まとまりがなくて自信がない文章だけど面倒なので出しちゃう 言語行為論の哲学的貢献は、言語は記述に関係すべきという(道徳的説教と変わらない)哲学の傲慢を批判したことであり、その延長で言語と現実との関係はそれに関与する人間によってこそなされるとする主張だ。言語と現実との関係にも二つあって、オースティンが提示したのは言葉の記述役割を相対化する語用論的関係であって、文脈主義による意味論的関係とは分けないといけない。ところで、言語行為論は論理実証主義との対抗関係で成立しているが、言語行為論的な批判をそのまま日本に持ってきて主張してもむなしいところがある。つまり、日本では逆に言語と現実との関係が無責任であることの方が問題なのだ。言語行為論の普遍的意義は(歴史的意義とは別に)認めるべきだが、いい加減に特殊な文脈で意義を持つ輸入品をそのまま日本で使おうとするような愚はやめてほしいと思う(日本には記述至上主