣内が手を上げることも複数回あったという。昨年11月には
平川宗信「刑事法の基礎」に大変良い指摘があったので紹介したい。 刑事法の基礎 作者: 平川宗信出版社/メーカー: 有斐閣発売日: 2008/12メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 32回この商品を含むブログ (2件) を見る 「被害者の人権と加害者の人権」 マスコミ報道等では、「加害者の人権は守られているのに、被害者の人権は守られていない」などといわれる場合がある。しかし、これは誤解である。「加害の人権」がないのは当然であり、それゆえ「加害者の権利」もない。加害者は、正当防衛からは保護されないのであって、その限りでは法の保護を奪われている。被疑者・被告人には刑事手続き上の権利が認められるが、「被疑者・被告人」と「加害者」は同一ではない。被疑者・被告人には「無罪の推定」があって、有罪が確定するまでは「加害者ではない」と推定されるのである。被疑者・被告人の手続的権利を「加害者の人権」と
id:namikawamisaki 僕が好きなイチローさんの言葉は(WBC日本練習を見に来た人たちのことを)「お客様と呼びなさい」(とあるテレビ取材者に)。身の回りをとりまく人々の立場を理解し、意識し、気配りができる人だと思った。 2009/03/25 はてなブックマーク - namikawamisakiのブックマーク / 2009年3月25日 イチローの他者への顧慮というのは日本にいた頃からそうで、そうして、彼はやはりすこし変わった人だからなのか「誰にでも」伝えるという技術は当時は少なくともなかったようで、ファン、それも地元のファンにはよく通じても、そうでない人には通じない発言というのが多かった。もう少し踏み込んでいうと、彼の顧慮というのには、野球選手としてのというよりは、神戸という街に住んで野球を職業にしているひとりの人間という視点からのものが多々あって、それは野球中継の中ではときに異
歌は心だと思う。 どんなに歌が好きな人でも。どんなに表現力がある人でも。どんなに歌が上手いって沢山の人に言われる人でも。 どんなに綺麗な声をしている人でも。 それでも、その人の心が迷いを感じていたり、悩みがあったり、苦しいことがあったりすると、きっとその人の歌は誰かの心に響かないんじゃないか。 彼女の歌から感じていた最近の、いや、もっと前から感じ始めていた優しさや温かさみたいなものは、 彼女が日々感じていた幸せからもたらされていたものなんだと思う。 そんな話を誰かとしたことも昔あったよね。 いつ頃からだったか、彼女の姿から何かが消えたような気がした。消えたといっても悪い意味ではなくって、 何か彼女を押えつけていたものがなくなったかのような、そんな感じ。 それからの彼女はとても楽しそうで。いつもステージの上で色々な事を本当に心から楽しんでいた。 歌を歌うことも、踊ることも、誰かと話すことも、
今ここで手を組めば、この人を助けることができる。そのような決定的な場面においてであるならば、悪魔とだって手を組むかもしれない。ただし、ほとんどの瞬間は、そのようなマンガみたいな決定的瞬間の遥か手前にあって、そのような地味な場面で考えられるべきことは別にある。 倫理が力を持つのが、倫理を語る者が腕力を持っているからであるならば、倫理など不要であり、ただ腕力だけがあればいい。そうではなく、倫理が、倫理であるがゆえの力を持つとすれば、それは何に由来するのか。仮にそんな力があるとすれば、それはそこで語られる倫理の一貫性に由来するはずである。倫理が、その恥じ入らせる力によって力となるためには、一貫性がなければならない。一貫性を欠いた倫理は、既に倫理としての力を欠いており、ただの飾りである。その一貫性を欠いた倫理要求が仮に受け入れられることがあるとしても、それは倫理として受け入れられたのではなく、ただ
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