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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/nisemono_san (3)

  • 《オンナノコ》が《オンナノコ》を辞めるということ - たいしゅううんどう

    途中から適当になってしまっているけれども、メモ書きで。《オンナノコ》と《オトコノコ》という状態があるいきなり題に入ってみる。題というのは、《オトコノコ》という状態があり、《オンナノコ》という状態があるということだ。で、最初に俺は《オンナノコ》のことについて話そうと思う。というのは、そのほうが話しやすいからだ、という恣意的な話の入り方なんだけれども。まず、《オンナノコ》である状態というのはどういう状態なのか、という定義をしておくとするならば、《オンナノコ》が《オンナノコ》によってチヤホヤされている状態である、といえる。もちろん、この定義は同語反復であるんだけれども、ポイントは「チヤホヤされている」という状態だ。《オンナノコ》が《オンナノコ》であるという状態について話さなければならないのだけれども、それは基的に自分が《オンナノコ》であるということでチヤホヤされているという状態を考えなくて

    SeiSaguru
    SeiSaguru 2007/06/05
    あとでよもう。
  • あなたとわたしにとって言葉とはなんなのか問題(続くかもしれない) - たいしゅううんどう

    言葉について考えていた時期があった言葉は何はともあれ、それがそれ自体として《ことば》として表れることはない。あなたが空気の振動や、あるいは羅列されたかたちのパターンを何かしらの《ことば》として認識する。ここまではよくある話だ。そして、《ことば》とは、単純に考えてしまえば《意味の体系》である、と俺は思っている。《意味の体系》が気に入らなければ《価値の体系》である、という言い方もできるだろう。ことばはその文の中に意味を保有していると同時にそれらを発した途端に、その発することによってその意味を遂行することばもありうる。《ことば》が《意味の体系》でありうるとするならば、逆に私たちは《ことば》が同様に空気の振動であり、羅列されたかたちのパターンでしかありえないだろうということは可能だ。そのような空虚さとしてことばがあるという事実認識は、のちに主体の空虚さとしての問題に行き着くのであるけれども、ここで

    SeiSaguru
    SeiSaguru 2007/05/30
    ごめんなさい、私には伝わらなかったようです。
  • 友達は労働。 - たいしゅううんどう

    ろうどうたいへんここでよく話の出る早稲田の「あかね」という部分から話をしたほうがいいかもしれない。今日はイベントがあって、途中から大勢で押し寄せてきたひとには不愉快なことをさせてしまったかもしれない。それは申し訳ない。それはともかくとして、やはり、なんていうか、自分の正直な感覚としては、スタッフとして、イベントをやるというのはどうも疲れるという印象が強すぎるなあと思ったりもしたのでした。それは、イベントというものを客として眺めることと、スタッフとして眺めることの重要性みたいなところで行き来しなきゃいけないんだなあと思ったりもしたのだった。それが疲れるのは、別に人がたくさん料理を頼んで「キムチチャーハン作らなきゃー」とか、伝票のつけ忘れがあったりして「うわー」となることでもない。いや、それは結構重要なんだけどね。でも、それはあまり嫌いではない。問題は、スタッフ目線からやると、やっぱりなんだか

    SeiSaguru
    SeiSaguru 2007/04/15
    すごいけどそうなのかー… うむむ…。
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