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ブックマーク / umiurimasu.exblog.jp (5)

  • 中世の料理と風呂について: 司教様ご一行フルコース食い倒れツアー | 族長の初夏

    中世の旅事情とうまいメシ!の。当時のヨーロッパの王族や司教といった貴人はどんな料理べていたのか。特に「旅先で賓客としてもてなされる」ときの宴会とはいかなるものだったか。そうした豪勢な饗応の献立を一品一品までことこまかに記した、リアル中世人によるグルメ旅行記です。なかなかの珍品でした。 いまからちょうど500年前、イスラム教徒トルコ軍によって涜された教会を聖別するために、総大司教管区は使節を派遣する。これは、その随行団の書記の書き残した日記である。著者パオロ・サントニーノは、好奇心あふれる精神の持ち主だったらしい。かれの眼は、公式に報告すべきことについてのみでなく、異文化の地・東アルプス山中の教会、人びとの信仰と暮らし、城砦の様子、べものそして、女性…などあらゆるものを見つめた。中世理解のための好個の贈りもの。引用は amazon の紹介文より。 この旅行記は公式の報告書とは別に残さ

    中世の料理と風呂について: 司教様ご一行フルコース食い倒れツアー | 族長の初夏
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    REV 2011/03/04
  • 忍者と妖怪 京極夏彦と山田風太郎 | 族長の初夏

    山田風太郎「伊賀忍法帖」の巻末に、「忍者という妖怪の誕生」と題した京極夏彦のエッセイが載っています。「漠然とした不安に名前をつけて形式を与えたものが妖怪である。妖怪とは世界認識の方法である。ならば忍者もまた妖怪の一種であろう」というふうな趣旨の、いつもながら京極節のきいた文章です。しかし残念ながら、これはどうも京極堂の憑き物落とし的なパフォーマンスをやろうとして仕損じたもののように僕には感じられました。言いたいことはわかるけど、主張に説得力をもたせるための証拠が不十分ではないか、というもの足りなさが残ってしまった。 もちろんそれで京極氏の忍者好きと博識を疑うわけではありません。ぬかりなく論を立てるには、わずか数ページという字数制限が厳しすぎたのかもしれない。 以下は、紹介をかねた忍者=妖怪論の補足みたいな感じのものです。 1) 「忍者」という言葉が世間に広まった経緯について。 京極夏彦は広

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    REV 2010/11/09
    忍者という妖怪
  • 統計: ファンタジー小説の表紙でもっとも人気のある題材は | 族長の初夏

    ちょっと面白そうなグラフを見つけました。海外のものですが、2008年に出版されたファンタジー小説の表紙(10社分すべて)に対し、カバーイラストに描かれている題材(剣、竜、魔法、城など)を数えあげて出現頻度を比べたものらしいです。どんなモチーフが人気なのかという売れやすさの指標?に、一応なってるかも。 Proof That Every Fantasy Book Cover Must Contain a Sword 1位 剣 2位 魔法の光 3位 城・砦 4位 ドラゴン 5位 馬 6位 小舟 7位 弓矢 8位 銃 9位 狼 10位 完全な暗黒 グラフではやはり剣と魔法がダントツ。上位はおおむね妥当な並び順っぽいです。むしろ、下位の方にどんな妙なモチーフが入るかが興味深いと思うんですが、残念ながら画像には18位までしか載ってない。 可能ならほかの項目についても統計結果を見てみたいところです。たと

    統計: ファンタジー小説の表紙でもっとも人気のある題材は | 族長の初夏
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    REV 2009/08/29
  • 車椅子の歴史と中世ファンタジーのテクノロジー | 族長の初夏

    ジョージ・R・R・マーティンの「乱鴉の饗宴」の冒頭あたりを読んでいて、地味ながらちょっと印象に残ったガジェットがあります。ドラン・マーテル公が乗っている車椅子です。車椅子。 騎士たちが剣をふるって戦う中世風の世界では、これはやや珍しい道具のように僕には思えました。なんとなく近代的な機械っぽいイメージをもっていたので。ところが調べてみると、車椅子の歴史というのは思いのほか古く、いわゆる中世の時代ならばあってもなんら不思議ではなかったということがわかってきました。〈氷と炎の歌〉の舞台である七王国も中世ヨーロッパをベースにしており、高貴な身分の子女たちのポピュラーな乗りものとして馬車などが普通に使われています。そこに車輪がある以上、車輪を利用した大抵の道具もまた存在するということは十分にありうるのでした。 以下に、歴史上の古い車椅子に関する画像を何点か、時代順に載せておきます。僕自身が〈氷と炎の

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    REV 2008/11/21
  • ノベルゲームの「読み方」 | 族長の初夏

    kaienさんとpsb1981さんの「ゲーム性は物語の重みを損なう」という話から考えはじめたことなんですが。こうした意見がよく出てくるのは、 「マルチシナリオは質的にメタフィクション的な表現形式だ」 ということを、物語の書き手も読み手もあんまり認識してないからじゃないか? という気がするのです。 これを要領よく説明する自信はまったくないんだけど……とりあえず書くだけ書いとこう。 マルチシナリオでは、たとえば登場人物が死ぬシナリオ(A)と生きるシナリオ(B)が用意されていて、読者は(A)と(B)を読み比べることができます。この比べる視点のことを「メタ的」といいます。したがって、世の中のノベルゲームはほぼすべて、形式上はメタ的なわけです。 でも実際のノベルゲームはほとんどが、メタ的な形式で書かれているくせに、物語としてはメタフィクションであるべき必然性をもっていません。(A)と(B)という2

    ノベルゲームの「読み方」 | 族長の初夏
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    REV 2006/11/02
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