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ブックマーク / orion12.hatenablog.com (370)

  • 恒久的な安定や安心を求めだすと心は迷う - 『クリアー整体ヒーリング』です

    眼に見えない世界の情報というのは現実に裏付けが取れないことのほうが圧倒的に多いです。 だから、幾ら物っぽく感じたとしても眉に唾付けて『3割引』くらいで捉えておいたほうが無難ではないでしょうか? この『3割引』の視点というのは物事を俯瞰的に見るためには随分役に立ちます。 世の中白黒ハッキリした所謂『正解』が、いつでもどこでも用意されているなんてことはありえないのです。 大体は曖昧さの中を手さぐり足さぐりしながらぼんやりした答えに半信半疑になりながら一歩一歩進んでいくしかないわけです。 元からそういうものなのです。 ただ、スピリチュアルや自己啓発と呼ばれているモノの目的の多くは、「世界は自分の為にある!」なんて思えてしまうほどの『万能感』や「自分に出来ないことなんてない!」と信じてしまえるほど『高揚感』を手に入れることのような気がします。 曖昧さの中を手さぐり足さぐりしながらぼんやりした答え

    恒久的な安定や安心を求めだすと心は迷う - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 結局『鈍感力』は人を幸せにしない - 『クリアー整体ヒーリング』です

    この世界から見て人間というのは質的に無知な生き物です。 人間ごときが何でもかんでも分かるわけがないのでそれは当たり前です。 でも、知らない部分は何かで補わなきゃなりません。 その何かとは簡単にいえば想像力です。 ここでいう想像力とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きのことです。 先ず自分の無知を皮膚感覚で知ることが想像力を養う第一歩です。 逆に知ったつもりになればなるほど想像力を失っていきます。 すでによく知っているなら (あくまでその人にとってですが) それ以上想像力を巡らす必要なんてありませんので。 一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きが鈍くなると感情や感覚が鈍感になります。 他者に対してはもちろん、そのうち自分の感情や感覚にまで鈍感になっていくでしょう。 鈍感は人間らしさを失う第一歩です。 しかし、激烈に競争する社会を生きていくための『あ

    結局『鈍感力』は人を幸せにしない - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 記念日という一種の呪術と現世的影響 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    森羅万象すべてのモノには波動エネルギーがあります。 だから言葉にも波動エネルギーがあるのです。 今まで何度か申し上げてきた「呪をかける」という行為もまたその言葉のエネルギーを使っています。 ここでいう「しゅをかける」とは強い言葉で相手に衝撃を与え心に『隙間』を作り、そこに不安や恐怖を打ち込んで縛ることです。 『言葉』のチカラを使って人の心をコントロールするために為されるモノです。 それは『他者』の心を支配し、時に『場の空気』まで支配しようとする呪術です。 なので、「呪をかける」という行為は最初は特定の個人なり集団によって行われるものです。 ただ、繰り返しかけれた呪はいつしかそれ自体が独り歩きし出します。 個人の手を離れ社会的な禁忌になり、エネルギー的には人を縛るモノとして眼に見えない効果を発揮し出したりするのです。 「呪をかける」というのは言葉に特別な『意味』を与えることとも言えるでしょう

    記念日という一種の呪術と現世的影響 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 身体は魂の依り代である - 『クリアー整体ヒーリング』です

    生物と無生物ではエネルギーの強さも量も全然違うのです。 無生物のエネルギーは生物のエネルギーに比べて圧倒的に微弱です。 例えば人間の想念エネルギーの値を仮に100とした場合所謂パワーストーンと呼ばれる鉱物の値は1.0~2.0くらいです。 生き物と生き物でない物の『エネルギーの強さ』の差とはかくの如きものです。 もちろん物には物で、それぞれに固有の波動エネルギーは存在します。 ただ、生きている者のエネルギーに比べてそのチカラは微弱です。 スピリチュアル界隈にはパワーストーンと呼ばれる鉱物があります。 ある種の石には眼に見えない強いチカラが宿っているという考えなのだと思います。 ただ、それらの石も上記に述べたのと同じ物の一つです。 スピリチュアルな方々が期待されるような眼に見えない強力な『パワー』は元々ありません。 生き物ではない『無生物』には元より魂ってモノはないのです。 魂がないということ

