ブックマーク / indai.blog.ocn.ne.jp (10)

  • 恐山あれこれ日記: 自由のための不自由

    自由のための不自由 最近、写経がちょっとしたブームになっています。もともと、紙や筆記道具がまともになかった時代、釈尊の言葉とされた経典は、丸暗記によって伝承され、広まりました。その後、活字印刷の発明までは、経典の書写こそ、伝承と布教に決定的な意味を持っていたのです。ですから、諸経典の中で写経の功徳が大いに讃えられているわけです。 これまた最近流行している寺社仏閣の朱印集めですが、ご存じのとおり、元はと言えば、写経を奉納したことの証明書であり、ただのスタンプラリーではありません。 昨今の写経は、一種の「癒し」系行事になっています。実際、やった人の多くが、「疲れたけどスッキリした」というような感想を述べます。 上述のように、写経は来「スッキリ」するための行為ではありませんが、そういう効用が副産物としてあることは事実です。 たとえば、恐山では、お経を印刷した台紙の上に和紙を置き、これを筆ペンで

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    SavingThrow 2013/10/09
    "選択するということは、迷うこと。迷うこととは考えること。自由であるためには、迷い考えるストレスを精神的コストとして受忍する覚悟がいる。「自由」を奪われることは、同時にストレスからの解放を意味する。"
  • 恐山あれこれ日記: 和尚のトラウマ

    和尚のトラウマ 昨今の青少年の様子を見て、またぞろ学校で「道徳教育」を強化したり、はたまた「徳育」なるものを始めようと考える人たちがいるようですが、彼らの気持ちは察しますが、おそらく無駄でしょう。 なぜなら、道徳は、理解するのではなく、感じるものだからです。学校の授業による「教育」では、所詮は理解までしか及びません。 「命の尊さ」や「親のありがたさ」や「友達の大切さ」を、いくら生徒に「教育」しても、彼らは感想文に「・・・のお話で、命の大切さがよくわかった。これからは一瞬一瞬を無駄にせず生きていこうと思う」などと、おざなりに「わかったこと」を書くだけで、解いた問題の答えを忘れるように、忘れるでしょう。 学校で「命の尊さ」を教えたければ、教えられる彼らが「尊ばれている」と感じることが先なのです。 さらに言うと、「道徳教育」を叫んだり、実際に行ったりする人たちが、人並み以上に道徳的であることは、

  • 恐山あれこれ日記: その、深き欲望

    その、深き欲望 現に違う、別のものが二つ以上ない限り、「同じ」とは言えません。つまり、違うことは事実ですが、同じであることは観念です。 観念ならば、要は考え方であり、考え方であれば、人それぞれで、「最初から絶対に正しいアイデア」なぞ、望むべくもありません。どの考え方を採用するかは、各人の好みと必要です。 アイデンティティー、すなわち「自己同一性」というのも結局はそうです。昨日の「私」と今日の「私」が「同じ」であることの根拠は、「私」自身の中をいくら探っても出てきません。 人間は「私」であることを課せられ強制されて「私になる」のですから、これを維持するのも大変です。事実として無根拠なら、観念で代償しなければ、まずやっていられません。 家族と地域社会が安定している間は、「家族の一員」や「地域社会のメンバー」として、いわば「共同体の一器官」としての「役割」がそれを果たすでしょうが、これが「人の

    SavingThrow
    SavingThrow 2011/10/27
    "「真理」を求めるのは「自己同一性」「自分であることの根拠」を欲望するから。自分の根拠として選んだ「真理」自体にも根拠がないなら、他の「真理」を排除することによってしか担保されないでしょう" という視点
  • 恐山あれこれ日記: 「栄光なき天才」たち

    「栄光なき天才」たち およそ試験が試験であるためには、次の二つの条件が必要です。 ①試験問題には事前に決められた一定の答えがあること。 ②出題者が受験者ではないこと。 この二つがそろわないと、試験すること自体が無意味です。 すると、受験者とは、あらかじめ答えを知っている者が出す問題を、いかに効率よく解くかの技術を競う人間ということになり、これは基的な構図として、他人の支配や命令に手際よく従う能力を競うのと同じことになるでしょう。 ということは、試験によって計測するのに最も適しているのは、官僚か官僚的な(あるいは官僚化した)職業の場合です。私が思うに、「秀才」とはそのようなことに長けた「技術者」でしょう。 これに対して「天才」とは、すでにある「答え」を見つけるような人間ではありません。そうではなく、普遍的で根源的な「問い」を、彼の生きる時代と社会の課す条件の下、自ら取り組むべき「問題」とし

