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ブックマーク / call-of-history.com (15)

  • 中世ヨーロッパの「十分の一税」とは何か

    十分の一税は中世ヨーロッパで教会の維持や聖職者の生計のために各教区の農民から生産物の十分の一を徴収した貢租のこと。 十分の一税の起源十分の一税の起源は聖書の記述にあるイスラエル人の慣習に遡る。 『彼はアブラムを祝福して言った。 「天地の造り主、いと高き神に アブラムは祝福されますように。 敵をあなたの手に渡された いと高き神がたたえられますように。」 アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。』(新共同訳[創世記14.19-20]) 『わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。』(新共同訳[創世記28. 22]) 『土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。もし、十分の一を買い戻したいときは、それに五分の一を加えて支払わなければならない。牛や羊の群れの十分の一につ

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    advblog 2019/05/19
  • 「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」橋本 一夫 著

    昭和十五年(1940)の国際オリンピック大会は様々な政治的思惑が絡んで東京に決定したが、開催直前になって返上を余儀なくされた。招致活動の開始から返上に至る過程を丁寧に描いた一冊。 1940年オリンピック返上の理由として「日中戦争の影響」と一言で片付けられることが多いが、書を読むと、むしろ、日側の準備不足と責任能力の欠如こそが大きな要因であったことがわかる。そのドタバタっぷりは、某アニメの台詞ではないが「なんですか、これ」って言いたくなるレベルだ。 オリンピックには普遍主義と国家主義という二つの顔がある。人種・民族・国家を越えて選手一人一人が参加することに象徴される平等と差別排除の追求、主体となる選手の身体性と結びついて増幅される国家の威信と同胞意識。オリンピックの登場以来、この二つは常に表裏一体であった。1940年の東京オリンピックへ至る過程もこの双面から自由ではない。 そもそもの始ま

    「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」橋本 一夫 著
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    advblog 2019/04/26
  • 幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ

    先日の記事「「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著」にいくつか、ペリー艦隊来航時の日人代表も泥酔していたことを思い出した、といった趣旨のコメントがついていて、そうそうあの酔っぱらいエピソードも面白いんだよね、ということで幕府代表団とペリー艦隊との飲みニケーションエピソードを「ペリー艦隊日遠征記(上)(下)」から紹介しよう。酒を飲むことでのコミュニケーションが相互理解と親睦、異文化交流に大いに役立ち、日米和親条約締結に大きな影響を及ぼしたのだ。両者の酒宴はあわせて五回あった。 1853年7月12日1853年7月8日、ペリー艦隊は浦賀沖に姿をあらわし、米フィルモア大統領から将軍に宛てた親書の受け取りを求めた。これに対し日側は、かねてから黒船来航の情報を元に準備していた通り浦賀での受け取りを拒否、長崎への移動を求めるが、ペリーはこれを拒否して、現在地浦賀での授受を求めた。そ

    幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ
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    advblog 2015/06/12
  • 「贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ」桜井 英治 著

    社会に贈与の慣行が深く根付き、一気に浸透したのが中世であるという。その日の贈与はどのようなものだったのか。市場経済の拡大と結びついた贈与経済の姿を、史料を丁寧に読み込むことで明らかにしていく一冊。 マルセル・モースと彼の「贈与論」を研究したモーリス・ゴドリエによると「贈与」をめぐっては次の四つの義務が発生するという。 1) 贈り物を与える義務(提供の義務) 2) それを受ける義務(受容の義務) 3) お返しの義務(返礼の義務) 4) 神々や神々を代表する人間へ贈与する義務(神にたいする贈与の義務) 贈与慣行は古代から現代に到るまであらゆる社会に見られるが、大なり小なり上記の四つの義務が存在している。贈り物を受けたらそのお返しをせねばならないという意識が芽生えるし、贈り物を贈られた際に受け取らないようにするのは若干の後ろめたさを覚えるものでもある。例えば上司や同僚、取引先など仕事上の関