    身体は魂の依り代である - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • ポジティブとネガティヴはニコイチでセットです - 『クリアー整体ヒーリング』です

    自動車には『アクセル』と『ブレーキ』が付いています。 だからこそ自由に動き出したり止まったり出来るのです。 『ブレーキ』と『アクセル』は二つで一つのセットです。 どちらか一つだけならまともにクルマは動けません。 その二つを切り離して考えることには無理があります。 人の心でいえば、アクセルは『ポジティブ』、ブレーキは『ネガティヴ』です。 言葉を変えれば、アクセルは「前に向かって行きたい心」、ブレーキは「現状維持したい心」とも言えるでしょう。 じゃあ、なぜそもそも心にはアクセルとにブレーキが付いているのでしょうか? それはクルマと同じで、危険を回避しながら早く進むためです。 ポジティブばかりでは、イケイケどんどんで危険を回避できません。 かといってネガティブばかりでは、前へ進んでいく気持ちにはならないのです。 だから、人間にはアクセルも必要だし、ブレーキも必要なのです。 もしネガティブが全くな

    ポジティブとネガティヴはニコイチでセットです - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 『環境保護』という名の大きなお世話のカタマリ - 『クリアー整体ヒーリング』です

    人間はすぐに自然を支配したがりますが、人間が自然を支配下に置くって考え方自体傲岸不遜ではないでしょうか? それって不自然で、無理があるのです。 何故なら、人間は自然というモノのごく一部だからです。 自然の中に人間がいて、動物がいて、植物がいるのです。 自然にとっては人間が特別だったことはないし、これからも特別であることはないでしょう。 私の場合「人間って地球で一番偉いんだぜぇ!!」的な世界観を抱いたことがありません。 逆に「人間ってなんて出来損ないの生き物なんだろう」という想いがずっと離れないのです。 それは大層な思索探究の末に辿り着いた結論などではなく子供の頃からずっと心の奥にあるものなんですよね。 自然を支配したがる人ってのは根っこの部分に「人間って地球で一番偉いんだぜぇ!!」的な世界観があると思うのです。 というかそれがなければ自然を支配しようなんてそもそも思わない気がします。 環境

    『環境保護』という名の大きなお世話のカタマリ - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 勘と違和感と危機察知能力 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    先入観ガチガチな人が使いがちな言葉或いは考え方に「気のせいだ」ってのがあります。 日常的に対してもよくそういう言葉を使う人は、自分の考えと大きく違う事象については「気のせいだ!」「見まちがいだ!」「勘違いだ!」と捉えがちです。 自分の感覚を素直に感じず、起こった出来事を先ず自分の思考の枠に何とか当てはめようとするから、そうなるのです。 それを日常的に繰り返せば必ずその人の感覚は鈍くなっていきます。 わざわざ鈍くなるようにクセを付けてるからそうなるのです。 勘を働かせるためには『五感の鋭さ』が必要であり、五感の鋭さを鈍らせないような『心の在り方』が必要になってきます。 勘が生まれる過程で必ず理屈を飛び越えて感覚的に何かを知るという現象が起こるからです。 この「理屈を飛び越えて感覚的に何かを知る」という現象に素直になれるかどうかが勘を働かすための重要な要素になります。 そういう現象を「気のせい

    勘と違和感と危機察知能力 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 波動のレベルを高めるための一番簡単な方法 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    波動のレベルの高いモノはフワッと軽くてスカッと明るく、波動のレベルの低いモノはドヨヨ~ンと重くてジトッと暗いのです。 別の言葉で言えば波動のレベルの高いモノは穏やかで温かく、波動のレベルの低いモノは荒々しく冷たいのです。 ここでいう波動のレベルというのは「人が出来るだけ自然で無理なく在るための目印」のようなモノです。 波動のレベルを上げたければ、現在の自分より波動のレベルが高いと感じられる人・物・場所を日頃からコツコツ選んで親しむように心掛けるといいです。 波動のレベルの高いモノを見極めるためのコツは、出来るだけ心をクリアーにして己が『直感』を大切にすることです。 具体的には、フワッと軽くてスカッと明るく感じるモノや人に親しみ、ドヨヨ~ンと重くてジトッと暗く感じる場所や出来事を出来るだけ避ければいいのです。 或いは何時も穏やかで温かくあろうと心掛けて、荒々しく冷たい態度は極力取らないように