  • 恐山あれこれ日記: ありのままの不自然

    ありのままの不自然 「ありのままでよいのです」とか「ありのままの私を見てほしい」という言い方を、時々耳にすることがあります。そのたび、私はいつも、わかったような、わからないような、妙な気持ちになってしまいます。いったい、「ありのまま」とは何か、どういう状態なのか? 少なくともそれは、やりたい放題のわがまま勝手、無遠慮・野放図の行いを言うわけではないでしょう。「よい」と言うぐらいですから。 このとき、「よい」だの「見て」だのと言う以上、言う方は「ありのまま」がどういうことを意味しているのかわかっているはずです。 しかし、わかると言うなら、それは「ありのままでない」状態との区別ができる、という意味でしょうから、もはやそれは概念です。だとすれば、「ありのまま」とは「特定の概念に規定された状態のまま」ということになるでしょうから、これはどう見ても、「ありのまま」という言葉で人が言いたい意味とは違う

    SavingThrow
    SavingThrow 2010/11/11
    "やりたい放題のわがまま勝手、無遠慮・野放図の行いを言うわけではないはず。区別可能な、特定の概念に規定された状態のままというなら、これは「ありのまま」という言葉で人が言いたい意味とは違うはずです。"
  • 恐山あれこれ日記: にんげんっていいか?

    にんげんっていいか? 何度か耳にしたことのある、新手の童謡かと思っていた「くまの子みていたかくれんぼ・・・」ではじまる歌が、かつての名作アニメのテーマソングだということを、つい最近知りました。 実は恥ずかしながら、この歌を初めて聴いた時、私は思わず涙ぐんでしまいました(正直言うと、私は涙もろい方)。 この歌は、「いいな、いいな、にんげんっていいいな」というサビの一節に続いてこうなります。 「おいしいおやつに、ほかほかごはん、こどものかえりを待ってるだろな。ぼくもかえろ、おうちにかえろ」 私は、最初別になんの感慨もなく、この歌を聴いていたのですが、この「・・・ほかほかごはん、こどものかえりを・・・」まできて、ちょっと違和感を覚えたのです。当然ここは「ぼくのかえりを・・・」と続くのだろうと、思うともなしに思ったからでしょう。ところがさにあらず、ここは「こども」となり、直後に「ぼくもかえろ・・・

    SavingThrow
    SavingThrow 2010/11/09
    "「おいしいおやつに、ほかほかごはん」は必ずしもどの「こども」にも保証されているわけではないことに気づいた時、はじめて、「他者」と「社会」に出会うことになり、「自己」の孤独と焦燥が始まる。"
  • 恐山あれこれ日記: ちょっとした感想

    ちょっとした感想 以下は、ある寺が主宰する坐禅会の記念誌に寄稿したものです。こういう話は珍しいでしょうから、転載してみます。 坐禅という道しるべ 〇〇寺様の参禅会が三十周年を迎えるのだそうで、まことにおめでたい、また一曹洞宗僧侶として、ありがたいことだと思う。 副住職さんとは永平寺の入門が一緒で、その縁もあってか、会員の皆さんの前で話をさせていただいたり、ご一同がはるばる恐山まで参拝に来て下さったりと、今では何だか他人という気がしない。 そこで、方々で行われている坐禅会の様子を時々見聞して、私が個人的に感じていることを、この機会に聞いていただきたいと思う。 ◆   ◆   ◆ 以前、あちこちのお寺で参禅経験があるという初老の人と話をしていたら、彼がこんなことを言った。 「南さん、坐禅というのは人を傲慢にしますな」 これはおかしいだろう。普通は、坐禅を続けていれば、「我がとれて傲慢でなくなっ