    「贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ」桜井 英治 著
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    advblog 2015/03/23
  • 箸食誕生の歴史

    箸の誕生箸は黄河流域で誕生した。現在見つかっている最古の箸は河南省安陽県の殷墟(紀元前十八世紀~紀元前十一世紀)から出土した銅製の箸だが、当時は手であったことは明らかであることから、事用ではなくべ物を取り分ける、あるいは祭祀用のものだと考えられている。 おそらく黄河流域では、『獣肉や野菜を包丁と俎でべやすい大きさに料理してべていた。べるときに、フォークや匙でなくて、手の感覚を延長して、汁の実などを挟みあげたくなったのであろう。熱いべ物を取り出すのに、指先に代わる竹ぎれか木ぎれを使ったのが、箸の始まりといわれる。一の棒ではべ物を固定できないので、二でそれをしっかり挟み上げるようにしたのである。』(向井、橋「箸 ものと人間の文化史102」) これが直接箸を使ってべ物を口に運ぶようにはならなかった。箸は、事を取り分けたり、調理する際に箸を使って固定したりする用途に使

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    advblog 2015/01/02
  • 「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    1879年、およそ四百五十年に渡り続いた琉球王国は日に併合(「琉球処分」)され滅亡した。滅亡後の琉球=沖縄は明治政府の支配下で伝統的共同体の崩壊と社会基盤の弱体化を招き、移民が認められた1900年代以降、大量の海外移民が送り出されていった。1940年の統計では海外移民のうち沖縄出身者は五万七千人、数だけなら広島・熊に次ぐ三位だが、県の人口比では広島3.88%、熊4.78%に対し沖縄9.97%でとびぬけて多い。全国平均で100人に一人が移民となったが、沖縄は10人に一人の割合であり、1920年代以降沖縄県出身移民は全国の移民の約20%前後を占めた。その中でもハワイへの移民が非常に多い。 書は著者が1970~80年代に行った、まだ存命の頃のハワイ移民一世~二世への聞き取り調査の記録と、琉球王国の滅亡から二十世紀初頭までの移民を押し出す要因となった社会的背景について描いた一冊である。

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    advblog 2014/12/04
  • 「織田信長 その虚像と実像」松下浩 著

    近年、織田信長研究の概説書が手頃なサイズで次々と出されているが、書もその流れに乗って2014年6月に発売された一冊である。信長に関しては基的にスタンダードな記述で手堅いが、書が特徴的なのは、著者が安土城の研究者であるがゆえに、信長による近江支配と安土城について焦点があてられていることだろう。『信長の近江侵攻以後、近江がどのように変わり、どのように変わらなかったのか。近江の中世から近世への過程を辿る』(P7)ことが信長の実情を描くことと並ぶ書のテーマであるとしている。この近江支配に関する記述がとても興味深かった。 群雄割拠の近江戦国時代の近江は、他国にみられるような統一して専制的な領国支配を行う戦国大名が登場せず、北近江で浅井氏が台頭し、南近江の守護六角氏と対抗、さらに西近江には室町幕府奉行衆である朽木氏ら高島七頭と呼ばれる国人連合が両氏から自立して勢力を保ち、これとは別に一向一揆勢

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    advblog 2014/11/07
  • 1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史

    スコットランド王国成立前史およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていたが九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め(あるいはスコット人とピクト人の統合によって)アルバ王国が成立し1034年までに諸民族を糾合、十二~三世紀頃までには現在のスコットランドにあたるブリテン島の北半分にはスコット人の王に従う統一王権スコットランド王国が誕生していた。 1066年、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝が誕生すると、スコットランド王国との間で幾度かの戦闘ののち、友好関係が成立した。デイヴィッド1世(在位1124~53)の代に先進的なイングランドの国制に倣って封建制の導入

