「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と言ったのはウィトゲンシュタインだが、その言葉を聞くと、では語りえるとは何かということも同時に思わずにはいられない。 対象について雄弁に説明ができることなのか。 自家薬籠中のものとして知り尽くしていればいいのか。 対象について全知でなければならないのか。 対象についての知識の多寡で、量的に決定されるのでないことはわかる。そんなことを言ったら、その量の境界線を誰が決めることができるのかという話が生まれ、じゃあその人間は誰が決めることができるのか、というように無限後退に陥ってしまう。「多数決で決めればいいんじゃないの?」という意見もあろうが、それも現実的じゃないよな。どう考えたって票がばらけるだろうし、なんとなく他より多いぐらいのラインで「決定!」なんてされても同意が得られるわけがない。 個人的には、「あらゆるものは語りえぬものだが、その不能性を意識
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