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経済学に関するMuichkineのブックマーク (66)

  • 終了してない(3) - shinichiroinaba's blog

    ここで問題としたいのは「そもそもGDPとは社会的選択の対象となるようなものか?」ということです。そもそもGDPはいったい何の指標であるのか? が大変気になっております。 ミクロ的な見方を徹底すれば、GDPとは結局、社会的選択の対象、評価と選択の対象となるべきものでさえないでしょう。それは単純に名目的な数字です。現実社会でならともかく、理想的な情報の流通がなされている世界を想定するならば、社会厚生関数には素直に「所得分配プロフィール」だのあるいは「寿命プロフィール」とか「識字プロフィール」を入れれば済む話でしょう。あるいは個別の財・サービスがどれくらい生産されるのか、を考えれば済む。 ぼくが気にしている「マクロ経済固有の水準」とは、そのような結果レベルのことではありません。「潜在GDP」とか「GDPギャップ」「失業率」とかいった数字の背後に隠れているもの、つまりは潜在的な生産力水準と、その稼

    終了してない(3) - shinichiroinaba's blog
  • 終了してない(2) - shinichiroinaba's blog

    承前http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080904/p2 それでは「こうした社会的選択理論の使いどころはどこであり、その前提は何か」について少し考えさせてください。 ここで社会的選択理論が考える、社会的な状態、更にはその基礎になっていると思しき、個人レベルでの厚生水準等々は、ロバート・ノージックが功利主義やジョン・ロールズの思考を批判していったところの「結果状態原理」なる形容に言い当てられているように、ある種の「結果」として考えるべきものでしょう。結果的に、どの程度のGDPが実現されたのか、どの程度の識字率が実現されたのか、乳幼児死亡率はどうなったのか、どのような(税引き後)所得分配が達成されたのか、更に細かく言えば、どの産業部門でどの程度の生産実績が上がったのか、どの湖の水質基準はどのような数値に終わったのか、等々が、評価され、選択の対象とさ

    終了してない(2) - shinichiroinaba's blog
  • 終了してない(1) - shinichiroinaba's blog

    http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080904/p1 論争はディベートにはならずに無秩序に広がりながらそれぞれに論点を深めたり増やしたりしていけばいいと思います。 まず、mojimoji氏も肯定的に触れている拙ブログへのoさんのコメントに従って、もう一度mojimoji氏の問題意識について復習します。 山形さんの「GDP 概念やその比較を否定するのは愚かなことだよ」という主張はもちろん、その通りなのだけど、Mojimojiさんの議論はGDP指標を否定するものではなく、単にGDP指標によっては比較不可能な社会的選択問題がある事を強調しているだけですから、これも議論が噛み合っていません。 GDP 概念が強力なツールである事は言うまでもないですが、それだけで事足りるのであれば、社会厚生関数についてのサミュエルソンたちのような議論が出てくる必要も無かったわけで、じゃ

    終了してない(1) - shinichiroinaba's blog
  • インフレ・ターゲット(4):約束だけならサルでも出来る - マーケットの馬車馬

    さて、前回、いわゆる「家の」インフレターゲット(イギリス他で採用されてたり、アメリカで採用すべきかどうかが議論されていたりするあれである)は日では使用不能である、と書いた。そして、「今」金融政策が出来ないのだから、代わりに「将来の」金融政策(利下げ)を約束することで、期待インフレ率上昇→今のインフレ率回復(景気回復!)を狙うという「もうひとつの」インフレターゲットがあるということも説明した。 今回はこの「もうひとつの」インフレターゲットについて少し詳しく説明したい。これについての理解がないと、「日銀が今までやってきた政策(量的緩和)が正しかったのかどうか」を判断できない。そうなると、量的緩和解除が正しかったのかどうかも判断できなくなってしまう。そんなわけで、当初はこのエントリーの前に速報的に量的緩和解除関連のエントリーを書こうと思っていたのだが、まずこのエントリーを先に書き上げてしまう

    インフレ・ターゲット(4):約束だけならサルでも出来る - マーケットの馬車馬
  • インフレ・ターゲット(3):デフレに使える政策・使えない政策 - マーケットの馬車馬

