タグ

ブックマーク / sleepingarea.seesaa.net (3)

  • アルトー『演劇とその分身(演劇とその形而上学)』: 外灯都市

    アンドレ・ブルトンの『魔術的芸術』で味をしめまして、もう少しシュールレアリズム系のが読んでみたくなり、アルトーの『演劇とその形而上学』を古屋で買ってきて読みました。 これは『演劇とその分身』というタイトルで新訳が出ています。が、ぼくは古屋で安価で売ってるのを買ったんで、読んだのは旧訳のほうです。おそらく新訳のほうがいいんでしょうね。旧訳は訳者があとがきでこのを「独断と偏見と誤謬に満ちた詩人の叫びでしかない」とか書いていて、おもわず「おいおい」とツッコミを入れたくなってしまいました。そんな理解で訳してたんですね。 けれど、ブルトンの『魔術的芸術』あたりを補助線にして読んでいけば、それほど奇説が書いてあるわけでもない気がします。それでも充分に普通ではないのですが、「独断と偏見と誤謬に満ち」ているとは思いません。 それにしても凄いですね。 アルトーの演劇に対する見方はブルトンにおける「

  • 外灯都市

    どうも和歌というものが藤原定家が活躍した時代にひとつの頂点をむかえ、その後停滞していったということがわかってきました。ではその後、日の詩というものはどうなっていったか、ほんとうに芭蕉の俳句あたりまで停滞しつづけたのかというと、どうも観阿弥・世阿弥などの能(謡曲)というのは定家時代後の日の詩の新しい展開だったんじゃなかったのかという気がしてきて、すこし能(謡曲)というものを読んでみることにしました。 西洋であっても戯曲というのが詩の言葉で書かれるのは普通だし、だからシェイクスピアなど名劇作家は同時に詩人でもあります。そして能(謡曲)というのも詩の言葉で書かれているようです。そうおもうと、能(謡曲)は日における長詩というべきものではないかという気がしてきて、いやがうえにも興味が高まったのです。『神曲』を読んで以来、日にもこういったタイプのものはなかったのかと探していたからです。 それで

    akihiko810
    akihiko810 2010/06/08
    >短歌をのせながら、浮かんだことをメモしていく場所
  • 穂村弘『短歌という爆弾』: 外灯都市

    穂村弘の『短歌という爆弾』というがブックオフで105円で売っていたので、買ってきて読んでみました。じつはあまり期待していなかったのですが、これはおもしろかったです。しかしそれは短歌の入門書としておもしろいというのではなく、穂村弘という奇妙な人間を描いた診断書みたいなおもしろさをかんじたのです。 以前、ネットで短歌関係のサイトをあちこちいいかげんにサーフィンしているとき、たしか藤原龍一郎さんが(間違っていたらすいません)こんな批判をしているのを読みました。それは「穂村弘の短歌はすべて既成の元ネタがあり、自分はその元ネタがすべてわかる。そういう目でみると穂村弘の短歌はたんにその既成の元ネタを短歌の定型にあてはめただけのものにすぎず、オリジナルの部分がまるでない。自分はそのような作品とも呼べないようなものを評価することはできない」というような内容だったとおもいます。 ぼくとしては世代が違うせい

  • 1