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文学と思想に関するakihiko810のブックマーク (6)

  • 辺境からの便りーーポストコロニアル文学と批評をめぐって

    ポストコロニアリズムには、なぜかくも誤解やら対立が多いのだろうか。二つの理由があると思う。一つの理由はサイード自身にある。サイードのを何冊かちょっと吟味してみると分かるのだが、『オリエンタリズム』だけは突出して読みやすく単調な議論で埋め尽くされているのだ。これが当にサイードの著作だといえるのだろうか? とくに注目したいのが『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』の前半部との間にあるギャップである。どちらも主著なのであろうが、前者をポストコロニアリズムの基書と理解する人と、後者をポストコロニアリズム的思索の事例と考える人とでは、ポストコロニアリズムの解釈が大きく異なってきてしまうのだ。私の立場はどうなのかといえば、『オリエンタリズム』のナイーブで単純な議論を真に受けてはいけないし、初学者は読んではいけないであるとすら思う。ポストコロニアル理論を理解したかったら、サイードでいえば『文化

  • フロイトのドストエフスキー論 - heuristic ways

    フロイトがドストエフスキー論を書いているのは知っていたが、今回初めて読んだ。図書館で中山元訳の『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社古典新訳文庫)を見かけたので、借りてみたのである。「ドストエフスキーと父親殺し」は一九二八年、フロイト(1856−1939)が七二歳のときに書かれている。年譜を見ると、一九二七年には『幻想の未来』、三〇年には『文化への不満』を刊行しており、後期フロイトが精神分析の理論を宗教や文明批判、政治理論などにも応用していた時期に当たることがわかる。  フロイトはドストエフスキーを「詩人」としてはきわめて高く評価しながらも*1、「道徳家」や「罪人」としては手厳しく批判し、結局のところ、「神経症患者」として精神分析の対象としている。 私が興味深いと思ったのは、ドストエフスキーの「道徳家という<顔>」を批判しているところで、フロイトは、「道徳性の高い人物というも

  • 弊社インターネットサービス等の提供終了について

    弊社は、1985年5月の創業以来、パソコン通信サービスを皮切りに、1999年には国内初の商用ADSLサービスを開始し、近年ではFTTHを利用した接続サービスを展開するなど、様々なインターネットサービス等を提供して参りました。これもひとえに皆さまのご愛顧によるものと深く感謝しております。 しかしながら、設備の老朽化により、サービスを維持することが困難となったため、この度インターネットサービス等の提供を終了することにいたしました。 今までご愛顧いただきましたお客さまには深く御礼申し上げますとともに、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

    弊社インターネットサービス等の提供終了について
    akihiko810
    akihiko810 2012/06/25
    ドストエフスキー 研究
  • Toward the Sea

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)However, the thing to add immediately is that the desire staged in fantasy is not the subject’s own, but the other’s desire, the desire of those around me with whom I interact: fantasy, the fantasmatic scene or scenario, is an answer to “You’re saying this, but what is it that you effectively want by saying it?” The original question of desire is not directly “What do I want?”

    akihiko810
    akihiko810 2011/11/02
    >読書ノート(ほとんど引用からなっています)
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    カカオからチョコレート作ったレポ ごきげんよう!先日フリーテーマの全社プレゼンにてサロンデュショコラをテーマにしてそこそこ好評を得ると同時にうっすらやべえ奴感を植え付けることに成功したオタクです。 さて、先日、同僚に「チョコレートを作ったりはしないんですか?」と聞かれまして。 ご人…

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  • 東京永久観光(東京猫の散歩と昼寝)

    思い返せば、あれを知ったのもこれを考えたのも特定のあるがきっかけだった。読書こそ知識と思考の源泉。そのことは5年、10年の単位で思い知るものだ。ところが、とは忘却もまた甚だしい。杞憂ではない。久しぶりに再読すると必ず同じところに線を引こうとする。だったらメモしなさい。まったくその通り。実際パソコンに打ち込む読書メモは増え続けている。しかも何年か後、自分で残したそのメモは予想を超えて再利用できる。そのこともしだいに強く実感するようになった。それにだいいち、で読んだことは自分の言葉にしてこそ定着する。それもどうやら当だ。逆にいうと、読書の利得は、そのままではまちがいなく流出してしまう。だがそれを思い知った今となっては、なにか読んでいて「なるほど」と納得するのはうれしいが、同時にそれを忘れてしまうことが予測され、いやでしかたがない。だからメモをしなくちゃと思うのだが、それがまた煩わしくて

    akihiko810
    akihiko810 2010/05/20
    高橋源一郎についてなど>東京永久観光
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