    困ったことになってきた。筆者の目算としては「量的緩和」解除は早くても4月で、それを前提にこのシリーズ物を書いていたのだが。前回でインフレターゲットの経済学的な議論を一通り網羅し、今回「もうひとつのインフレターゲット」を紹介し、次回でその「もうひとつのインフレターゲット」の中身を説明して第5回で今後日銀がどうすべきかを書く。その上で今日銀がやろうとしていることをちゃんと評価する、というのが当初の狙いだったのだが、各種報道が正しいならこの予定は完全に崩れたことになる(新聞の飛ばし記事には何度も煮え湯を飲まされているので、実際に解除されるかどうかは筆者は予想しないが)。 当はここで量的緩和解除に関するエントリーを書きたいところなのだが、そのためにはやはりゼロ金利下での金融政策とは何なのか、特に日銀が行ってきた当座預金残高ターゲットという量的緩和政策は何であったのか(政策の質は何であったのか、

    インフレ・ターゲット(3):デフレに使える政策・使えない政策 - マーケットの馬車馬
  • インフレ・ターゲット(2):中央銀行を「信じる」ということ - マーケットの馬車馬

    さて、前回は日銀はなぜ「物価の番人」と呼ばれるのか、そしてインフレを抑えるためには失業者を増やさなければならないというジレンマがあることを説明した。更に、期待インフレ率を直接コントロールできるなら、失業率を上げることなくインフレを抑えることが出来ること、しかし期待インフレ率のコントロールというのは簡単なことではないことを説明したところで終わったのだが、今日はその続きを。 なお、前回のコメント欄で日の「リフレ」関連のコメントを頂戴したが、今回のエントリーは「いかにインフレを抑えるか」が主題であって、「いかにしてデフレから脱出するか」は次回以降に説明することにしたい。その意味で、前回と今回のエントリーは今後の金融政策を議論するもので(もしこのまま景気が回復するなら、という条件付きだが)、次回以降のエントリーが今までの金融政策について議論するものだ、と言えるかもしれない。 日銀の「裏切り」 さ

    インフレ・ターゲット(2):中央銀行を「信じる」ということ - マーケットの馬車馬
  • インフレ・ターゲット(1):中央銀行の仕事と「期待」の仕組み - マーケットの馬車馬

    多くの読者が、そして筆者自身も既に忘れてしまっていることではあるが、このブログのメインコンテンツは金融政策ということになっている。それでブログ開設から半年ほどかけて量的緩和について色々と書いたのだが、金融政策関連の大ネタであるインフレターゲットについてはあまり書くつもりが無かった。 やはり人間というのはネガティブな動機に突き動かされる方がやる気が出るものであるらしい。筆者にとって「許容しがたい暴論」である量的緩和については、反論も悪口もいくらでも書ける。一昨年の20回シリーズでもまだ書き尽くしていないほどである。しかし、必ずしも賛成ではないが「議論としては分かる」インフレターゲットについては、色々書く気になるほど怨念(笑)が溜まっていなかった。そんなわけで、「この話はそのうち纏めたいなー」と思いつつも1年以上放置してきたのだが、1年も経つと色々と蓄積されるものがある。勘違いとか誤用とかが多

    インフレ・ターゲット(1):中央銀行の仕事と「期待」の仕組み - マーケットの馬車馬
  • 「疎外」「物象化」をめぐってあれこれ無秩序に - shinichiroinaba's blog

    考え方はいろいろあって、まず「マルクスの思想は現代経済学ゲーム理論と整合的である」という大前提から出発する。そうするとここで「だからマルクスも再読に堪える」という考え方も出てくれば、逆に「だったらマルクスイラネ」という考え方も出る。この違いはどちらが正しいか、という問題ではない。要はそれぞれの受け手の側での事情の違いである。マルクスを含めた「思想」によりなじみの深い人文系インテリにとって「だからマルクスも再読jに堪える」という結論には十分に意味がある。こうした層にとってはマルクスと併せ読むことによって、現代経済学ゲーム理論の理解がはかどる可能性があるからだ。 ただそれだけで済ますわけにもいかない。 山形の場合も「だったらマルクスイラネ」という結論は、何の気なしに出されているわけではない。マルクスには激烈な副作用があり、その副作用を勘案するならば、なくてすませられるなら敬して遠ざけるに越

  • Gendai_no_SuriKeizaigaku

    一橋の学問を考える会 [橋問叢書 第五十六号] 現代の数理経済学 一橋大学経済学部教授 山崎 昭 はじめに ただいま御紹介頂きました山崎でございます。きょうは、「現代の数理経済学」ということでお話しをさせて頂きます。 実はきょうのお話に先立ち一橋の学問を考える会の講演録を幾つかお送りして頂いております。例えば荒憲治郎先生のお話と山田雄三先生のお話、それに宮沢健一先生のお話の内容などを読ませて頂きました。その多くが戦前の一橋における学問体系め流れを中心にまとめられていますが、きょうは主として戦後の数理経済学という意味で現代の数理経済学について、次のような順番でお話しさせて項きたいと思います。 最初に、「数理経済学」ということで私たちは何を指すかを簡単にお話しし、次いで、一九四〇年代以降における数理経済学の発展過程、特にいかなる問題意識によりいかなるテーマが研究されてきたかに関し手短かにお話し

