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ブックマーク / deepbluedragon.hatenadiary.com (10)

  • 言語の文脈的意味を考えるつぶやき - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    まとまりがなくて自信がない文章だけど面倒なので出しちゃう 言語行為論の哲学的貢献は、言語は記述に関係すべきという(道徳的説教と変わらない)哲学の傲慢を批判したことであり、その延長で言語と現実との関係はそれに関与する人間によってこそなされるとする主張だ。言語と現実との関係にも二つあって、オースティンが提示したのは言葉の記述役割を相対化する語用論的関係であって、文脈主義による意味論的関係とは分けないといけない。ところで、言語行為論は論理実証主義との対抗関係で成立しているが、言語行為論的な批判をそのまま日に持ってきて主張してもむなしいところがある。つまり、日では逆に言語と現実との関係が無責任であることの方が問題なのだ。言語行為論の普遍的意義は(歴史的意義とは別に)認めるべきだが、いい加減に特殊な文脈で意義を持つ輸入品をそのまま日で使おうとするような愚はやめてほしいと思う(日には記述至上主

    言語の文脈的意味を考えるつぶやき - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 日本の保守主義理解を考察する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    の保守主義理解は欧米と違っていておかしい。欧米の保守主義は、皆でいろいろとやりとりしながら地道に社会を改良していきましょう、と言う含意があるのに日ではそれがあまり見られない。ロマン主義と一緒にされたり、大衆社会批判と勘違いされたり、反近代主義にされたり、単なる反動と混同されたり、と奇妙なことになっている。 西洋の保守思想はフランス革命の悲惨な結末から生まれた考え方である。代表的な思想家は、バーク、トクヴィル、チェスタトン、T.S.エリオット、ハイエク、オークショットなどがいる。基的に一方的で急激な社会改造を嫌う特徴がある。実際に、その時代によってフランス革命批判や異端嗜好批判や全体主義批判などが保守思想では論じられてきた。その上で、議会活動などの地道な実践的活動が重視されることになる。しかし、日では保守主義がそういう理解をされているようにはあまり見えない。 日で保守主義論者とし

    日本の保守主義理解を考察する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • どうでもいい評論風の書き散らし - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    勝手にいろいろと前提にして説明を省いて書いているので、訳が分からなくともあなたのせいではありません 日で全体性を目指す教養的試みがあまりに見られないのはまずい…?? 歴史の不在と中間項の不在 現在の日の論議でよく見られるように思える特徴は、歴史の不在と中間項の不在だ。 日では(西洋か東洋かに限らず)歴史について語られること自体が少ない上に、たとえ語られていたとしても、物語化された歴史かあからさまに作られた歴史かのどらちかばかりが目立つ。まともな歴史的分析を目にすることはめったにない。全体性うんぬんなんて話をする以前に、まともな歴史への参照を訴える方が先じゃないのか。歴史抜きの全体性への言及に何の意義があるのかよく分からない。「今ここ」に縛られた思考から抜け出すのが全体性への言及の目的のはずじゃないのか。 未だに、大きな物語か小さい物語かなんて話をしている人がいるけど、そんな話はマルク

    どうでもいい評論風の書き散らし - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- 認知革命の意義とはなんだったのか

    現実観察から得た初期条件(周辺条件)をモデルに入力すると、一定の出力変数が得られて、それが現実観察から得られたデータに合致する場合に、モデルは「現実適合的」だと評価される。現実適合的なモデルは、現実の説明・予測・制御に用いることができる。 言うまでもなくモデルビルディンクは「真理の言葉」ではない。モデルは現実適合性という機能の高低によって──すなわち「機能の言葉」によって──、相対的に評価される。そこでは同一の説明力(という機能)を持つ競合的なモデルの存在が予め想定されている。 この説明力が、説明や予測の一意性──因果的決定──によって評価されるのが自然科学的な因果モデルだが、これに対しルーマンは、複雑な社会システムでは因果モデルの追求は不毛だとし、認識利得を機能的等価項目の開示に置く機能モデルを提唱したのだった。 社会学からの全体性の脱落に抗して、いま何が必要なのか【モデルビルディングと

    蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- 認知革命の意義とはなんだったのか
  • なぜアンケート調査は認知科学の研究にはならないのか? - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    アンケート調査は認知科学の研究にはなりえない。アンケート調査と言っても、企業がよくやる消費者に適当な質問に答えてもらうようなものというよりも、心理学や社会学での尺度(例えば好きから嫌いまでの間を5段階に分けてそこから選ぶようなタイプの質問の仕方)を用いた質問紙調査のような科学的調査のことをここでは指している。テレビや雑誌などでよく見かけるアンケート調査は標抽出(つまり聞いた相手が偏ってないか)などの問題をよく考慮することなくむやみに一般化することなどが多くて当てにならない。 しかし、学術的に行なわれるアンケート調査(むしろ質問紙調査と呼ぶ)の場合は、様々な問題が考慮されて、何が妥当と言えて何が言えないかが考慮されている。実際にはアンケート結果の(統計的)解釈は機械的に一義にできるわけじゃなくて、いろいろな解釈が可能なのだが、それはここでは問題にしない(このテーマを扱った著作は多い)。ここ

