というわけで、まとめました。 僕的には、小宮先生は表現の自由の敵とは思えないので、なんでつっかかる人がいるかなぁ。。。。と。 http://futomomo.org/post/135498845312/models 続きを読む
生煮えで恥を晒すところが多いがちょっと書いてみた。 == 応用哲学会のシンポで若い人たちが報告したヘイトスピーチの言語哲学的解剖はとても面白くて論文になるのが待たれるけど、帰りにちょっと大庭弘継君と話した通りいろいろ難しいところもある。 言語行為論を用いてヘイトスピーチを発話行為であり、通常「言論の自由」が想定している発話と行為の切断、行為から切断された独立の言論空間の設定を悪用したものである、という指摘はたしかに正しい。言論の自由が前提としている言論空間の中では、たとえ大量殺戮の計画とそれについての討論であれ「決してそれが実行に移されることはない」という前提が確固として守られるのであれば、当然に許容される。ヘイトスピーチについても同様の論法がある程度は可能だろう。すなわち、それが実生活における差別行為を伴う、帰結することがなければ、だ。ところがいわゆるヘイトスピーチはこの境界を侵犯してい
講義の概要 初回のオリエンテーションも兼ねて、『社会の芸術』と それが属する『社会の理論』シリーズとの関係の一端を「コミュニケーションと身体の相互浸透」というトピックを使って例示しました。具体的には、 [A] ルーマンが「芸術のコミュニケーション」と呼んでいるのはどんなことか について簡単かつ おおまかに確認したあと、第1章の主題である「知覚とコミュニケーション」を取り上げ、これが [B] 「相互浸透」というトピックの中の 身体とコミュニケーションの関係に関する下位論題と、「象徴的に一般化したコミュニケーションメディア」の 下位論題の交差地点に位置するもの──「共生メカニズムの共進化」──であること そこでルーマンが特に、ノルベルト・エリアス(1939)『文明化の過程』を手掛かりにして──エリアスが扱っているトピックと、機能システムにおける身体使用のあり方とを比較する形で──議論の土俵設定
この記事は2015年6月に掲載されたものです。 状況が変わったり、リンク先が変わっている可能性があります。
「社会の芸術フォーラム」設立趣意 現在、さまざまな場所でアートと社会との関係性をめぐる議論が提示されています。 地域系アートは地域社会のあり方を、アートを通して、アートにおいて問い返していく試みであり、また、「社会」との接触においてアート自身が変容を迫られる、そうした再帰的な実践であるといえます。というか、そうであるはず、そうでなければならないはずです。アートによって社会の日常に異和をもたらし、日常そのもののあり方を問い返していくとともに、アートそれ自体が社会との関係を「アートであるがゆえに可能である」という自律性を踏まえながら捉え返していく契機。そうしたものが、地域系アート、あるいは特定の地域を舞台としたリレーショナル・アートの眼目であると考えます。いうまでもなく、様々な地域でその実践は「成功」を収め、今では把握しきれないほど数多くの取り組みが、日本全国の至るところで行われるようになって
文献リスト作成中です。適宜追記していきます。 【フランス語文献】 【芸術社会学】 Art rules : Pierre Bourdieu and the visual arts / Michael Grenfell and Cheryl HardyArt Rules: Pierre Bourdieu And the Visual Arts作者: Michael Grenfell,Cheryl Hardy出版社/メーカー: Berg Pub Ltd発売日: 2007/02/07メディア: ハードカバークリック: 1回この商品を含むブログ (3件) を見る 芸術家の誕生――フランス古典主義時代の画家と社会芸術家の誕生――フランス古典主義時代の画家と社会作者: ナタリー・エニック,佐野泰雄出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2010/10/27メディア: 単行本クリック: 10回この商品を含む
メインコンテンツに移動 検索 すべて 本文あり 詳細検索 タイトル 内容記述 著者名 著者所属 著者ID 出版者 刊行物名 日付 巻 号 開始ページ 終了ページ DOI 各種ID 資源タイプ 出版タイプ 助成機関名 プログラム情報 機関 学位授与機関 学位授与番号 検索 並び替え
Issue 16Double Bind The Intellectual Situation Too Much SociologyThe Editors White IndiansThe Editors Cultural RevolutionThe Editors Politics Sandy HookRachel Basch Translation The Story of My PurityFrancesco Pacifico Tarnac, General StoreDavid Dufresne, Namara Smith Essays What Do You Desire?Emily Witt The Merce Cunningham ArchivesLizzie Feidelson Heads Ain’t ReadyJohn Colpitts SadomodernismMoira