  • 分析的マルクス主義 - Wikipedia

    分析的マルクス主義(ぶんせきてきマルクスしゅぎ、英: Analytical Marxism)は、マルクス主義の潮流のひとつである。 分析的マルクス主義は、現代の哲学や社会科学の方法を大胆に取り入れ(それには分析哲学や新古典派経済学のツール、現代の洗練された記号論理学やゲーム理論などが含まれる)、マルクス主義の伝統的な方法や概念について拒否したり大胆な見直しを行うこと点に特徴がある。 この潮流は、セプテンバー・グループという、マルクス主義に多少なりとも関心を持つ哲学者や社会科学者の小さな集まりからはじまった。 そして1980年代には、分析的マルクス主義は、英語圏の哲学者や社会科学者の間で優勢な潮流のひとつとなった。 歴史[編集] 分析的マルクス主義は通常、ジェラルド・コーエンの『カールマルクスの歴史理論:その擁護』(1978年))」[1]に始まるとされている。しかし、より広く考えるなら、第二

    Muichkine
    Muichkine 2008/05/29
    ヘーゲルは捨てた?
  • チャリング・クープマンス - Wikipedia

    チャリング・チャールズ・クープマンス(Tjalling Charles Koopmans、クープマンズとも、1910年8月28日 - 1985年2月26日)は、線形計画法を経済学に応用したオランダとアメリカ合衆国の数学者、経済学者である。アクティビティ分析の創始者の1人である。1975年、クープマンスは線形計画法の経済学の適用で、レオニード・カントロビッチとともにノーベル経済学賞を受賞した[2]。 姓のオランダ語読みは「コープマンス」に近い。 略歴[編集] 1910年、オランダのス=フラーフェラント(英語版)で生まれた。 1927年、ユトレヒト大学に入学し数学を専攻したが、3年後の1930年に理論物理学に転向した。1932年にユトレヒト大学より物理学と数学の学士号を、1933年に同大学より物理学と数学の修士号を取得した。 1934年、分子の第一イオン化エネルギーと電子親和力に関する「クープ

    チャリング・クープマンス - Wikipedia
  • 報告概要

    Muichkine
    Muichkine 2008/04/21
    巨視的ミクロ経済理論macroscopic microeconomics。
  • Gorman polar form - Wikipedia

    Gorman polar form is a functional form for indirect utility functions in economics. Motivation[edit] Standard consumer theory is developed for a single consumer. The consumer has a utility function, from which his demand curves can be calculated. Then, it is possible to predict the behavior of the consumer in certain conditions, price or income changes. But in reality, there are many different con

  • 機会の平等ってそんな簡単な話じゃないんです | WIRED VISION

    機会の平等ってそんな簡単な話じゃないんです 2008年3月28日 コメント: トラックバック (0) (これまでの 飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」はこちら。) 私がエッセイを書く中で繰り返し論じてきたのが,「経済学とは経済について考える学問」というよりも「経済学的思考を使って何かを考えることだ」という点です.その意味で,経済とはほとんど関係がないように感じてもレヴィットの『ヤバ経済い』(日経済新聞社)や中島隆信先生の[*1]は典型的な経済学です.最近では,大竹文雄編『こんなに使える経済学』(ちくま新書)などが「経済学的思考を使って何かを考えることが経済学だ」という点を前面に出した良書といってよいでしょう. 連載もそろそろ終盤にさしかかりつつあります. そこで,これからはこれまで紹介してきた経済学的な思考法……問題を適切に分割し,明確な定義の枠内で,個人のインセンテ

    Muichkine
    Muichkine 2008/03/30
    >「初期資金を決めるのは何か」という問題に退行する必要がある
  • 経済学の倫理的なインプリケーションは何か? - Essay, dated.