    波動のレベルを高めるための一番簡単な方法 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 予言と破壊衝動 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    所謂『予言』ってヤツは『当人にだけ都合のいい一発逆転』を求める人の最後の拠り所なのでしょう。 少なくともそういう願望を抱く人にとって都合の良い『設定』なのは確かです。 それは、「この世界そのものが一旦ガラガラポンされて、それまであった都合の悪いモノが全て粉々になってから新たな出発をする」というような『設定』のことです。 その『設定』には「それをカミサマみたいな善いモノがずっと昔から望んでいるのだ!」みたいな『設定』が2段重ねで乗っかっています。 なので、所謂『予言』というのは「この世界にルサンチマンを抱く者の破壊衝動の産物だ」と言い換えることができます。 噛み砕いていえば「オレが気出したらこんなモンじゃねぇ! オレが評価されない世の中なんて一度全部滅んじまえ! 滅んだ後はオレ様仕様のパラダイスがきっとやって来るはずだからな!」みたいな願望の具現化なのでしょう。 所謂『予言』というのはルサ

    予言と破壊衝動 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 視野の狭い人の使いたがる言葉 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    人間というのは質的に無知な生き物です。 人間ごときが何でも分かるわけがないのですから当たり前です。 でも、知らない部分は何かで補わなきゃなりません。 その何かとは簡単にいえば『想像力』です。 ここでいう『想像力』とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きのことです。 先ず自分の無知を皮膚感覚で知ることが『想像力』を養う第一歩です。 逆に知ったつもりになればなるほど『想像力』を失っていきます。 全能感ほど無知から遠いモノはないからです。 ここでいう全能感とは何でも知っていると思い込むココロのことです。 「全能感が強い」というのはそれだけ「心の視野が狭い」ということを意味します。 心の視野の狭さとは人間に来備わった危機察知能力によって感じられるはずの感覚が十分感じられなくなった状態のことです。 心の視野が狭くなるほど周りのことなんて見えなくなります。 見えて

    視野の狭い人の使いたがる言葉 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 時代の変化とエネルギーの変化 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    私のヒーリングを受けた方はご存知ですが、ヒーリングをしている時というのは時々ゲホゲホとかいう以外は見た目は基黙って静かな状態になります。 「何やってんだ? このおっさんは~」って感じかもしれません(^_^;) そういう時に何が起きているのかというと簡単にいえばあまり良くないエネルギーが出てきているのです。 あまり良くないエネルギーを線香の煙みたいなモノと捉えてもらえれば分かりやすいのではないでしょうか? 線香の煙がブワッと顔にぶつかった感じと申しましょうか… まあ、いつも必ず咳き込むわけではないです。 また正直「どうして咳き込む時とそうじゃない時があるのか?」その違いについて深く考察したことはありません。 ただ、「咳き込んだら良くないモノが出てきてるだろうな」ということを経験則として持っているのは事実です。 ヒーリングで浄化する相手には生きてる人の想念エネルギーや亡くなられた方々やら物の

    時代の変化とエネルギーの変化 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 波動のレベルが下がればその分人間らしい感受性を失う - 『クリアー整体ヒーリング』です

    波動のレベルの高いモノはフワッと軽くてスカッと明るく、波動のレベルの低いモノはドヨヨ~ンと重くてジトッと暗いのです。 別の言葉で言えば波動のレベルの高いモノは穏やかで温かく、波動のレベルの低いモノは荒々しく冷たいのです。 波動のレベルが下がれば下がるほど、より波動のレベルの低い人•物•場所に親近感を持ちやすくなります。 「親近感を持つ」ということは、「それらがウエルカムな心の状態になっていく」ということです。 何が怖いってその心の状態になるのが一番怖いわけです。 何故なら、そのことによって他人からすればドン引きするようなモノを自慢して見せるような『鈍感さ』を手に入れてしまうからです。 すなわち、それは波動のレベルの高いモノに対する共感性を失うことを意味しています。 波動の低くなった人が行き着く果てを一言で表すなら「ストーカー的な気質」です。 「ストーカー的気質」になると「相手の気持ちを察す

    波動のレベルが下がればその分人間らしい感受性を失う - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 心のノスタルジー濃度を濃くしすぎない方が生きやすい - 『クリアー整体ヒーリング』です