    1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史
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    advblog 2014/09/23
  • 琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    別のテーマで書いていた記事の話のまくらとして琉球王国の興隆と衰退、琉球と島津氏の外交について五百~千文字ぐらいの気分で略史をまとめていたらやたら長くなったので個別記事として切り出してみる。 琉球王国は長く三国鼎立状態にあった沖縄島を一地方豪族から身を起こして一代で統一した尚巴志とその父尚思紹に始まる。尚巴志は統一戦争の過程で父尚思紹を王位につけ(1406年)、父の死後の1429年、沖縄島を統一(第一尚氏王朝)。しかし、尚巴志王の死後政権が安定せず、1469年、重臣金丸が王位を簒奪、尚円王を名乗り、第二尚氏王朝が成立した。以後、十五世紀末から十六世紀前半にかけて全盛期を迎え、島津氏の琉球出兵(1609年)を経て、1879年に日に併合(「琉球処分」)されるまで第二尚氏王朝が存続する。 琉球王国の隆盛は海禁政策下にあった明国の冊封体制に入ることで明と東アジア諸国とをつなぐ中継貿易によっても

    琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    advblog 2014/08/01
  • 日本で初めて反射望遠鏡を作った鉄砲鍛冶「国友一貫斎」

    第一章 江戸の貨幣経済と知識人の台頭、蘭学の登場十七世紀、戦国乱世の終結による政治的安定は人口増大と経済成長を促した。貨幣経済・商品経済の浸透は競争を喚起し、農民層の分解と格差の拡大、新たな都市富裕層の登場を促す。『俗姓筋目にもかまはず、只金銀が町人の氏系図になるぞかし。』(井原西鶴「日永代蔵」)と、旧来の身分制度に変わりカネが全ての世の中の到来だ。元禄時代の豪商河村瑞賢は「金銀が天下を馳駆する」と語った。それは同時に、自身の知恵と才覚によって成り上がる世の中でもある。伝統的な紐帯の弱体化は多くの人々を不安にする一方で、人々に独立の気風を与え、学ぶ意欲を大いに促す。 十八世紀に入ると、幕政の行き詰まり、貨幣経済のさらなる進展、飢饉や疫病などによる社会秩序の動揺はより加速、流動化する社会を背景として、新たに登場してきた知識人層はまず漢詩や狂歌などの文化芸術の世界に興味を持ちはじめて三々五々

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    advblog 2014/07/13
  • 近代日本、海水浴誕生の歴史 | Kousyoublog

    明治以前の海水浴海水浴が始まるまで、日では海は行楽の対象ではなかった。唯一の海での遊びとしては「潮干狩り」があったが、基的に海は漁民たちの生活の場であり、江戸時代には鎖国政策もあって海は近寄りがたいものとする風潮が強かった。海に入る行為としては穢れを清める儀式としての「水垢離」や祭礼の一環として神輿を担いで海に入る「海上渡御」などの宗教的儀式としてのものか、海水が健康増進・病気療養によいとする言い伝えから、病気予防のため、あるいは病気の者が海水を浴びて治療をしようと試みる「汐湯治」など医療目的のもので、行楽として海に入る行為は見られなかった。また、水泳は武芸として武士階級で広く行われていたが、川泳ぎが中心であった。 欧州では十八世紀の中頃から海岸周辺での保養・療養の重要性が語られるようになり、1740年のイングランド北東部スカーバラに開かれた海水浴場を嚆矢として、1754年ブライトンに

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    advblog 2014/05/03
  • 「死刑執行人の日本史―歴史社会学からの接近」櫻井 悟史 著

    の死刑制度において、死刑執行は刑務官が行っている。刑法十一条一項「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。」に基づいて、刑事施設の職員が行うという理屈からだ。しかし、死刑制度を採っている諸外国でも必ずしも刑務官が死刑執行の役割を負う訳ではなく、死刑制度上刑務官が行うべき必然性があるわけでもない。では、なぜ日では刑務官が死刑執行を担っているのか?日において刑務官が死刑執行人としての役割を果たすようになった歴史的経緯を、史料を元に丁寧に辿ったのが書である。 タイトルは「死刑執行人の日史」だが、取り上げられるのは江戸時代後期~現代なので「死刑執行人の日近現代史」という方がしっくりくる。 江戸時代の死刑は身分ごとに斬首、死罪、切腹などその刑罰の内容が違うが、その執行は武士が行うものとされていた。その役割を担うのは牢屋の管理を行う囚獄(牢屋奉行)やその直属の打役同心(看守)ではな

