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ブックマーク / finalvent.cocolog-nifty.com (3)

  • 「就職氷河期」なんてあったんだろうか?: 極東ブログ

    このブログを事実上お休みしている間、『とある私の平成史(仮)』というを書いていた。まだ書き上がっていない。いつ書き上がるかもわからない。そもそも書き上がるかどうかもわからない。書き上がったら、出版したいとは思っている。ありがたいことに期待してくれるお声もあったりする。 で、まあ、とりあえず、執筆は「平成5年」に入ってきたのだが、そこで「就職氷河期」が項目になる。そこで、あらためて「就職氷河期」を考えてみたら、これって当にあったんだろうか?と疑問に思えてしまった。 「就職氷河期」なんてあったんだろうか? ないわけないでしょ?と言われそうだが、就職しづらかったとか、正規雇用になれなかったとか、そういう個別の状況がなかったとは当然、言わない。それはあった。そうではなく、「就職氷河期」という言葉でまとめられる事態があったのかということだ。いつの時代にもどこの社会にある「就職難」というだけのこと

    PSV
    PSV 2019/04/07
    #バブル崩壊 → #阪神淡路大震災 → #アジア通貨危機 ( http://bit.ly/2VumXga ) → #ITバブル崩壊 ( http://bit.ly/2UEj3Eo ) → #リーマンショック → #東日本大震災
  • 「日本死ね」と言うべきだっただろうか?: 極東ブログ

    すでに旧聞になると思う。というか、そうなるのを待っていた面もあるし、考えていたらそうなってしまったという面もある。話題は、れいの、と言ってもいいだろう、「保育園落ちた 日死ね!」ということだが、私が気になっていたのは、「日死ね」という表現だった。そう言うべきだったのだろうか? 言葉狩りがしたいわけではないが、これが仮に「中国死ね」や「韓国死ね」という表現であったら、ヘイトスピーチになるのではないか。なのになぜ、「日死ね」ならそういう問題にならないのだろうかと疑問に思ったのである。 おそらく日人なら「日死ね」と言ってよいという暗黙の前提があるのではないだろうか。だとすればそこで疑問が続く、日人なら「日死ね」と言ってよいのだろうか? あるいは、日人なら「日死ね」と言えるという特権のような意識があるとすれば、それは何に由来するのだろう? その特権を支える正義はなんなのだろう? 

    「日本死ね」と言うべきだっただろうか?: 極東ブログ
    PSV
    PSV 2016/04/03
    自然人に対する「死ね」と混同しちゃダメよ。家電とか壊れた時、「冷蔵庫が死んだ」みたいな言い回し使うでしょ?「死ぬ」には壊れるや終わるの意味もあるのよ。Perlの「or die」 http://bit.ly/1Y6cx17 みたいなもんだよ。
  • 難病と社会支援についてごくわずかに: 極東ブログ

    社会問題に関連する話題やブログで話題になっていることにはなるべくふれておこうと思うのだが、気が乗らない話題も多い。「さくらちゃんを救う会」を巡る話題もそれに近い。今回のこの話題に限らず難病支援の募金については、声高な支援者の人だけが救われるのかというやるせない思いが以前からあるし、特に米国での高額な医療が対象になる場合は、その医療を待つ人々のことも思う。私の誤解もあるかもしれないが、こうした問題は、お金があれば医療が受けられるというだけの問題ではなく、それを待つ他の人々の関係の問題があるかと思う。 支援の声が特定の誰かを救うという意図の場合、それと一市民としての自分がどう関わっていいのかそこもよくわからない。むしろ、一市民としての私は一般的な難病者と国や地方行政を介して関係を持つのではないかと考える。そうした場合、気になるのは、難病を扱う特定疾患の補助制度のありかたについてだ。 ニュースと

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