    なぜアンケート調査は認知科学の研究にはならないのか? - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
    Miki-Tea
    Miki-Tea 2008/06/16
    「認知革命がもたらした長所は、科学的な厳密さにあるのではなく、心的過程に迫る方法(とその多様性)にこそある」。なるほど。/経験行動を聞いてもその理由が全然分からなかったり、苦労した。
  • J.J.ギブソン「私たちは何によって見るのか」 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    常識では人はその目によって見るとされる。心理学では、違う、人はその脳によってのみ見るのだと言う。運動論者は、違う、筋肉が行動を起こしたときに(極端に言えば「その筋肉によって」)だけ人は見るのだと。これらの定式化のすべてには間違いはないのだろうか。 おそらく、観察者は心の道具である体の何かしらの器官や解剖学的部分によって見る、という考え方に誤りがある。代わりに、もし活動する視覚システムがあれば観察者は見ることが出来る、と言うべきだ。後者をこう定義する、(感覚入力の経路としてではない)情報抽出を探索し調節し活用するような知覚システムとして。 そうならば、観察のような働きは解剖学的に特定化できない--魂が体のどこかに居座っているとされるように、それは「居場所」を持っていない。有機体の異なる器官がその様々な機能に対して異なる貢献をする、機能が入れ子になっっているのだ。つまりは、体の器官の機能には代

    J.J.ギブソン「私たちは何によって見るのか」 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • アフォーダンス関連の翻訳と引用から - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    まずは、ジェイムス・ギブソンの主著の一部を自分で翻訳(これでも意訳気味)してみました。 まとめ 媒体、物質、表面、対象、場所、他の動物はある動物に対するアフォーダンスを持っている。それらは、利益や危害を与えたり、生や死を与えたりする。これこそがそれらが知覚される必要のある理由だ。 環境のもつ可能性とその動物の生活の仕方はいっしょで切り離すことはできない。環境には動物ができることが含まれており、生態学におけるニッチという概念にはその事実が反映されている。限界の範囲内において、人間種は環境のアフォーダンスを変えることが出来るが、それでもある状況の下にある生き物なのだ。 物の物体的特性に対して刺激の中の情報が存在し、さらに思うに環境の特性に関する情報が存在する。私たちが物事の意味を学ぶことが可能になる前に私たちは物事のもつ変化間の違いを見分けていなければならない、ということを導く原則は疑わしい。

    アフォーダンス関連の翻訳と引用から - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 因果論的な機能主義を説明する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    shokou5さんの質問に答えます。かなり大雑把な説明です。とはいえ、記事を書いたはいいけれど、はっきり言って分かりにくいです。理解できなくてもあまりがっくりされなくて平気です(こちらのせいです)。もちろん、私の理解が間違ってる場合もありますので、そこは各自のご判断でお願いします。 因果論的な機能主義の理論的側面 id:shokou5さんの疑問に関連させると、デヴィッド・ルイスの機能主義の定義が相応しいかもしれません。デヴィッド・ルイスは可能世界論で有名な哲学者で、可能世界論を用いて機能主義を定義しています。環境を固定させた上で、主体の状態を変化させたときにその主体がどのような反応をするかでその主体の心的状態を機能的に定義してみます。例えば、全ての環境を固定させた上でその主体の内的状態を変化させたときに、その環境下でその(特定の状態にある)人が目の前にあるケーキをべるかどうかを確かめると

    因果論的な機能主義を説明する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 日本の俗流クオリア論を撃破する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    はクオリアなる言葉が一般にも知られている奇妙な国だが、しかしその一般的なクオリア理解はもともとの哲学的なクオリア理解とはあまりに異なっていてとてもおかしい。日でクオリアなんて用語が流行ったのは、小泉旋風真っ只中のポピュリズム時代でのある脳文化人Mの活躍のせいなのだが、未だにその後遺症はあちこちに残っている。それを正すのがこの論考の表向きの目的だ*1。 もうひとつの目的は、心の哲学における機能主義を正しく理解してもらうことだ。今でも機能主義は心の哲学どころか認知科学でも主流の立場だ。日ではごく少数の例外を除くと心の哲学における機能主義がろくに受け入られておらず、まともな擁護どころかましな解説さえろくに見かけない。まともな解説も理解もされてないから、まともな批判がされているといえない。クオリア概念はもともと機能主義批判として現われたのだから、クオリア解説と機能主義解説をセットにするのは

    日本の俗流クオリア論を撃破する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 科学法則は真理の言葉か?(科学的精神としての実証主義入門) - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    には、未だに脳に関する用語が入っているだけで科学的だと思い込む人たちがいて困る。相手が医者だろうが学者だろうが、文章に脳用語を入れるだけで科学的になるわけがない。日では科学の源泉としての実証主義が全く理解されていない証拠だ。 実証主義の祖コントは、人間の知識を三つの段階に分けている。神学的段階、形而上学的段階、実証的段階。神学的段階では、物事の原因を神によって説明するのに対して、形而上学的段階では抽象概念によって説明する。しかし、神を諸々の抽象概念に置き換えただけでは、形而上学とは弱められた神学でしかない。だから、次の段階である実証的段階に進む必要が出てくる。実証的段階では、観察された現象を法則によって説明しようとする。宮台真司が、バカ左翼が執着するのは真理の言葉だとしているのはおそらく形而上学的段階で、それに対して機能の言葉としているのは実証的段階のことだ(ちなみにバカ右翼がいるの

    科学法則は真理の言葉か?(科学的精神としての実証主義入門) - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
    Miki-Tea
    Miki-Tea 2007/11/09
    実証主義のその先に、というか下位項として、生成理論みたいのがある感じか。ともあれ、コントの段階論は忘れていたので感謝。
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