まずは、次の文をお読みいただきたい。「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」オセアニアに広がっているのは何か。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥ教の4つのうちから選ぶとしたら、正解はなんだろう。もちろん「キリスト教」だ。そんなことは字が読める人なら誰でもわかる、と思
すでに旧聞になると思う。というか、そうなるのを待っていた面もあるし、考えていたらそうなってしまったという面もある。話題は、れいの、と言ってもいいだろう、「保育園落ちた 日本死ね!」ということだが、私が気になっていたのは、「日本死ね」という表現だった。そう言うべきだったのだろうか? 言葉狩りがしたいわけではないが、これが仮に「中国死ね」や「韓国死ね」という表現であったら、ヘイトスピーチになるのではないか。なのになぜ、「日本死ね」ならそういう問題にならないのだろうかと疑問に思ったのである。 おそらく日本人なら「日本死ね」と言ってよいという暗黙の前提があるのではないだろうか。だとすればそこで疑問が続く、日本人なら「日本死ね」と言ってよいのだろうか? あるいは、日本人なら「日本死ね」と言えるという特権のような意識があるとすれば、それは何に由来するのだろう? その特権を支える正義はなんなのだろう?
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く