(´・ω・`) リンク引用無断転載素材の持ち出し等 自由にして下さい。尚、著作権は著作権者が有します。 ユアコースシリーズ 25 世界の恐怖怪談 昭和52年5月1日 発行 読めるギリギリくらいの画質にてup 容易に入手して読める書籍はupしませんが 比較的 入手困難で、復刊予定もなさそうなので上げました。 復刊する機会があれば即削除しますし。 できればそのほうが有難いのですが。
(´・ω・`) リンク引用無断転載素材の持ち出し等 自由にして下さい。尚、著作権は著作権者が有します。 ユアコースシリーズ 25 世界の恐怖怪談 昭和52年5月1日 発行 読めるギリギリくらいの画質にてup 容易に入手して読める書籍はupしませんが 比較的 入手困難で、復刊予定もなさそうなので上げました。 復刊する機会があれば即削除しますし。 できればそのほうが有難いのですが。
戦争は、私が少女であることを許さなかった 幼いころから戦争が終わるまで、私は満州にいました。そのころ常に考えていたのは、「もっと戦争のために、自分ができることはないのか」ということ。〈欲しがりません勝つまでは〉をたたきこまれた軍国少女は、「どんなにひもじくても、食事のときは子供茶碗一膳しか食べない」という決まりを自発的に守っていました。 そのうえに配給制がはじまり、子どもたちはどんどん栄養不足になる。弟は脳脊髄膜炎になり、私も妹も猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、生死の境をさまよいました。全身の皮膚がずるむけになってね。痛くって痛くって……。 栄養失調で死ぬ人を何人も見ましたね。特に、満州から日本に引き揚げるまでの難民生活の中では、いくつ子どもの死体を見たか、わかりません。お墓をつくる余裕もないから、枯れ木みたいになった死体を裏山の穴に捨てるのです。 そんな環境で生きるなかで、私の生理は止
鶴見俊輔さんが戦地で味わった恐怖 哲学者の鶴見俊輔さんが亡くなった。93歳だった。 「安保の夏」に逝くなんて、もっと生きていてほしかった。鶴見さんが何かあったら発言してくれる。そう思うだけで、心強い気持ちになれたのに……。 あれこれ感慨にふけっていたら「SEALDsKANSAI」のメンバーである塩田潤さん(24歳・神戸大大学院生)の「鶴見さんたちの存在があるから僕たちがある」というコメントが朝日新聞に載った。 さすがSEALDsの一員である。鶴見さんという「どんな教条からも自由な知性」(社会学者の上野千鶴子さんの言葉)が耕した土壌があるから、彼らの反安保運動が広がるのだとちゃんと分かっている。 では、なぜ鶴見さんは戦後を代表する思索者になったのだろう。その理由は『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二の共著・新曜社刊)で余すところなく語られている。 祖
「対論・異色昭和史」鶴見俊輔/上坂冬子 確かに異色対談。 鶴見俊輔さんと上坂冬子さんで共通項目があるのか? 意見がかみ合うのか? 私は知らなかったのだが、上坂冬子さんは元々『思想の科学』出身。 『思想の科学』は鶴見俊輔さんが丸山真男さんらと立ち上げた。 すなわち、鶴見俊輔さんが上坂冬子を見いだして育てたようなもの。 少なくとも、切っ掛けを与えた。これは重要。 立場と主張を異にするようになっても、鶴見俊輔さんは上坂冬子をかわいがっていたように感じる。 上坂冬子も憎まれ口をたたきながらも、慕っていた。 少なくとも、この対談を読む限り、そのように感じる。 まぁ、そんなことより、実際の対談を一部紹介する。 歴史秘話ヒストリアじゃないけど、エピソード満載。 P102 鶴見:天皇の人間宣言の原文は英語ですよ。あの英語に強い印象を受けた。それもアメリカ人が関与する前に首相の幣原喜重郎が書いたんだ。彼は非
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く