紆余曲折して結局いまや再び「科学者の職業は真理の追究である」って言ってもいいんじゃないか、とわたしは思っている。「真理の追究」なんてこというと「まさか」という時代もありました。「科学者の職業は真理の追究である」って言うのってホントつらいというか恥ずかしいというか、アホですかバカですか、と穴に入りたくなるような気分になるけれど。 近代の文脈が見失われたらそもそも議論ってのは成り立たない。「まさか」は退行して「証拠見せろ」になるわけである。こうした状況はもう、あきれるほどあちらこちらで顕在化している。結局「真理の追究」、ベタがベタではなくなったので、普通に主張すべき内容になってしまったのである。研究の結果、かくかくしかじかなる結果でございました、と述べたときに「証拠見せろ」といわれてさんざん説明して「長すぎる、三行でわかるように」とかいわれたら、「大学で勉強しなおしてください」とでもしかいえな
「自明」にも「自然」にも賛同できにゃー。と本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない - 過ぎ去ろうとしない過去のブクマコメに書きましたにゃ。その理由を考えていたのだけれど。 1)「自明」と「自然」の区別はけっこう厄介 ナチの優生学は一種の科学史上至上主義であり、「自然の鉄則」の自明性に依拠していたということは重要な論点だと考えますにゃ。 2)「ジンケンは自明」では生命至上主義(vitalism)に対抗できない 特に、脳死や中絶などの生命倫理にからむと、ジンケンは自明だ、ではいろいろと困ったことがでてきますにゃ。特に、宗教を背景にした狂信的生命至上主義者がジンケンの自明性をふりまわすという事態があるのだにゃ。掲示板での中絶論争で、僕は実際にこの手のお方をだいぶ相手にしていますにゃ。 3)「ジンケンは自明」では所有権至上主義に対抗できない 私有財産の不可侵というのはジンケン概念として
にゃんか、ジンケンの話がどーだとかこーだとか。 はてなブックマーク - なんでこんな当たり前の話しなきゃいけないんだと思うけれども… - 過ぎ去ろうとしない過去 とか 「人権」っていつから信仰の対象になったんだっけ? - 想像力はベッドルームと路上から とか メタレベルにあるものは、その有用性において【ツールとして】使えばいいという話なのではにゃーかと。ジンケンとかカガクとか相対主義ってのがメタレベルにあるツールにゃんね。これらは、個々のニンゲンをシヤワセにしてくれる「意味」を生み出してくれるわけではにゃー。 正しいものに意味などない。 と、個にゃん的なメモとしてはここまで。 以下は、ジンケンつれづれ。 権力というのは、どのような権力であっても、構成員の権利を保全するためにこそその権力を行使することが認められるもの、というのがタテマエですにゃ。構成員の権利を保全しない・できない権力にはその
080917up あまみや・かりん北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!〜難民化する若者たち〜』(太田出版)など、著書多数。現在は新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々(プレカリアート)の問題に取り組み、取材、執筆、運動中。非正規雇用を考えるアソシエーション「PAFF」会員、フリーター全般労働組合賛助会員、フリーター問題を考えるNPO「POSSE」会員、心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、ニート・ひきこもり・不登校のための「小説アカデミー」顧問。「週刊金曜日」「BIG ISSUE」「群像」にてコラム連載。雨宮処凛公式サイトhttp://w
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