知覚・感性・その他 - 2 『社会の芸術』 ニクラス・ルーマン(著), Niklas Luhmann(原著), 馬場靖雄(訳) 法政大学出版局、2004 前回: http://www.at-akada.org/blog/2007/04/_1_1.html 1章後半。 同じ話を現象学に依拠してすることもできると言いながら(注92)、なぜかスペンサー=ブラウンに依拠するルーマン。 きわめて一般的な話ばかりで頭が痛い。 ■もの/形式 電波系の記述を差し引いて読むと以下のような感じか。 ものとは何か :Ⅵ節 ルーマンは、「もの」(本書では「形式/かたち」と呼ばれる)の定義をきわめてゆるくとっている。未規定なものから区別され、さしあたり規定されたものとしてあるようなもの一般を「もの」と考える。この辺りの方針は、現象学に依拠してやっていた前期ルーマンとまったくかわらない。なぜスペンサー=ブラウンに依拠
2012/10/169:0 建築と社会学の新しいアドレス 「答えが運ばれてくる前に」 藤村龍至×南後由和 南後氏 藤村氏 超線形プロセスから批判的工学主義を経て、列島改造論2.0に向かう建築家と、街から美術館、書店を遊歩する社会学者与えられた答えに満足しない二人が自分たちで見出したものは? 人口減少や「縮退」を運命や宿命ではなくポジティブに読み替える (司会:荻上チキ) ◇何ものかへのレクイエム 荻上:藤村さんに質問ですが、都市計画をオープンで作っていくという方法論はもちろん昔から、あえて位置づけるとすると、何へのカウンターとしてそうした手法が重視されているのか。あるいは、言い換えると、藤村さんが何への応答としてそうした方法論を身体化されたのでしょうか。 藤村:私がまちづくり系の研究室にいた1990年代のおわり頃、「地方分権」というスローガンが具体化して、市町村レベルで意
来年度の卒論指導に向けて、今年度の反省や感想を簡単にまとめておこうと思う。今年感じたのは、 アニメやマンガなどを批評する卒論は難しそうだということである。なぜか流行歌の研究は比較的うまくいっているような気がするし、アニメや漫画、ゲームなどにしても、必ず失敗することを運命づけられているというわけではないだろうが、これまでの卒論の例を見る限り、失敗率が高そうな気がする。印象論で言うと、失敗率が高い理由は3つ考えられる。 まず、深く考えず安易にメディア批評を選ぶ学生が多いこと。メディア現象は身近な社会現象だろうし、メディア批評の中には面白いものもある。学生がこういったテーマに魅力を感じるのはよく理解できるのだが、読んで面白いからといって自分が面白いものをかけるとは限らない。メディア批評の論文が『社会学評論』や『ソシオロジ』のような主要な社会学雑誌に載ることはまれだと思うが、それはメディア批評をオ
デザイナーズ集合住宅の第2ステージ 大島滋──「デザイナーズ集合住宅、過去、現在、未来展」、シンポジウム「集まって住むことの広がり」を開催させていただきたいと思います。時代が大きく変わろうとしているときに、住まい方にも様々な変化が見られるようになってきました。今回のシンポジウムは展覧会の標題の「デザイナーズ集合住宅」とは違った住まい方──同じ建築家ではありますが、デザイナーズの作家性というか作品性といいますかそれを排した、もっと住み手の側に立って設計されている方々の集住あるいは共同住宅が脚光を浴びてきています。 というより、時代の急激な変化にオーナーや不動産会社はユーザーの求めている変化に気がつかず、また、多くの建築家は従来通りの建て方をしていて時代の変化に気がついていません。今日お招きしました建築家の方々はいまの時代に求められている集住、あるいは共同生活のニーズを敏感に察知し「集まって住
本稿の目的は、「サークルアーティスト」(谷口[2001])とよばれる芸術家と支援者の存様態について理論的な視点から検討を試みることにある。サークルアーティストとは、分自身とその支援者の密接な関係性に活動の基盤を置く芸術家を指す概念である(谷口2001])。本稿では、まず近年の芸術社会学や文化社会学等において、“Distributors”が論的に重視されつつあることを論じる。これは狭義の「流通」にとどまらず、芸術(作品)と社会との関係や、芸術作品の作り手と受け手との関係を媒介するという意味を含む、広義の「流通の担い手」として位置づけられる。次に、本稿は、H・ベッカーによる「芸術世界」の概念を取り上げ、サークルアーティストの概念と関連づけつつ議論を進めていく。関与者による芸術活動の共同性を重視する「芸術世界」の概念は、サークルアーティストの存在様態を検討するうえで、大きな手がかりを与えてくれる
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く