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    advblog 2014/04/04
  • 「桂太郎 ー 外に帝国主義、内に立憲主義」千葉 功 著

    前回の記事『「明治国家の終焉 1900年体制の崩壊」坂野 潤治 著』で桂園時代と大正政変を巡る政局について簡単に紹介したが、その主人公と言うべき人物が桂太郎である。 現代人の間の、明治時代の政治家の知名度でいうと、桂太郎はその事跡に反してかなり低い方ではないだろうか。大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、板垣退助あたりがほぼみんな知っているビッグネームで、次いで岩倉具視、山縣有朋、大隈重信、井上馨、松方正義、三条実美、黒田清隆、大山巌など、ほぼ明治維新第一世代に集中しているだろう。あとは日清・日露戦争で活躍した軍人たちが並ぶ感じか。 日近代史上、桂太郎は非常に重要な人物である。明治維新が目指した体制の完成者であり、上記のビッグネームたちとの熾烈な政争を勝ち抜き、あるいは巧みに操縦して、一時は元老たちすら凌駕して天皇の名の下に絶大な権力を振るい、そして民衆の騒乱の中で権力を

    「桂太郎 ー 外に帝国主義、内に立憲主義」千葉 功 著
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    advblog 2014/02/28
  • 江戸時代の公害、環境破壊と人口停滞 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    江戸時代はよく、エコでサスティナブルな社会システムが整備されていたという例として語られるが、一方で急激な経済発展の代償として環境破壊と公害が顕在化しはじめた時代でもあった。 1)江戸時代の環境破壊安土桃山時代から江戸時代前期にかけては全国で都市、街道や橋、用水などの建設ラッシュによって木材需要が高まり一七世紀から一八世紀初頭にかけて日列島全体で森林伐採が行われた。 正保二年(一六四五)、幕府は諸国に対して山林の濫伐を禁じ、伐採の禁止地区の指定や利用制限などを取り決め、寛文六年(一六六六)、貞享元年(一六八四)の二度に渡って森林の乱開発が災害の要因になっているとして特に水害が頻発していた畿内を中心に濫伐の禁止や苗木の植え立てを命じる法令を出している。 このような森林資源の枯渇は江戸時代後半になると徐々に回復していったが、その要因として鬼頭宏「文明としての江戸システム」ではコンラッド・タット

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    advblog 2014/02/17
  • 「選挙違反の歴史―ウラからみた日本の一〇〇年」季武 嘉也 著

    「或る地位に就くべき人」を定める方法としては、古来から合議と多数決という二つの方法があった。社会の対立を前提として、そこから「全体的に説得的な結論」を導いて社会の統一をもたらすために、合議は対立の解決より共同体の維持を優先することを「全体的に説得的な結論」とし、多数決は多数が支持していることをもって「全体的に説得的な結論」として対立から統一へと進める。この両方の手法を補い合う形で近代の「選挙」は発展してきた。 江戸時代まで村落の代表者を初めとして地位ある人の選出手法は合議(神判など含め)中心であった日でも近代化の過程で選挙制度が導入されていくことになるが、選挙制度の導入の歴史は裏を返せば選挙違反の歴史ともなる。書は選挙違反の歴史を通して近代日社会の変容を俯瞰する一冊である。 衆議院議員選挙の違反者数の推移の変化を元に、書では以下の五つの時期に分類している。 一期:第一~九回(189

    「選挙違反の歴史―ウラからみた日本の一〇〇年」季武 嘉也 著
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    advblog 2014/02/06
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