    なにもありません。ある倫理的な基準を置いたときにある状態・政策が望ましいと言うのが経済学で、倫理自体は、経済学からは導かれず、常に外部から与えられるものなのです。 というとここで話が終わってしまうのだが、しかし経済学があたかも倫理的なインプリケーションを持つかのように振舞うことの倫理について考えることは出来る。説明はメンドクさいのでしないが、パレート効率性という概念がある。どのような倫理的基準を用いるとしても、パレート効率性が社会的に理想的な配分の満たすべき必要条件だと考えることには、まあそれほど問題はないだろう。しかし現実の世界の(非技術的な)制約のもとでは、それは必要条件にすらならない。それにもかかわらず、様々な文脈でしばしば効率性が十分条件としてー効率性が非効率性よりそれだけで優れているかのようにー語られることさえある。*1、*2 ここで、何が問題になっているのか?現実の政策決定にお

    経済学の倫理的なインプリケーションは何か? - Essay, dated.
    Muichkine
    Muichkine 2008/02/13
    >経済学に倫理はなくても、経済学者は倫理的でありうるのだ。
  • Amazon.co.jp:ハイエクのポリティカル・エコノミー―秩序の社会経済学

    Amazon.co.jp:ハイエクのポリティカル・エコノミー―秩序の社会経済学
  • 「ハイエクでもなくハーバマスでもないけど、やっぱりウィキノミクス?」 - Economics Lovers Live (2008-02-10)

    5年以上前に作成した田中版「ネットの経済学」(掲示板時代のネットの経済学)のその続きの準備といってはなんですが、やはりブログの中でどう経済問題が議論されているのか、そしてそもそもブログ自体の経済的考察にはどんなものがあるのか、ここ数日いろいろ資料を集めているわけです。ブログ自体の経済的考察というのはそれほど豊富ではありませんで、『Public Choice』が今年度の第一号で特集を組んでいてその中にいくつか面白そうな論文があります(入手できてません)。 特に個人的な関心を抱いたのが以下のキャス・サンスティーン教授の論文 Neither Hayek nor Habermas http://www.springerlink.com/content/b8167107l4662l47/?p=8bbcf017ea9d4fcb9dc0f27f6d0ed614&pi=5 Abstract The ris

    「ハイエクでもなくハーバマスでもないけど、やっぱりウィキノミクス?」 - Economics Lovers Live (2008-02-10)
  • 別の顔のハイエク3――ブラックボックスの効用:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online

    阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」 2006年3月27日 [ハイエク]別の顔のハイエク3――ブラックボックスの効用 ハイエクが発見した根源的な「無知」(ignorance)とは何だったのか。そして、それは市場メカニズムを通じてよりよい均衡を達成できるのか。英国ケンブリッジ大学のローソン勉強会にいたフリートウッドの説明をもう少し引用しよう。 価格が特定の生産投入物の稀少性などの事柄に対して個人の注意を向けさせることによって、価格メカニズムは情報伝達システムのように作動するけれども、価格は個人にすべてを知らせるわけではないから、個人は他の多くのことについて無知である。実現しうる見込みがかなりある計画をたてるうえで個人を助けるのは、ふるまい(conduct)の社会的ルールという形態における、社会構造の高密な網を頼りにすることができるという点である。(フリートウッド「ハイエクのポリティカル

  • 別の顔のハイエク2――無知の発見:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online

    阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」 2006年3月25日 [ハイエク]別の顔のハイエク2――無知の発見 ハーバード・ロー・スクールのキャス・サンスティーン教授が仕掛けた「ハイエク的な市場とブログ圏はどこまで類比が可能か」という設問は、すくなくとも日では消化難だったようで、まともに考えたブログに残念ながら出会えなかった。日のブロガーたちのほとんどが、ハイエクなど読んだことがないからだろう。 もちろん、梅田望夫氏の「ウェブ進化論」も一顧だにしていない。後期ハイエクの「自由の条件」(The Constitution of Liberty)は、春秋社版の全集でも在庫切れのまま、再版される兆しもないから、ま、無理もない。ただ、サンスティーンがゲスト・ブロガーになったローレンス・レッシグは、スタンフォード大学のロー・スクール教授であり、アメリカのインテリならハイエクくらいは“常識”に属する

  • 別の顔のハイエク1――ウィキペディアと市場:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online

    阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」 2006年3月24日 [ハイエク]別の顔のハイエク1――ウィキペディアと市場 私にとって、ネット空間とは何かという問題に先立って、市場空間とは何かが常に先にあった。そこで思い浮かぶのはオーストリア生まれの経済学者フリードリッヒ・A・ハイエク(1899~1992)である。価格メカニズムのことを「テレコミュニケーション・システム」と呼んだのは彼なのだ。今思えば奇妙な呼称である。しかし経済学の根幹を情報理論として組み換えたかに見える彼の試みは、「ウェブ進化論」や「はてな」のようなナイーヴすぎるネット信仰が跋扈する今、再読するに値すると思う。 自分の経験を語ろう。 英国にセジウィックという地名がある。ケンブリッジ大学の学部キャンパスがあるところで、モダンなコンクリート建築の校舎が並んでいる。学生や教師が暮らすカレッジ(学寮)の多くがレンガ造りや石造りの伝