    とにかく「昔は良かった!」っていう人がいらっしゃいます。 堕落した『現在』と理想郷であった『過去』を対比させるような心の在り方です。 昔の人は立派で純粋で、今の人間は心も身体も堕落してしまったと考えているのかも知れません。 「時代を経るにつれ世界は段々ダメになる」って考えるのは仏教の末法思想やユダヤ・キリスト教の終末思想もそうですし、古今東西よくある考え方なのでしょう。 私からしたら時代が進むほど世の中なり人間なりがダメになるって考えるのは、「現在進行形の『世界』を呪詛してるだけだろう」と感じてしまいます。 当は大して良くもなかった『過去』を持ち上げることで、今ここにある自らの不遇を『世界』のせいにしようとしているだけだとね。 非常時の今の世の中においては、理想郷であった『過去』は『古き良き日』として表現されたりします。 そして、「昔の日は今のような『堕落した道徳なき国』などでは決し

    心のノスタルジー濃度を濃くしすぎない方が生きやすい - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 創造主というモノを設定した人類と眼に見えない大きな存在 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    ここでいう所謂カミサマってのは何かと申しますと「これまで世界のどこかで人間によって崇め奉られてきた眼に見えない存在全般」を指します。 そのカミサマの所謂一つの正統性だの妥当性だのってモノには関係なくね。 今回に限らず私がカミサマって言う時はそういうモノのことを想定しているとお考えください。 簡単にいえば「時代や地域に関わらず誰かが神さまって呼んできた眼に見えない存在はとりあえず丸ごと全部カミサマという『ジャンル』に分類しますよ」ってことです。 じゃあ何故そんな風に神を規定するのか?というと、そもそも見えない『何か』に神という名を付けたのは他ならぬ人間だからです。 「神というのはあれでそれでこれで、こういうモノなんだ!」みたいな概念を造ったのが人間だってことです。 もっと簡単にいえば、何処かの誰かが神さまって呼びたい何かを「これは神さまだよ〜」って呼んでるだけの話です。それ以上でもそれ以下で

    創造主というモノを設定した人類と眼に見えない大きな存在 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 操れる系と「禍福は糾える縄の如し」 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    人生は絶え間ない出会いと選択の連続によって成り立っています。 出会いと選択があればそこには自ずから吉凶禍福が糾える縄の如く現れてきます。 それを人は運といいます。 、運とは人・モノ・場所との出会いとその際における選択から生まれるのです。 そうやって生まれた『運』が巨大なジグソーパズルのピースのように繋がっていきます。 一見繋がって無いようなピースも何処かで何かと繋がって最後は『大きな一つの絵』になるのです。 その大きな一つの絵を人は『運命』と呼ぶのだろうと思います。 しかもそのパズルは一人の人間だけで完結するものではありません。 人の一生という小さなパズルはもっとずっと巨大な世界というパズルのささやかなワンピースに過ぎないからです。 もっと言えば古今東西世界で起こった出来事の全ても途轍もなく巨大なジグソーパズルの一欠片として存在しているってことです。 一人の人間の運というのもまた同じジグソ

    操れる系と「禍福は糾える縄の如し」 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • ホンモノの神とニセモノの神 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    ここでいう所謂カミサマってのは何かと申しますと「これまで世界のどこかで人間によって崇め奉られてきた眼に見えない存在全般」を指します。 そのカミサマの所謂一つの正統性だの妥当性だのってモノには関係なくね。 今回に限らず私がカミサマって言う時は『そういうモノ』のことを想定しているとお考えください。 簡単にいえば「時代や地域に関わらず誰かが神さまって呼んできた眼に見えない存在はとりあえず丸ごと全部カミサマという『ジャンル』に分類しますよ」ってことです。 じゃあ、「何故そんな風に神を規定するのか?」というと、そもそも見えない『何か』に神という名を付けたのは、他ならぬ人間だからです。 「神というのはあれでそれでこれで、こういうモノなんだ!」みたいな『概念』を造ったのが人間だってことです。 もっと簡単にいえば、何処かの誰かが神さまって呼びたい何かを「これは神さまだよ〜」って呼んでるだけの話です。 その

    ホンモノの神とニセモノの神 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 憑かれやすいココロと偏った心 - 『クリアー整体ヒーリング』です