    SavingThrow
    SavingThrow 2010/10/21
    "坐禅は人を傲慢にするという小話。傲慢=初心者への横柄さ、指導者の寵愛を競う雰囲気等。座禅は特別すごいこと→それを教えてくれる指導者はすごい人→その人に親しく教えてもらうのはよいこと。という思考。"
  • 恐山あれこれ日記: 弔い問答 その3

    弔い問答 その3 『月刊石材』掲載のインタビュー記事、3回目。聞き手は青森市・やまと石材社長の石井靖氏です。 □気持ちを掬いとれるかどうか 石井靖社長(以下、石井) 石材業界でも「業界の生き残り」といった話になりますが、先ほどのお話で、「世間一般から必要とされない業界だったら、そもそも当は必要ないんじゃないか」と。私もそう思うんです。 南直哉(以下、南) 私は何度も言ったことあるんですが、「仏教は永遠だが、教団はそうじゃないから」といった話をすると、若い人たちはみんな不安な顔して聞いていますよ。 石井 お寺様でもそんなこと言う。 南 永平寺での生活が長かったですから、最後は講師みたいなこともやっていました。「道元禅師が教えた仏教は永遠だけれど、曹洞教団は違いますよ」と。私はそう思います。 寺の住職になるために僧侶になる、というのはダメなんです。僧侶というのは、ライフスタイルですからね。僧

    SavingThrow
    SavingThrow 2010/07/03
    "この先、子育て/人を送る看取るシステムが必要になってくる。子育て/介護の社会化=家族の再編成。(その2より)おそらくクレヨンしんちゃん以降には家族マンガはでませんよ。だってここから先、一人しかいないもの。"
  • 恐山あれこれ日記: 弔い問答 その2

    弔い問答 その2 前回に続き、『月刊石材』誌に掲載のインタビューを紹介します。聞き手は青森市・(株)やまと石材社長の石井靖氏です。 □「これはサービス業だ」 石井社長(以下、石井) ちょっと安心しました。まさに私たち石材店ごときが言うことでもないし、お客さんにとっては、「大きなお世話だ」という話なんです。お墓作りをさせていただく中で、お寺様とお客さんの中間の立場にいると、「お寺様ももう少し工夫したほうがいいのに」なんて…。 南直哉(以下、南) 石材屋さんも葬儀屋さんと同じと考えれば、お寺さんとネットワークを組んだ方がいいと思いますね。お互い情報を流したりすればいいんです。たとえば葬儀屋さんが都会でお葬式を頼まれたら「あのお坊さんはいいよ」と。お坊さんが仏壇屋さんを頼まれたら「あそこは正直だよ」と。お互い袖の下ではなくて、信頼関係をもてる人間でネットワークを組めばいいと思うんです。 石井 も

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    SavingThrow 2010/07/03
    "この三十年で団塊世代が亡くなると、旧来の檀家イメージをもった人が消えて先祖代々墓がほとんど機能しなくなる。人の死を瞬間の現象ではなく非常に長い経験としてトータルでケア出来るような産業を作り出せるか。"
  • 恐山あれこれ日記: 弔い問答 その1

    弔い問答 その1 記事より4回の予定で、『月刊石材』(石文社)の昨年4・5月号に掲載されたインタビューをご紹介します。聞き手は、青森市㈱やまと石材社長・石井靖氏です。 □死後にも人はいる 石井靖社長(以下、石井) 今日は当にありがとうございます。楽しみにしておりましたのが半分と、雑誌『AERA』(二〇〇九年一月二十六日号)の記事を拝見しまして、非常に怖い方だということが書かれていましたので、緊張が半分です。 石材業界は、もともと代々石屋さんというのが多いんですけど、私の場合は、親がまったく別な業界だったんです。今日は素直に聞こうと思っているんですが、この業界に入った時に、私たちは仏教のお手伝いというのか、供養するためのお墓を作らせていただいているんですけど、どうも仏教の話をお伺いしますと、矛盾のようなものを常に感じておりまして。 私たちの仕事に対して、お客様はとても喜んでいただき、また

    SavingThrow
    SavingThrow 2010/07/03
    "人間は死を「別離」と「旅立ち」というモデルでしか考えられないならばこの二つをどう扱うか。お墓の本質:「いる」という事実をこの現存世界に担保する時に必要なものとして出てくる象徴的シンボリックな存在。"
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