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消費とsocietyに関するParsleyのブックマーク (6)

  • 不発に終わった団塊退職特需:日経ビジネスオンライン

    “団塊退職バブル”は来なかった 「団塊退職バブルがくる!」。こんな気楽なフレーズがささかれていたのは、つい数年前のことだ。2007年から2009年にかけて団塊世代の定年退職がピークを迎え、膨大な人口がシニア市場に参入する。そしてシニア市場が、一気に花開く。これが“団塊退職バブル”の仮説だった。 団塊以前の高齢者はお金と時間の余裕を持ちながら、今一つ消費意欲に欠けていた。それに引き換え団塊世代は前の世代より消費意欲が旺盛であり、過去にさまざまな消費ブームを巻き起こしてきた実績がある。この点を考慮すれば、退職した団塊世代がシニア市場を牽引するという予測には、一定の説得力があったと言える。ちなみに電通は、「団塊退職による消費押し上げ効果は8兆円」と予測していた。お金も時間も元気もある団塊世代への期待は、非常に大きなものがあったのだ。 しかしながら、団塊世代のリタイアによりシニア市場が花開くとの予

    不発に終わった団塊退職特需:日経ビジネスオンライン
  • 階級化社会を元気に生き抜く「ヤンキー文化」が地方を活性化する=速水健朗 - 雑誌記事:@niftyニュース

    「おバカタレント」「小悪魔ageha」ヒットの秘密は都会と地方の格差にあり 階級化社会を元気に生き抜く「ヤンキー文化」が地方を活性化する=速水健朗 (SAPIO 2009年9月30日号掲載) 2009年10月12日(月)配信 5ページ中 1ページ目 前のページ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 次のページ 文=速水健朗(フリーライター) 若者を格差社会の被害者と捉える論調が大勢のなか、しかしいざ地方に行けば、格差に不満の声など上げずに楽しく生きている若者がいる。そう、ヤンキーだ。著書『ケータイ小説的。』でケータイ小説の読者が地方のヤンキー少女であることを見抜き、現代を「再ヤンキー化」時代と指摘した速水健朗氏が、不況を生き抜くヤンキーの生態を報告する。 ケータイ小説には 「東京」が出てこない 最近、ヤンキーを題材にした映画「クローズZERO」やドラマ「ごくせん」

  • 深町秋生の序二段日記

    この恐慌下で一層歯止めがきかなくなるのは「若者離れ」であろう。うむ。 いやなんの話かといえばあれだ。これまでだって「若者の○○離れ」はうんざりするほど経済誌や新聞でも伝えられてきた。車、家庭用ゲーム機、ブランド品。活字。外。その他いろいろ。 しかし若者の悲惨な窮状や、シビアな金銭感覚を考えれば、高価な奢侈品や豪快なエンジン音を轟かせるスポーツカーになんか金をださなくなるのは当然だろうが、今回話したいのは「若者が商品から離れる」のではなくて、その逆である。「商品が若者から離れる」時代が格的に到来しそうだなあと思ったのだった。もう昔からそういう傾向が続いていたとは思うけれど、けっこうあからさまにそれが表れる時代になるのではないかと。 先日、なにかの雑誌で、「コンビニ第三の雄 ファミマの躍進」というような記事を読んだ。正確な見出しは忘れたが。とにかくまあそれで社長のインタビューなんかが載って

  • 若者は本来、消費をしない生き物 - ダリブロ 安田理央Blog

    若者が消費をしないということが問題になっている。僕の属しているエロ業界でも、主なユーザーの年齢層は高い。AVで30代後半から40代、エロとなると40代以上というところだろうか。なんとなくエロというと、血気盛んな若者が見たり読んだりするものというイメージがあるらしく、エロのユーザーはオヤジばかりだよ、と言うと驚かれることが多い。 すると、そうか、若い人はインターネットとか携帯電話でエロを見るからね、わざわざAVとか雑誌とか買わないよな…という話になるわけだし、実際にそれも大きな理由なのだと思う。エロ雑誌がネットやらない人の救済処置のようなスタンスになっているという(エロ雑誌読者のネット利用率は低い)のも事実だ。 ただ、エロメディアが若者のものだという考え自体が間違っていたんじゃないかという気もするのだ。 「若者殺しの時代」(堀井憲一郎 講談社現代新書)によれば、若者が消費者として認識された

    若者は本来、消費をしない生き物 - ダリブロ 安田理央Blog
  • ブランドの死? - Living, Loving, Thinking, Again

    http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2009/02/post-f5b3.html 原宿の「表参道ヒルズ」に閑古鳥が鳴いているという話から始まる。 そういえば、日に帰る度に原宿には必ず行き、「表参道ヒルズ」の近くは通るのだが、何故か知らぬが「表参道ヒルズ」に入ったことはなかった。そうだったのか。 さて、それから「ブランド」の話になる。ただ、読んでいて、個別の諸「ブランド」の話と「ブランド」一般の話が混同されている感じがした。また、「ブランド」について語られていることについても、今更という印象をちょっとは受けたのだ。勿論、「ブランド」について語るのは難しい。例えば、所謂ラグジュアリー・ブランドとコカ・コーラのようなマス・ブランドと企業ブランドを一緒くたに論ずることができるのかとか。 (前略)何かに駆られるように、「ブランド志向」に走ったわけだ

  • clast » ブームの崩壊

    ファッションにおけるサブカルチャーは時に“整然としすぎる”場合がある。ゴシックロリータは120%“ゴシックロリータであり、ヒップホップの若者はいわゆる”ヒップホップ“に完璧になりきっている。すべてがわかりやすく、きれいに線引きされているのだ。日のポップカルチャーの歴史に関するを読むかぎり、サブカルチャーは常にそれぞれ独自の特徴を持った、完全無欠なものとして存在していた。例えば、1955年といえばマンボスタイルの年、1956年は太陽族、1957年はカリプソスタイルの年。これほどまでに流行り廃りが効率的におこなわれていると、まるで計画されているかのようにさえ思える。 一般的に、戦後のポップカルチャーは日メディアとポップカルチャー研究において“ブーム”の連鎖として概念化されている。このブームという言葉は、それぞれの時代を定義する短命な“一時的な流行”をあらわすものだ。『チャートでみる

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