    所謂『憑かれる』といってもオカルト系の漫画みたいにド派手な怪奇現象が起こるなんてことはそうそうはありません。 もし起こったとしても随分状況が進行した段階でのことです。 それも誰にでも分かることってのは少ないでしょう… 憑きモノってのは最初はその人の内側からジワジワとゆっくり浸していきます。 浸した部分はその人じゃないモノにアハ体験のように差し替えられていくのです。 アハ体験というのは、差し替えられた部分がご人からは分かりづらくなってるという意味です。 意識して見れば違うのでしょうが、意識しなければ中々違いが分からないでしょう。 差し替えられた部分が大きくなればなるほど周りから見れば明らかにオカシク見えるようになります。 良くない意味で変化が表面にまで現れるってことです。 ただ、幾らオカシクたってその人が自分のオカシイことにピンと来なければそのおかしさに遅かれ早かれ慣れてしまいます。

    憑かれやすいココロと偏った心 - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 勘の大切さとココロの鈍感さ - 『クリアー整体ヒーリング』です

    人間生きてれば笑いもすれば泣きもします。 怒ったりも羨んだりもするものです。 快楽もあれば苦痛もあります。 そうした身体や心に起こる大波小波を日々乗り越え、また乗り越えてゆくのが『人間の日常』なんだと思います。 そういった『人間の日常』に根ざしたありふれた平衡感覚を先ず大切にすることが心がオカシげな方向を向いて突っ走らないようにするための最終的な羅針盤になるのです。 それは例えば「(理由は分からないけど) 何だかこれべたら危ないぞ⁉︎」という所謂『勘』や「(特に何があったわけではないけど) この店何か良くないなぁ(ー ー;)」という感覚のことです。 生きるためにこの世の動物に遍く与えられた危機察知能力と申しましょうか… つまり、勘ってのは選ばれた特別な人だけが持つ特殊能力などではないということです。 それどころかどこにでも誰にでもある、もっと言えば人間以外の生物も持っている生きるためのチ

    勘の大切さとココロの鈍感さ - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 運命は『選択』と『出会い』と『タイミング』によって決まる - 『クリアー整体ヒーリング』です

    人生は絶え間ない『出会い』と『選択』の連続によって成り立っています。 『出会い』と『選択』があれば、そこには自ずから吉凶禍福が糾える縄の如く現れてきます。 それを人は運といいます。 つまり、運とは、人・モノ・場所との『出会い』とその際における『選択』の数々から生まれるということです。 そうやって生まれたたくさんの『運』が、巨大なジグソーパズルのピースのように繋がっていきます。 一見何とも繋がっていないように見える一つのピースも何処かで何かと繋がって最後は大きなパズルの絵となるのです。 それが『運命の大きな流れ』なんだろうなと思います。 しかもそのパズルは一人の人間だけで完結するものではありません。 人の一生という小さなパズルはもっとずっと巨大な世界というパズルのささやかなワンピースに過ぎないからです。 もっと言えば古今東西世界で起こった出来事の全ても『途轍もなく巨大なジグソーパズルの絵』の

    運命は『選択』と『出会い』と『タイミング』によって決まる - 『クリアー整体ヒーリング』です
  • 勘を大切にすることが最後には自分を助ける - 『クリアー整体ヒーリング』です

    波動的な変化を知るためのサインの一つとして『耳鳴り』があります。 いつでもどこでも誰にとってもサインになるとは限りませんけどね。 単に体の不調のサインである場合もありますし。 ただ、何かいつもと違うことが起こり、それに引っかかるモノを感じる時は、何であれ「変化の兆し」として気を付けておいたほうがいいでしょう。 そこんところを「単なる気のせいにして無視してしまうか、それとも少しでも心に留めるようにしておくのか」が運命の分かれ目になるなんてことも十分あり得ることですので。 「単なる気のせいにして無視してしまうか、それとも少しでも心に留めるようにしておくのか」どちらを自分の心のクセにするかで五感の鋭さに差が現れます。 五感の鋭さの差というのは、勘の鋭さの差を生みます。 繰り返しになりますが以上を改めていうと、感覚に引っかかるモノをおざなりにせず、何かあるのかなぁと心の眼を凝らしてみることをクセに

    勘を大切にすることが最後には自分を助ける - 『クリアー整体ヒーリング』です